無意識は言いわけを許容しない

4

 翌朝大河は起きてこなかった。と言っても、自分で起きなかったというだけでそちらの方が当たり前なのだから別段不審がることでもないのだが。
「……はあ」
 竜児は気が進まなかった。昨日の今日で大河は一体どんな態度で竜児を迎えてくれるというのか。正直勝手に起きてきてくれたらいいさえと思った。プロセスが減れば自ずと無視の回数も減るのだから。昨日のように自分で起きてくれれば、あとは勝手に来て勝手に食って勝手に出かけるだけだ。進展はないがその分竜児のグラスハートにヒビは増えない。
 しかし実際起きないのだから仕方がない。竜児に大河を放っておけと言うのも無理な話であるから、今日も今日とて虎の蒲団を剥ぎにゆくのである。
「……大河」
 蒲団に埋もれてふわふわの髪だけ覗かせた大河は、竜児の心労もどこ吹く風で静かな寝息を立てていた。
「起きろよ。朝だぞ」
 その程度では起きないのは承知の上である。でも一応作法として声はかけておく。当然起きないから、蒲団を剥ぐ。
「ほら朝だぞっ……と!」
 勢いよくめくって、竜児はフリーズした。その間二秒、我が目を疑う以前にまず蒲団をそっと元に戻す。
 声なき声を漏らしながら竜児はその場にうずくまる。「おう」とすら言えなかった。とんでもないものを見てしまった。
「おいおい……」
 ほんの二秒でもそれはしっかと目に焼きつけられた。膝まで下ろされたパジャマのズボンと、いつか洗濯した覚えのある、勝負する気ゼロの綿のショーツ。それと小さな尻。
「見ちまったじゃねえか……」
 何がとは言わないが、何であれそれは竜児の精神に大きなショックを与えた。嫌なものを見たわけではないが、好悪の単純な問題ではなく、何というか、テレビをつけたらサスペンス劇場が正に崖の上だった、というような気分が少し近い。手順をすっ飛ばしている。付き合っている相手でもいきなりそんな場所は見ないだろう。見たくないわけではないのだが、そこに到達するまでにワンクッション欲しいというか。
 普通に丸まっているだけならともかく、大河は実に寝相の悪いことに、細い両脚を揃えたまま高々と枕頭に……つまり枕を零にしたら頭が九の、九時五分を指した姿勢で眠っていたのだった。
 竜児の脳は活動を再開した。取り敢えずここに居たらきっとまずい。自分がそんな姿を見られたらきっとしばらく立ち直れない。ましてや逆の立場だ。どんな目に遭うかしれない。
 寝室から出ようとふらふら立ち上がったところで、床や蒲団の上に写真が何枚か散らばっていることに気づく。竜児に散らかったものを見過ごすことはできない。エントロピーに反抗するために生まれてきたような男である。ほとんど無意識に写真の一枚を拾い上げる。下ろされたショーツに散らばった写真ときたら下世話ながら想像することは一つだろうが、拾って何気なく写真を裏返すまで、竜児はその事実に気づかなかった。
 北村の写真だった。北村の笑顔と現在の状況がゆっくりと結びつき、竜児の顔がみるみる赤くなる。
 悪いこととは、言わない。
「……人の親友をそういうことに使うなよな」
 だからってあんまりだ。見えないところでやってくれりゃいいものを、と思ったが、御簾を上げて垣間見たのは竜児である。油断したのは大河だが。
 竜児は自分のことを棚に上げた、わけではない。実のところ、竜児は実乃梨を念頭に一人で励んだことがないのだ。凶状持ちのような面つきでも、中身は純情なシャイボーイである。実乃梨を想って昔の少女漫画みたいにSighを飛ばすことはあっても、とても己の太陽とまで憧憬する実乃梨でそんなことはできなかったのだ。想像の中ですら汚せないほどの存在だなんて、確かに憧れとしか言えないのかもしれなかった。亜美に揶揄されても反論できない、竜児の痛いところである。
 さておき。竜児は手に持った写真の始末に困った。そういうことに使われたのだと思うと持っているだけでも何か気恥ずかしさを感じたが、結局打ち捨ててはおけず、せめて床のものだけでもと拾い集める。よく見ると散らばっているのは北村の写真ばかりではないようだった。
「いや、待て」
 ここで几帳面に片づけていったら、大河が起きる前に部屋を出て何も見なかったことにする計画が成り立たないのではなかろうか。竜児は苦渋の思いで、拾った写真をできるだけ自然に見えるように枕の辺りに撒いた。同じ形のものを角が揃っていないまま放置するのは耐えがたいが、背に腹は代えられない。
「まったくよ……」
 ドジにもほどがあるというものだ。呆れて眺めた大河の平和な寝顔は、昨日一日の妙にこわばったそれが嘘のようで、出会った当初の人形のように硬質な美貌とも違う、自然な可愛らしさがあった。
 やっぱり北村が好きなんだろう。今更のように思い、何かもやもやしたものを心の中に発見する。そんなことはそもそも前提なのに、こんな風に見せつけられると釈然としない思いに駆られるのだった。半年もその恋路を応援しておいてお門違いもいいところだ。
 竜児は不意に漠然とした寂しさに襲われて眉根を寄せた。そんな気持ちをごまかそうとしたのかもしれない。竜児は大河が写真を手にしているのに気づき、それがどんな写真なのか知りたくなった。見たところで何の意味もないが、そうすることで何か、納得のいかない気持ちに決着がつくと思ったのかもしれない。
 そっとベッドに手をつく。スプリングが軋み、大河の身体が少し手前に傾く。これくらいでは起きないだろうことは見越していたが、慎重に身を乗り出して大河の手元を覗きこむ。
「……何でだよ」
 竜児はそれきり言葉を失った。物音を立てずに寝室から出て後ろ手にドアを閉め、背中をつく。ゆっくり腰が落ちてゆき、冷たい床の上に座り込む。後頭部がこすれて髪が逆立った。
 大河が折りジワがつくほど強く握りしめていたのは、北村や、まして他の誰でもない、竜児の写真だった。それも、顔面の擦り傷から血を滲ませた上、真下からのライトアップでコントラストも鮮やかな、たった今地獄から這い上がってきましたよといった風情の一枚。忘れもしない、大河のもとへ急ぐ竜児の必死な姿だった。

