虎飛び出し注意

8

 それほど気にしていないように思えても、根底のどこかでは自分のことを、不幸だ、と感じていたのかもしれない。それを含めて、二三日自分のことばかり考えていたようだった。自分の頭の蠅を追えとも言うものの、それを差し置いてもそのことに気づかなかった事実に、竜児はショックを隠せなかった。
 しかも少なからず、目下竜児の頭にたかる蠅、もとい虎――ひどく例えは悪いが――の動向とも関わりのある人物のことである。
 元気がないな、とは思っていた。だからといって。
「ねえ竜児……」
 ほぼ真下から聞こえた声から感じる意図は、ひとまず休戦、といった様子。私たちのことはしまっておきましょうと似合わない心得顔の大河だった。原因の一端に自分が噂されていることに負い目でも感じているのか、言葉にはしなかったもののともかく竜児にとってもありがたい申し出、的な意図ではあった。
「北村」
 後ろから声をかけたのは放課後のこと、大河は何か遠慮めいた躊躇いを理由に先に帰っていた。
 できたら竜児としては大河も一緒に来てほしかった。一つには北村をして、「全部やめる」なんて投げやりな言葉を叫ばせる理由を聞くのが、一人では少し怖かったからだ。
 もう一つの理由は竜児には上手く説明できるほど考えを整理する時間がなかったのだが、たぶん余りにも常に一緒に居すぎて、例えば帰り道傍らにその姿がないと落ち着かず、空に太陽が見えないとか、部屋に窓がないとか、教室に黒板がないとか、当たり前にあると思っているはずのものが不在のときに感じる違和と同種のそれが、その理由のそのまた一因になっているのだろう。
 竜児にとって大河は余りにも当たり前な存在となっていた。その上、昨晩から竜児の脳内は大河一色である。
 そういう意味では、やはり今は大河に居てもらっては困るのかもしれないが。
「ああ……なんだ高須か。逢坂はどうした? 一緒じゃないのか?」
 振り向いた北村の表情は見ようによっては竜児の凶悪に鋭い目つきより正視に耐えがたいものだった。北村を知るものにとっては特に。やつれているとか、疲れているとか、そういう形容ともまた違った生気のなさ。暑苦しいほどの気力に満ちた普段からは全く想像できない風の腑抜けぶりで、言うなれば北村駄作といった体。何か一つのことに気を取られているためにほかのことを構っていられないようだったし、何一つ考えられない呆然の境地であるようにも見えた。
 とはいえそんな状態の者にすら四六時中二個イチでいないことを疑問に思われるほど、傍目にも自分たちがセットで考えられていることも、竜児には少なからず感慨のようなものがあったが。
「お前な……なんだじゃねえよ。大河なら用事があるっつって先帰ったけど、まあこの際あいつのことはどうでもいい」
 並んで歩き出しながら、竜児は小さな物体を脇へどかす仕草をした。
「そんなことはないだろう。逢坂は重要だぞ。高須と逢坂が一緒にいないなんて問題に比べたらほかのことは全て瑣末事だ。恋ヶ窪先生が独身でおられないとか、素直でいい子な亜美とか、変じゃない櫛枝のように不可解かつ驚愕の事実だ」
 北村は心底どうでもいいことに引っかかった。死んだような目をしている割にはよく口が回る。何か言いたくないことを糊塗するかのように。
「なんでそこまで重大だよ。重要度で言ったら精々能登が時々コンタクトにするくらい心底どうでもいいよ。お前俺たちを不断の愛を誓った恋人か何かだと思ってんだろ」
 出てくるたとえがおかしい。竜児は自分の発したフレーズにドキッとした。言うなれば心臓が不整脈的な動きをしたのだ。
「恋人……恋人ね。お前たちの場合はいっそ夫婦だ」
「た、確かに泰子は完全にウチの子扱いしてるけど……って、違う違う、なに言ってんだ……あー、だからこんな話したいんじゃなくてだな」
