虎飛び出し注意

2

 竜児が部屋に戻ると、大河はさっき被せたTシャツもそのままに、寸分違わぬ体育座りのままこちらを振り返った。何か文句でもありそうな目つきだった。ところが、いつもなら良識ある一般市民である竜児をあたかも処刑台上の極悪人のごとく罵ったであろう薔薇の唇は、心なしか不満げに尖っているだけで、強烈な痛罵を覚悟していた竜児は肩透かしを食ってしまった。

「お前まだそんなカッコで……風邪引いたらどうすんだ」
「……ナメクジは?」
「かわいそうに、完全に潰れていた」
「……そ」
 大河は言葉少なに顔を背けた。
「風呂、途中だったんだろ。早く行ってこいよ」
 咄嗟のこととはいえ、どうしてまた自分のTシャツを着せてしまったのだろうか。竜児が着替えを取りに行くなり、自分で行かせるなりやり方があっただろうに。これでは帰るに帰れないし、何となく半裸で女子の部屋に居るのもいたたまれないものがある。
 その上竜児の着ていたTシャツは、大河をより一層しどけない格好にさせてしまったようだ。濡れた身体にサイズの大きいTシャツ一枚の大河は、かえって全裸よりも目のやり場に困った。竜児はさきほど土台を揺るがされた自分の主張を無意識に裏づけすることになったのだった。
 大河は再び振り返った。
「あんたこそ何てカッコなのよ……露出狂」
「否定はできねえがお前に言われる筋合いはない」
「…………」
「…………」
 数秒の睨み合いのあと、竜児の方が負けて視線を逸らす。目を合わせると余計に気恥ずかしさが募る。何といっても、お互い半裸なのだ。その上、全裸を見たり見られたりしてしまったりしたあとでは、上手い言葉も見つからないのが道理だ。半裸に女子の部屋に、と先ほどは思ったが、してみるとそれだけではなかったのだ。
 半裸で、異性と、二人っきり。それが真の状況だった。どうしてくれよう。差し当たって大河が風呂に行けばいいのだが。
「いいから、風呂行けよ」
「……ん」
 ひどく緩慢に立ち上がった大河は、「見んな」の三文字を視線に込めて竜児を威圧しながら、その背後、つまりドアまでやってきた。竜児はドアを出てすぐのところに立っていたので、手を伸ばせば届くくらいの距離だ。
「見た?」
「おうっ!」
 いきなり、直球。
「どれくらい?」
「いや、いやっ、今のは返事じゃなくてただの感嘆語であって、いや、見たけど」
「見たのは知ってんのよ。あと、振り向くんじゃないわよ」
 なぜか背後では衣擦れの音。
「何を、どのくらい、どう見て」
「た、大河お前脱いで……」
「……どう、思ったのよ」
 身動きできない竜児のうなじが空気の動きを感じた。途端に視界が真っ白に変わり、顔の周りだけ湿度が上がる。竜児のTシャツだった。さっきまで自分が着ていたものだが、その帯びた生暖かさはきっと大河の体温が移ったものだろう。そして残り香も。もう竜児自身のものではない。竜児は立ちくらみのような感覚に襲われた。
 これは、実に、まずい。しかも背後には全裸の虎――前門のTシャツ後門の虎である。
「答えなさいよ」
「どうって言われてもな……」
 何と答えたものやら。どう答えたら上手く切り抜けられる? そもそも大河は何を期待してこんな質問をするのだろう。見られたのは既に明白なのだから、竜児の経験からかんがみて、答えのいかんに係わらずあとは殴るか罵るかしかないと思うのだが、何だって手間のかかる確認を取りたがるのか――
「……哀れすぎて言葉もないってわけ」
「ちげーよ! ほ、ほら! すぐそういうこと言うし! どうせ何言ったって怒るんだろ!」
 口を開くまでの沈黙がじれったい。後ろ向きだから表情は分からないし、一張羅を脱ぎ捨ててしまわれては振り向くこともできない。もしかしたら、大河は顔を見られたくなくてわざとこんな状況を作ったのだろうか。
 何のために?
「怒んないわよ。別に……答えなかったらぶつけどね。強くね」
 実際その口調からは怒気らしきものは感じられず、迸るような虎の殺気も影を潜めているようだったが――竜児はなかば諦め気味に覚悟を決めて、どうせ死ぬなら正直に死のう、と思った。
「……びっくりした」
「……は?」
 大河の声が少し跳ねる。そこにあるのは失望か。「何言ってんのグズ犬。質問の意味が理解できないの脳が腐ってるんじゃないのゾンビ犬」に始めるめくるめく罵倒の絨毯爆撃が展開される様がありありと脳裏に浮かび、竜児は慌てて続けた。
「つまりだな……ええい! 見えたよ! 何もかも見えた! それで……綺麗だった。お前が言うみたいに貧相なんかじゃなかった。全然。だから……びっくりした」
 どうだ、これで満足だろ。竜児は両目をぎゅっと閉じて衝撃に備えた。しかし一向に、打撃も悪罵も襲ってはこない。
 大河は、その言葉に心底満足している自分を信じられない思いで認めた。振り返って竜児の背中を見ると、今まで感じたことのない熱い感情が、困惑を胸の中から閉め出し、頬に血を上らせた。竜児は今投げかけたTシャツを被せられるがまま、立ち尽くして拳を強く握っていた。竜児にしてみれば一世一代の大告白に等しいに違いない。恥ずかしさを押さえ込むように全身に力を篭めているのだろう。
 まさか、と思いつつ大河の心は羽根でも得たかのように飛び跳ねている。嬉しすぎて何やら恥ずかしいくらいだった。身体の芯が熱をもって大河を浮き立たせる。ともすれば口元はだらしなく緩みだしそうで、歯を食いしばる。
 北村くんに褒められても、こんな風にはならなかったのに――大河は無心で竜児の背中を見つめた。
「あー、見たっつっても、そんなじっくり見たわけじゃないからな! マジで一瞬! 一瞬だからな!」
 大河の沈黙をどうとらえたものか、竜児は言いわけをするみたいに語を継いだ。裸を見たのを怒っているとでも思ったのだろうか。大河は、これも信じがたいことだが、剥き出しのコンプレックスを竜児にさらけ出してしまったことへの恥ずかしさしか感じていなかった。怒りも悔しさもなかった。不本意ですらない。つまりは、竜児に裸を見られたこと自体は構わない、そう思っているのでなければ説明のつかない感情を抱えているのだった。
 そしてその理解できない感情から逃げ出すように八つ当たり気味に投げかけた質問は、思いがけないストレートな褒め言葉になって返ってきた。
 本当のことだろうか。でも竜児は嘘はつかないだろう。だとしたらやっぱり、嬉しいのだ。