 大袈裟なノックが朝の静寂を打ち破った。
「大河! 朝だ! 遅刻するぞ!」
 何か気がかりな夢から引き戻されて、大河は寝返りを打った。なぜだか両脚が言うことを利かないのはきっと痺れたせいだろうと、ぼんやり思う。なんだって竜児はノックなんて間怠っこしいことをするのだろう。しかも騒々しい。いつもはせいぜい、どんなに乱暴だって蒲団を引っぺがす程度で、子供のようにぐずる大河を揺すって起こしてくれるのだ。そもそも、ノックなどしないで入ってくるのに。
 いつもみたいに、揺り起こしてほしい。朝起きて、竜児が居て、一人じゃないことに安心して、それからやっと一日が始まるのだから。でもあの手で触れられるのは、どうだろう。昨日から散々意識しまくって、直視できないくらい大好きな竜児の大きな手。大好き? ああ、きっとそうなのだろう。その大好きな手を想像しながら私は昨日。
 あれ。ああ。
「うぉいっ!」
 跳ね起きて、そのままの勢いで倒れこむ。両膝が固定されているのだから当たり前である。全てが一つに繋がって、大河は身悶えた。やばい、やばいやばいやばい。竜児が今日に限って入る前にノックしてくれてよかった。前置きなく蒲団をめくられた日には、もう。
「パンツ……パンツ……」
 我に帰ってまず下着をパジャマごと穿きなおす。上衣の裾がショーツのゴムに挟まっていたが、気づかない。素早く辺りを見まわして、枕元に無造作に投げ出された写真を見つける。なんてこった、あのまま寝ちゃったんだ。
 竜児が入ってくる前に片づけなくては、と写真をかき集めて、やっとまだ自分が竜児の写真を握りしめていたことに気づく。身体中の血液が沸騰したかに思えた。その当の本人が今まさにドア一枚隔てた向こうにいるのだ。
「大河?」
「ちょ……っ、ちょっと待って! もう起きたから!」
 取り敢えずまとめた写真を竜児の写真と一緒に机の引き出しに押し込み、鏡の向こうの寝乱れた自分と向き合う。寝癖がすごい。目が、血走っている。隈ができている。パジャマのボタンが、全開である。
「……朝飯の用意できてるからな。とっとと顔洗ってこいよ」
「もう……やだ……こんな……あ、あう、うん! わわ分かったから!」
 掛け違いにも気づかずにボタンを留めていると、指先にとても許容しかねるものを認めた。髪の毛のようにウェーブがあって、もっと癖の強い、短くて先の尖った。
「……ぃっ!?」
 慌てて手を振り払う、よく見るとそれ以前に指先はなんだか、粘性のある液体が乾いたあとのような。
「……泣きたい」
 誰ともなく呟くと本当に涙が零れてきた。一杯一杯で処理しきれない。どうしてくれよう。どうなってしまったのだろう。どうなってしまうのだろう。本当に、どうしたらいいのだ。
 残酷に過ぎていく時間に背中を押され、大河はなるべく竜児の視線を避けながら洗面所に駆け込んだ。まず念入りに手を洗い、それから自棄気味に顔を洗う。いつもはぬるま湯で、角が立つまで泡立てた洗顔フォームで丁寧にマッサージするところを、今朝ばかりは冷水で省略。真っ赤な顔に何度も冷水を浴びせかける。
 心持ち冷静になったような気分で、顔だけでは終わらないことを思い出した。時間は少し気になるが、このまま外に出るのは生理的に不可能である。バスタオルはちゃんと用意されている。さっさと流せば、きっと大丈夫。
 大急ぎでさっき留めたばかりのボタンを外し、パジャマを脱ぎ捨てる。脱いだショーツと都合十秒ほどにらめっこした末、ついでに洗ってしまうことにした。幾らなんでもこれを竜児に洗わせるわけにはいかないし、他の洗濯物と一緒にするのも抵抗がある。今更ながら不思議に思うのは、最後の一線とばかりに辛うじて自分でやっていた洗濯を、いつの間にか竜児にやってもらっていたことにどうして疑問を抱かなかったのかということだ。確か、手洗いマークやドライマークの服を普通に洗濯機に突っ込んでダメにしてしまったことがきっかけだったような気がする。詳しいことは覚えていない。そんなことは日常茶飯事で、「文句があるならあんたがやりなさいよ!」を決まり文句に、竜児が小言を垂れるたびにあらゆることを押しつけてきた。そのたびそのたび、仕方ねえななどと言いつつ竜児は結局大河の代わりに何でもやってくれるのだ。
 熱い湯にたちまち肌が赤く染まる。少し刺激が強すぎるくらいがちょうどいい。どうしようもないあの夜を洗い流したいのだったが、肝心なところが水気を取り戻して大変なことになりつつある。
「……知らない……知らないし……」
 関係のないことを考えればいいんだ。なんだ。そうだ、ばかちー、ばかちーのことでも考えてれば変な気分になんかならないはず。年がら年中発情しちゃってあのバカチワワは。ああ私も同じじゃんか。ばかか。
 大河はなんだか侮辱された気分で、さしあたって身体は洗い終えたのだったが、行き場のない衝動を叩きつけるようにシャンプーまで始めてしまった。今から始めたら髪を乾かし終わるまでに何十分かかるだろうか。竜児に手伝ってもらわなくては。
 自然に竜児を前提とした考えが飛び出して、いかに自分が竜児に頼りきっているか改めて思い知らされる。竜児が居なければ何もできないのではないだろうか。もはや一人だったころどうやっていたかなんて思い出せないのだ。毎日の中に必ず竜児が居たから、そんなことを思い出すこともなかった。竜児が居なくなったら、本当にどうしたらいいのだろう。一人で生きていけるなんて、安っぽい決意だったのかもしれない。
 竜児が居ないと、生きていけない。