 竜児が言葉を探して意味もなく前髪を引っ張っていると、殆ど聞こえるか聞こえないかの声で、北村がぼそっと呟いた。
「……羨ましいよ」
「え?」
「いや?」
 なんでもないさ――北村は夕焼けを眩しそうに見て、深々と嘆息した。
「……まあでも実際珍しいよな、高須と逢坂が一緒じゃないのは。かえって新鮮だよ」
「いや、だからそれは」
 北村はどうしても話を逸らしたい様子だったが、その割に態度はいかにも悩ましげで、口では全然関係のないことを喋ってその内実は別のことに気を取られている風で、本当はそんなことを話したいようには見えない。余計はおしゃべりは北村の中で何か葛藤が起きていることの表れなのかもしれなかったし、意図的に自分自身の意識をも逸らせようとしているかもしれなかった。
「そういえば朝も別々だったな。ケンカしてるってわけじゃないんだろうが。高須は高須で意味もなく掃除してるし」
「ばかやろう。意味はあるし高須竜児が掃除をするのは人間が呼吸をするのと同じように自然なことだ」
 そうとも、うんうん。こと掃除に関しては一家言ある竜児である。自分の趣味を意味もなくなどと評されては黙っていられず、話を進めたいのにうっかり乗ってしまう。案外竜児も、北村自身の話をすることにためらいがあったせいもあるのかもしれない。
 北村のことは心配だけど、どこまで踏み込んでいいものか分からないのだ。
 しかし、あれだけ燃え尽き症候群な一日を過ごしてはいても、身体に染みついた委員長体質なのか、意外に周りのことは見ていたらしい。
「櫛枝もなんだかいつもと違ったしな。何かあったのか? 亜美もさっき……いや、いいか」
「よかねえけどよ」
 気になることを言う。竜児とて親友の様子に気づくまでは自分のことに気を取られていたのだ。ともすれば思考は逸れがちだった。思わせぶりなことを言われればなおさらである。
「俺の話はいいだろ、ほんと」
「いや、高須よ」
 北村は物悲しげな目で竜児を見て、
「俺のことは……正直今は、少し、話したくないんだ……高須の話が聞きたいな。高須と、逢坂の話を」
 誤魔化すのはやめて、拒絶した。竜児はそこで二の足を踏んだら、また後悔する羽目になるんじゃないかと思った。けれど踏み込んだらそれはそれで、失敗するかもしれない。やらないで後悔するよりは、断然いいのだけど。
 北村のことは心配だが、本人が話したくないと言った以上、おそらく気が変わるなんてことはしばらくないだろう。「今は」という期限に期待して、少しばかり待ってみるべきなのかもしれない。
「分かったよ……分かった。っつっても何から話ししたらいい? 大河の失敗談でも聞きたいのか? あいつの私生活なんて恥じるところしかねえぞ」
「はは……それは、ちょっと見てみたいもんだ」
 力ない笑いだったが、それでもないよりは、虚ろな顔をされているよりはマシというものだ。大河の笑えないドジくらいで親友がちょっとでも元気になるのなら、大河のプライバシーなど一顧だに価しない。あらゆる恥を開陳してしまえばいいと思う。
「いや、何というか、話は戻るが、お前たちがケンカしてるわけでもないのに登校も下校も別々だなんて、本当に珍しいと思ってな」
「……確かにな。すげえ違和感だよ」
 懐が寂しいというか足元が落ち着かないというか。いつだって目線の下にあるつむじが見当たらないのはそれだけで徹底的に何かしらの欠落を表しているかのようで、喪失感に近い感覚をさえ竜児に抱かせるに充分だった。
 竜児は、できたらあのちっこいバカには、自分の頭上から両肩に触れて地面まで延びる円錐形の範囲内で暮らしていてもらいたいものだ、と妙に感慨深く思った。見える範囲ではなく、手の届く範囲に居てほしいのだ。
 要するに――
