どう見ても耳掻きです。本当に(ry
食器同士がが当たって起きる硬質な音と、テレビの下らないバラエティの笑い声が混ざり合って、何やら平和な雰囲気を生み出している午後七時過ぎ。 「大河、お茶とコーヒーどっちがいい?」 竜児は洗い物をしながら、背後の居間でぼけっとテレビを見ている大河に訊ねた。 「『ホットミルクがいい。ハチミツ入れてね。あと何かお菓子を出しなさい』 おう、第三の選択肢かよ……って、あれ?」 違った。今のは竜児の脳内で再生された大河の音声テンプレート「アパート編・夕食後」に収録されている「パターン・ホットミルクその二」である。 つまり幻聴であった。 「いけねえいけねえ、最近大河の行動がパターン化してるからな、こう言うだろうなって想定に対して返事しちまったぜ……」 誰ともなしに説明くさいセリフを呟き、竜児は食器を洗う手を止めて振り返る。 「大河?」 果たして大河はいつもどおり、半分に折った専用座布団を枕にだらしなく寝そべってぼけっとテレビを眺めている。聞こえなかったのだろうか。それとも無視しているのだろうか。後者はたぶんないだろう。なぜなら今日の夕食は竜児特製ハンバーグで、大河は飢えた猫科動物のごとく鼻を鳴らして貪り、挙句竜児の分にまで狼藉を働いたからだ。食べすぎで気分が悪いのを八つ当たりしているのではない限り、機嫌が悪くなる要素はないはずだ。前者は何となくありそうな気がする。高須家滞在中の大河は近頃特に緩みすぎだった。はっきり言ってだらけきっていた。 『もぉ大河ちゃんったらぁ、食べてすぐ寝ると、牛さんになっちゃうんだからあ」 『大丈夫よやっちゃん。私太らない体質だから』 『そっかぁ☆ じゃあだいじょぶだねえ〜』 『お前ら……』 というボケ倒しの会話が、竜児の記憶が正しければこの一週間だけで三回は繰り返されている。 お前、太るぞ。と言ってやりたい気持ちもあったが、それ以前に大河があんまりにもぐでんぐでんのでろんでろんなので、お脳が衰えてしまうのではないかと言う心配が先行するくらいである。今でこそ成績は悪くないが、帰ってから勉強している様子もないし、授業中はしばしば居眠りしているし、自分が甘やかしたがために大河はばかになってしまうのではなかろうかと、竜児は一抹の不安を抱えているのだった。これが親心というやつか。 そして何より年頃の女の子が一応は異性である竜児の前で、こんなに油断しきった醜態をさらしてもいいのだろうか。いいやよくない。醜態と呼ぶにしては随分と可愛らしくはあるのだが。 「おい、大河」 やはり返事はない。竜児は手を拭いて大河に近づく。 「……おい」 うひぇっ、と何だかよく分からない悲鳴を上げて、さすがに大河は反応した。逆光になった竜児の顔がさかさまに現れたからだ。その拍子に跳ね起き、額と額が『ごっつんこ☆』ではなく、鈍くくぐもった音を立てる。 世に言う、タイガーヘッドバットである。嘘だが。 目の前に火花が散った二人は言葉もなくその場を転げまわる。インコちゃんは混濁した瞳で愚かな人間どもを睥睨し……てはいなかった、目を開けたまま眠っていた。 「ってえ……ッ! 何すんだよ!」 「こっちのセリフだ人面犬! いきなりあんたの顔無修正で見たらびっくりするに決まってんでしょうが! 普段はね! あんたの顔をなるべく正面から見ないように……どうしても見なきゃいけないときは十回深呼吸して覚悟を決めてから見るんだから! おー痛っ」 「……の割りにえらく舌が廻るじゃねえか石頭め。お前が返事しねえからだろ」 アルファベットで言うところのオー・アール・ズィーの格好で額をさすりつつ、大河はきょとんとした。 「私、呼ばれてないわよ」 「……二三回呼んだぞ」 「…………」 「今のはほんとに無視だろ」 コブになってねえかな。竜児は額をおさえてやっとのことで起き上がった。死の危険すら感じた一撃だった。いつか本当に殺されるのではないだろうか。 過失で。 「大体お前なあ、最近気ィ抜きすぎなんだよ。 毎日毎日日付変わるまで何にもせずにゴロゴロゴロゴロと。お前は雷様か」 「だってあんたと居るとなんか落ち着……じゃない! こっちは毎日駄犬のお守りで疲れてんの! だからゴロゴロしてもいいの!」 「? つったってなあ、限度ってものがあんだろ、今だってぼけっとして俺が呼んでるのも聞こえてねえし。耳垢でも溜まってんじゃ、な……いか?」 おうっ、と竜児は弾かれたように起き上がった。凶眼がぎらりと見開かれる。