「……あほか」
 竜児の発した三文字の感想に大河はぐうの音も出ない。
「その髪乾かすのにいったいどんだけ……ああ、もう、いいから、取り敢えずバスタオル巻いとけ。そんで先にメシ食え、今すぐ! 五分で! よく噛め!」
 諾々と食卓につく傍らで、竜児が百面相しながら慌しく動いている。確かに余裕のある時間ではなく、バタバタしている分じっくり顔を合わせずに済んで助かっていた。竜児はやることがなくなったらしく動物園の熊のように同じところを行ったり来たりしだした。
「ほら早く食っちまえって、終わったら髪、乾かしてやるから」
 そう言う手には既にドライヤーが用意されている。コードの届く範囲をうろうろしているのである。
「あーあ……めんどくさ。髪切っちゃおうかな。ばっさり」
「マジかよ。勿体ねえ……せっかく似合ってんのに」
 尻すぼみの呟きに大河の心臓が踊った。
「だって手入れ時間かかるし……なによ、あんた、長い方が好きなの。みのりんくらいのが好きなのかと思ってた」
 親友の名前を口にしたことで、なぜだかちくりと胸が痛む。
「いや、取り立ててそういうわけじゃねえけど……ただお前のはその、あ、いや、なんだ、急にばっさり切っちまったらなんか失恋したみたいじゃねえか」
「はあ……? 古臭いのよ考え方が。大体失恋で切るならとっくに切ってるっての……」
「え?」
「……なんでもない!」
「そーかよ。……でもまあ、お前のショートカットも見てみたい気はするな」
 立ち止まってぶつぶつ言う竜児を見て自然と箸も止まる。今日はいきつけの美容室はやっているだろうか。
「……な、なによ。そんなこと言うと、ほんとに切っちゃうわよ」
「え!? いや、やっぱ勿体ないし……あ、箸止めんな!」
 大急ぎで残りをかきこみ、竜児がすごい勢いで髪を乾かしたものの、遅刻は遅刻である。恋ヶ窪独身のどことなく冷たい視線を浴び、つい口が滑る竜児。
「いや、すみません! こいつがちんたらシャワーなんか浴びてるから……!」
 シャワーって……やっぱり一緒に住んでるんだ……つか、タイガーを置いて一人で来るって選択肢はないんだ……やっぱ元鞘か〜……ひそひそ。
 普段なら威嚇の咆哮を上げそうなざわめきを聞いても大河は大人しく、どころかもじもじしているだけで、その態度の理由に心当たりのある竜児は一層心が休まらないのだった。

(2009/05/08)