「しばらくお前と一緒に帰ることもなかったからな、実は色々と聞いてみたいところもあったんだ」
「そういや、そうだな。帰りはなんかいつもバタバタ慌しくて……主に大河と特売のせいだけど。ああ、でもお前が生徒会に入って以来か」
 話したくない、とは言いつつも北村の目は雄弁だった。生徒会と聞いて微かに細められたその目。決して不快の色でも、それ自体を厭っているわけでもない、ただそれについてもう考えたくないとでもいうような、何かしらのジレンマがそこにあった。
 竜児にさえ、文化祭以来北村の元気のなさは生徒会に起因することなのだと推測できた。それが単に生徒会長になりたくないからなのか、あるいはもっと他に理由があるのか。それ以上の判断をすることはできなかったが。
 とにかく、竜児の言葉に対して口を歪めることでのみで回答としたのは事実だった。
 端的に言えばスルーした。
「……高須と逢坂はいつの間に親しくなったんだ? 余計な詮索と思って聞かなかったが、実は前から結構気になってたんだぞ」
 そうして発した言葉は、微妙に墓穴発言だった。お前のせいだよ、とも言えまい。大河がラブレターを入れる鞄を間違えたことで全てが始まったのだ。大河がドジで、かつ間違いに気づいたあと理由も言わず竜児の鞄を奪おうとするほどの強情っぱりだったからこそ、竜児と大河は親しくなった。
 だから、ある意味、大河は大河であるからこそ竜児と親しくなったのだったが。いずれにせよ、その発端が北村であることは事実だろう。
 お前のせいだよ、と言ってしまうべきだろうか。上手く伝えられなかったとはいえ、大河は一度は北村に告白しているのだ。トイレの裏に呼び出して。関係ないことばかり喋って。どうしようもなく無様ではあったけど。その勇気が、自分が中々持てないでいた勇気が、竜児はまたどうしようもなく羨ましかったものだ。
 ならば、別に話してもいいのだろうか。一度告白して振られて、その後逆に告白されたとき、北村はやんわりと大河を振った。たぶん既に北村の意中に大河は居なかったのだろうけれど、その気持ちは、きっと分かっている。竜児も内心でも認めようとはしなかったが、それでもこの半年、大河は叶わぬ恋に身を焦がしていたのだろう。
 だったら、話してもいいのかもしれない。もとより北村は竜児の親友なのだ。今更隠すようなことでもないことではないだろうか。
 そういう考えに至った自分自身の変化に、竜児は気づかなかったが。
「衝撃的なことを言っていいか?」
「もう二人の間には子が」
「混ぜっ返すなよな」
 ジロ、と貴婦人なら間違いなく気絶する殺人的な視線で睨んでやるが、余人は怯えても北村は慣れたもの、どころか、ああ、高須は目つきが悪いからな、ときっと好意的な解釈で笑み返す。
「悪い悪い、それで?」
 今度は竜児が遠い目をする番だった。何だかんだと自分から敢えて誰かに教えたことはないのだ。大河は事故だし、亜美は勝手に感づいた。いざ言おうとすると、本人に告白するわけでもないのに恥ずかしい。
「俺さ……櫛枝が好きなんだ」
 北村は笑顔のままだった。
 時差でも発生しているかのようなタイミングで首をかしげる。
「え? すまん、よく聞こえなかった。もう一度頼む」
 竜児は真顔で繰り返した。
「俺は櫛枝実乃梨が好きなんだ」
 無言の時が流れる。ひんやりした風が通り抜け、秋の訪れを予感させた。オレンジに変わりゆく高い空に雲が流れてゆく。
「ええっ!?」
「おせえ!」
「いや、だって、ええ!? 櫛枝って、あの櫛枝実乃梨か!?」
「わざわざフルネームで言いなおしたじゃねえか! ほかに櫛枝実乃梨が百人いても俺はあの奇人筆頭ナンバーワンの櫛枝しか知らねえ!」
 思わず冴え渡る突っ込み。ビシィッと効果音の入りそうな手首のスナップが北村の肩を捉える。