三度までも自分を無視してすっとぼける大河に死の鉄槌を下してやろう。と思っているわけではない。 「大河、ちょっと耳見せてみろ」 「え? いやよ何で耳なんかあんたに」 「いいから見せなさい!」 「ちょ……やめ……っ! ステイ!」 日常的に駄犬呼ばわりしておいて本当に言うことを聞くと思っているのだろうか。命令不服従が駄犬のアイデンティティー! 手乗りタイガー頂いた! と言うわけではなく、竜児の主夫な精神世界は完全に掃除モード一色である。大橋の掃除マイスターをもって任ずる竜児の魂がレッドアラートを発しているのだ。 「こ、これが人の業か……」 ![]() 「あ、あのさ……」 「動くなって……ただでさえ狭くてやりにくいんだ」 「あの……ちょっと抜いて……」 「ん? すまん、痛かったか?」 「い、痛くはないんだけど……」 大河は表情を隠すように上気した頬に手を当てた。き、気持ちいいんだけど……とごにょごにょ口の中で呟く。 「……はっ、恥ずかしいんだってば!」 「だあー! 動くんじゃねえ!」 つまりは耳掻きである。竜児は失望の声を上げた。 「ああ、もう少しで信じがたいくらい巨大な塊が取れたのに……ありゃUMAクラスだったぞ。どんだけ溜めてんだよ。何かの願掛けか?」 「そうそう、『神様、私一生耳掻きしません。だから背を伸ばしてください。ついでに胸も大きく』 ……って! んなわけあるかああああ!!!」 空気を切り裂く本気の掌底を紙一重でかわし、竜児は一瞬気が遠のくのを感じた。ドブ川の向こうで致命的に目つきの悪い男が手を振っているのを幻視した竜児は、危ういところで正気に返った。 「いや、死んではいないんじゃないかな、きっと」 「何言ってんの? ボケたの? バカなの? バカだから死ぬの?」 「お前と泰子とインコちゃんを置いて先立てるかアホ。今死んだら心配で生き返っちまうぞ。不死鳥のごとく」 「鳥じゃなくてゾンビでしょ……バリイドドッグ……」 「埋めんな」 リンボーダンスよろしく極限まで反った姿勢から、腹筋の力で何とか復帰する。身体ごと飛びのけなかったのは膝の上に虎が寝ているからである。膝乗りタイガーである。 「つうかほんとに動くなよな? 危ないのはお前の耳なんだからな」 「だって……」 仰向け膝枕状態の大河は唇を尖らせた。どう見てもバカップルであった。 「……仕方ねえ、心残りだが……すごく心残りだが、そんなに嫌ならやめるか」 「えっ、だめよ」 「ん?」 「あ……」 大河は蒸気でも吹き出しかねない勢いで真っ赤になった。そんな風に照れられると竜児の方も何か収まりの悪いものを感じてしまう。掃除熱に浮かされて全く忘れていたが、十六年間女子とキャッキャウフフな展開を経験したことのない竜児の膝の上には、その性情がいかに凶暴であろうと隠れファンを増やしつづけるほど(見た目は)可憐なミニマム美少女、逢坂大河の小さな頭が乗っかっているのだ。それも、なんだかんだと言いつつ完全に身を委ねて。意識しだすと途端に、陶器のような、それでいて温かみのあるミルク色の頬や、そこに差した鮮やかな朱の美しさやら、通った鼻筋の曲線が作り上げる横顔の完璧さ、髪をかきあげて現れた小さな耳の愛くるしさやらが竜児の頭の中で渦を巻いて、じわじわと恥ずかしさがこみ上げてくる。よく考えなくても、クラスメートの女子に耳掻きをすることなんて、普通ありえない。そんな竜児の様子など露知らず、大河は頭の位置を直す。 「仕方ないわね、あんた気持ち悪いくらい綺麗好きだから、こういうの放っておけないんでしょ? とっっっくべつに、我慢してやらせてあげるから、続けなさいよ」 「……あ、そう」 * 「ねえ竜児……帰ったらさ」 甘えたような声を出す大河に、帰り支度をしていたクラス中の耳目が集まる。もちろん、本人は無自覚であって、聞いている竜児も何のことはない、と言う顔である。 「お前なあ、そんな毎日やってたら傷つけちまうだろ。デリケートな部分なんだから」 「だって気持ちいいんだもん。ちょっとでいいからーねー竜児ー」 「んなこと言って始めたらちょっとで済まさねえだろ、お前は」 「いいじゃん私がいいって言ってんだから。あんただって好きなんでしょ」 「ま、まあ嫌いじゃあねえけど」 「へっへー! じゃあ晩御飯の後にね」 「はいはい……」 二人が後にした教室は、騒然とするクラスメートと、 「え……へへ……おじさんアテられちまったよぅ……うへへへ……」 幸せそうな顔で鼻血を垂らす実乃梨が残されていた。 |
09/05/14