 北村は気が抜けたようによろめき、ぐるりとトキのごとき流れるような動作で回転して元の位置に戻ってきた。俯いた姿勢から眼鏡を直しながら顔を上げ、竜児に驚愕の表情を見せる。
「櫛枝が好きと」
「……そうだよ」
「うん、うん、そうか、そうか……ああ、でも、なんだ、櫛枝が変なことはちゃんと分かってるんだな、それは安心した」
「仮にもお前の友達でもあるだろうが」
 確かに竜児の目から見ても実乃梨は変だが。
 変だけど、笑顔が眩いのだ。変だけれど、不良と噂される竜児にこだわりなく接してくれたのだ。
「いや、悪い、びっくりしたんだ。高須、お前人を見る目があるよ。好みに関してはちょっと不安に思うところはあるが、俺が保証する。櫛枝はいい奴だぞ」
 何度も頷いて、北村はあることに思い当たって竜児を見た。
「で、それが逢坂とどう関係があるんだ? 櫛枝へアタックする過程でその友達である逢坂と親しくなった……わけじゃないよな。それじゃなんか順番がおかしいし」
「あー、そうだな、それは逆だ。大河と知り合ったから自然と櫛枝とも話すようになったんだよ」
「ううん、すまないな。俺は一向こういうことには疎いものだから。話の腰を折ってすまん、順を追って説明してくれるか?」
 竜児は北村が親友でよかったと思った。これを話す相手が北村で本当によかった。一を聞いて十を察する相手に話すのは、逆に自分が気づいてすらいないことを思い知らされて、当面の問題が解決される前に更なる問題が積みあがっていってしまうのだ。北村は女子と話すのは苦手だなどと言っている割には自然に接することができるが、恋愛方面に関しては決して察しがいいとか長けているなどということはないのだ。つまり、竜児とほとんど同じ土台に立っていると言ってもいい。竜児が考えをまとめながら話しても、茶々を入れたり余計な気づかいをせずに素直に聞いてくれる。
「前提が、もうひとつある。お前だって分かってるんだろうが、大河は……ずっとお前のこと、好きだったんだ」
 それはもう、ずっと。竜児が実乃梨に恋するより、ずっと前から。
 北村は分かっているとでも言いたげに、その実曖昧に微笑した。
「告白……されただろ。お前はやんわり流したけど。確かに大河はお前に告白した」
「……なんだ? 見てきたみたいな物言いじゃないか、まるで」
「居合わせちまったんだよ。偶然な。っていうか、大河がお前のことを好きなのを知ってたし、その日告白するってことも知ってたけど。居合わせちまったのは偶然だ。あいつ間抜けにもトイレの裏に呼び出すんだからな。トイレに行きゃ聞こえちまうんだよ」
「そうか……だったら、俺が言いたいことも分かるんじゃないのか?」
 あの日――実乃梨と北村に誤解され、二人して電柱を蹴った翌日。大河は北村に告白した。告白したのだけれど、そこで無我夢中の大河の口からぽろぽろと零れ落ちたのは、彼女がずっと好きだった北村のことではなかった。全然なかったのだ。竜児も居合わせて聞いていたし、北村はもちろん直接聞かされた。その言葉の意味するところは、本人も気づかない間に大河の最も大切な一部になっていた存在に対する、謂わば思いの丈は、北村への告白などよりよほど正確に、北村の心に届いていただろう。
 だからこそ北村は、確答を避けるような言葉を返したのだ。聞きようによっては、完全に振られたともいえたが。はっきりと言葉にしては是とも否とも口にしなかった。たぶんそれは北村の優しさからきた答えだったのだろう。大河が自分で、自分の力でその気持ちを見つけられるように。
「いや、俺もさ、嬉しかったよ。あれだけ頑なに他人を拒絶していた逢坂が、他ならぬ俺の親友と親しくなって、俺のことを好き、とも言ってくれた。あのときは他に言いたいことがあったみたいだけどな」
 北村は一度言葉を切った。余計な口出しではないかと躊躇したのだ。
 でも竜児の方はそこで、すとんと、落ち着いてしまった。大河の言いたかったその先、大河に、明日からはただのクラスメイトに戻ろうと言われたときに感じた喪失感の理由、大河のいる風景の安心感。
 大河が、一日に百回も竜児の名を呼ぶ理由。
「……分かるよ。今になってようやくって感じだけど。考えねえようにしてたけど、普通に考えりゃそうなんだって、今は」
「それは、櫛枝が好きだったから今までは分からなかった……ってことか?」
「ああ。たぶん。大河もお前のことが好きだったしな」
 北村は竜児の言葉には合わせず過去形を使ったが、竜児ははっきりと自分の中で納得した答えにまだ確信を抱くには至らなかったために、使う時制は単に過去形に似た表現でしかなかった。それだけならまだ、現在を含めた過去にも聞こえる言い方だった。どちらにしても、明瞭に一方が正しいと談じることはできなかったのだ。
 それでも竜児は、自分の気持ちに関しては、それが過去だと肯定してしまった。
「つうか、なんだ、全然順を追ってねえな」
「いいさ、俺も何だか、薄っすらとだが分かってきたような気がする」
「マジかよ。本人が半年かけて分かりかけてるようなことだぞ」
「マジだ。言われてみればって感じだが、確かに、高須が櫛枝と親しくなったとは思っていたが、単に逢坂経由だと思っていたからな。言われてみれば、色々なことに説明がつきそうな気がする」
 そうかそうか、なるほど。北村は楽しげに呟いて、何度も頷いた。
「亜美の奴が膨れる理由がよく分かった」
「は? 川嶋が?」
「口には出さなかったけど、分かるんだよ。幼馴染だからな。あいつのことだから、何かお前たちにお節介なことでも言ったんじゃないか?」
 察しのいい北村というのも調子が狂うものだった。停止していた思考能力が運転を再開した上、余事は置いて一つのことに集中しているせいかもしれない。鈍感さにかけては竜児に勝るとも劣らない北村が、亜美のごとき察知力を発揮している。
 もっとも竜児の調子だったら、昨日の夜から狂いっぱなしではあったが。調子が狂ったせいで、普段考えないようなことを思い至ったのだ。
「そういう理由だったら、高須のことを水臭いとは攻められんな」
「…………」
 つまり、親友に秘密を持っていたということを。
「それで、何かあったわけだ? その均衡状態みたいなものが、昨日崩れてしまうようなことが起きたんだな。あの様子だと櫛枝と逢坂の間でも何かあったみたいだけど」
「それに関しては、さっぱりだ。俺もびっくりしてる。全然分かんねえよ」
「まあ、理由はさておき、あれはどう見ても高須を取り合っていたよなあ」
 竜児は眉をひそめた。最凶の誉れも高い三白眼をすうっと細め、戯けたことを抜かす男だ! 切り刻んでやろうか? と考えているのではなく、半透膜を通過する液体のように、北村の言葉が脳に認識されるまで時間がかかっているのだ。
「しかもあの示し合わせたような構いっぷり……二人とも腹を括ったということだな」
 一人心得顔の北村に竜児は全然ついていけない。
「え、おい、ちょっと待てよ、勝手に話を進めんな。ななななんだよ取り合ってるって、腹括ってるって、それはなんか前提がおかしいぞ」
「ん? 櫛枝も高須のことが好きなんじゃないのか?」
 古典的な表現で言えば、竜児は頭をガーンと殴られたような気分だった。斬新に言い表すなら、凶暴な女子高生に木刀で殴打されたかのような衝撃を伴った発言だった。
 北村はいい奴だ。しかしデリカシーがないのだ。
「あ、これは言っちゃまずいことだったか」
「お前な……」
 竜児の足が止まる。
 それが事実だとしたら、何という皮肉だろう。そして何というバカバカしい話なのだろう。一年近く片想いしていた相手が自分のことを好きかもしれない驚天動地のこの情況で、自分は何をやっているのか。竜児は頭を抱えてうずくまりたくなったので、その通りにした。たとえそれが法律で禁じられていたとしても、今の竜児なら躊躇いなくやった。
「た、高須!? すまん、大丈夫か!?」
「…………」
 北村が周りでおたおたしているのも竜児の目には一向に入らなかった。アスファルト上の落ち葉を一心に凝視しているようだったが、その実何も目に入っていなかった。
 考えようによっては、北村とも情況は似ている。北村の場合、一度告白し振られた相手にしばらく経ってから告白されたのであった。絶妙な時間差で両想いになる期間がなかった。竜児の場合は気がつかなかった。
「高須! 気を確かに!」
「ダメだ北村、俺しばらく立ち直れねえかも」
 そこでふと生じる疑問。
「北村」
「なんだ高須!? ……ああ親友をこんなに落ち込ませてしまうなんて……! 何でもしてやる! 言ってみろ!」
「……お前、何で大河を振ったんだ? もう好きじゃなかったのか?」
「ぐ」
 中々のダメージだった。北村は分厚い胸筋の下のセンシティヴなハートに多大な損害を受け、たとえとかではなく本当に胸を押さえて竜児の隣にうずくまった。
「おう、ど、どうした? 北村?」
 竜児がおたおたする順番だった。鈍感な男たちは意図せず互いに鞭打っていた。
「……い、いいだろう……何でもすると言ったからには、答えよう。男に二言はないぞ」
 北村の眼鏡がきらりと光る。うろんな光景に見えて、よく見ると北村は赤かった。誰よりも男らしく清々しい眼鏡くんは、ほっぺを赤く染めて恥らっていた。竜児などはいっそ自分が告白されるのではと一瞬ぎょっとしたくらいだった。
「…………す……好き、な、人が……いる」
「おうっ!?」
 竜児はしゃがんだ姿勢のままよろめき、それでも尻餅は死守し、勢いで立ち上がる。背中にぶつかった電柱にそのまま寄りかかり、身体を支える。
 竜児が衝撃を感じている間に、北村はといえば、
「くくく……」
 泣いていた。
「お、おい、北村!? 大丈夫か!?」
「大丈夫なわけがあるかあっ!」
 泣き顔のまま立ち上がると、鞄を放り捨てスクワットを始める北村。高ぶった感情の対処が体育会系っぽい。竜児の前で北村の泣き顔がすごい勢いで上下する。
 気持ちが悪かった。
「……大丈夫か?」
 竜児は改めて、頭は大丈夫かという意味で訊ねた。
「ダメだ!」
 北村はあくまで男らしかった。
「脱ぐしかない!」
「脱ぐな」
 学ランのボタンに手をかけた北村の頬を、竜児は力なくぺちゃっと叩いた。
「ダメだダメだダメだ、ダメだーっ!」
 社会的に致命傷を負うことは思いなおしたが、頭をかきむしる北村。狂乱の体である。
「高須竜児!」
「はい!」
 クラス委員は定規のようにまっすぐ親友の凶相に指を突きつけた。端から見れば正義感が不良の非行を見咎めたかようだった。しかして優等生である竜児はついいい返事を返してしまう。
「逢坂大河が好きか!?」
「はい! ……ってあれ!?」
「よろしい!」
 北村の眼鏡は夕焼けが映りこんでいたが、竜児にはその下の熱く燃える目がありありと見えた。暑苦しい男である。暑苦しい男に戻ったのだ。
 告白してくる――吐き捨てるように宣言すると、北村は元来た道を駆け戻っていった。一路、学校へ。
 竜児はぽかんである。何が起こっているのか理解するまでにしばしの時間が必要だったが、自分が何か親友に重大な影響を及ぼしたことは分かった。逆に北村は、勢いで竜児から本音を引っ張り出して行ったのだった。
「はい……って」
 やがて一人歩き出した竜児は、スーパーの特売を思い出した。動揺はしていても、衝撃を受けても、何があろうと安くておいしい晩御飯を作るのが竜児の使命である。
 きっと、大河も食べにくるのだろうし。

(2009/11/05)