無意識は言い訳を許容しない

3

「わ、私、先帰るから!」
 と何かにせっつかれるように飛び出していった大河を見送り、竜児は何とも言えない一日だったと遠い目をした。迸る眼光で世界を焼きつくしてやろうと思っているのではない。今朝からの出来事を思い返しているのだ。
「大丈夫なのか、逢坂は?」
 北村が訊ねた。同じく大河の走り去った廊下を見ている。
「さあなあ……あいつの考えてることが時々分からん」
 晩飯何にするかななどと呟きつつ、頭の中では大河の好物で構成された献立ができあがりつつあった。機嫌をとるわけではないが、好きなものでも食べたら少しは元気になるだろうか、とほとんど親心のような気持ちが生まれつつある。元気かどうかとかそういう問題ではないのかもしれないが、ともかく。
「だーいじょぶだって!」
 二人の間に実乃梨が強引に割り込んできて、背中をバンバン叩く。竜児は若干むせた。
「大河のことは高須くんに任せときゃ間違いねえって! な!」
「お、おう……」
 実乃梨の真直ぐな目に射られて、咄嗟に任されてしまう。安請け合いしたつもりではない。しかし心中は複雑だった。告白していないのだから仕方ないのだが、片想いの相手にその親友をお願いされてしまうのは、挙句、満更でもなく了承してしまうのは、当初の希望とはかけ離れた未来への階段を、それはもう凄い勢いで駆け上がっているようなものなのではないだろうか。大河との曖昧な関係をそのままに、実乃梨と付き合えるはずもないということは理解しているのに、それでもなお大河の側に居たいと望んでいる。こちらのパラドクスの方がより深刻だった。もちろん自業自得だから誰にも文句は言えない。そして結局今日も、両立できない二つの大事なものに挟まれて、既に手元にあるほうを選んでしまうのだった。今だけだとか、今回だけだからとか、誰ともなく弁解しつつ。
「もしどちらかを選べと言われたら?」なんてことを考えないわけではない。そのたびに弱気な自分が顔を出して、決断を先へ先へ送ってしまうのだ。
 答えは決まっているような気は、するのだが。

「で、まあ、居るよな。そりゃ」
「…………」
 果たして今日も三人(と一羽)の夕餉を囲んでいるのだが。どうも大河が黙っていると、座りが悪いというか、落ち着かない。憎まれ口の一つでも叩いてくれないものかと竜児は凶悪な眼光に妙な期待を込める。見つめられるほどに大河はそっぽを向く。それでいて距離感はいつもと同じ、恋人も血縁でもない異性にしては近すぎる、二人の距離。
 大河は自分の気持ちを判じかねていた。居心地がいいから竜児の側には居たい。でも顔を見るのは恥ずかしい。その上、触れたくないはずの竜児が気になって仕方がない。触れたくないのは、触れたいからなのだ、要するに。自分でも出所の分からない感情がいつも以上に、いつもとは違う意味で竜児を求めていて、触れたらここまで積み上げてきた何かが崩れてしまう気がして、怖いのだ。
 ただの夢なのに。あの犬の夢だって、よく考えたら凄い内容だった。けれど別に変な気持ちにはならなかった。主旨だけ抜き出せば近しいクラスメートと結婚してその子供を産む、衝撃的な夢なのに。そのときも確かに、表向きはともかく、うっかり漏らしそうになった本音では案外悪くないような気はしていたが。
 悪くないから、悪いのだ。とんだ謎かけである。両方ともインパクトのある内容ではあったが、それだけだったら悪夢だとか欲求不満だとかで笑い飛ばせたかもしれない。夢は理不尽で不条理なものだ。突拍子も辻褄も合わない夢もままある。ましてや特別意識していなくても四六時中朝から晩まで顔を突き合せている人間がその登場人物になったとしても、何ら不思議はないのだが。
 問題は、誰が出てきたかではなく。
「……お茶でも淹れるか?」
 問題は、満更ではない、どころか、その夢の中の大河が、とろけそうなほどの幸せを感じていたことだ。
「……うん」
 何やら嬉しそうに台所に立つ竜児の後姿を見て、思うところはあるもののひとまず胸を撫で下ろす。北村に対しひたすら緊張していたころとはまた違う。北村を前にすると、何かヘマをしでかさないか、余計なことを言い出さないだろうか、私はどう見えてるんだろう、髪は乱れてないか、制服はシワになっていないか、そんなことばかり、相手にどう見られるかばかり心配していた。心配しすぎて、結局まともに身動きできないくらいだった。
 でも今の緊張は違うのだ。竜児は自分がドジだと知っているし、何を言っても許してくれるし、ありのままに見てくれる。竜児に対しては、自分をよく見せようだなんて思わない。だからこそ、竜児の傍らは落ち着ける場所なのだ。それなのにあんな夢を見たせいで、夢に竜児が出てきたせいで全部が上手く噛み合わない。調子が狂ってしまっている。急須にお湯を注ぐ竜児の大きな手。そんなところばかりが意識されてしようがない。あの手に触れたい、触れられたいと思う気持ちは、知らないうちにできていた青痣のように突然見出されて、大河を捕らえてしまった。まったくいつの間にぶつけたのだろう。全然気がつかなかったのだ。
 だめだ。これじゃだめだ。だってこれじゃ、何もかも違ってしまう。
 大河は竜児の背後をすり抜けた。
「……やっぱ帰る。おやすみ」
「え、なんだよ急に。おい! 大河!」
 乱暴に閉められたドアの前に、竜児は立ち尽くすことしかできない。閉じたドアは無言の拒絶なのだろうか。
 言わなきゃ、なんも分かんねえぞ。竜児は呟いて熱い茶を吹いた。

 家に帰るのは、好きじゃない。毎日つい遅くまで高須家に入り浸ってしまうのも、単に帰りたくないからという部分が多くを占めている。竜児と出会う前はそれこそ本当に一人きりの部屋で、今でこそ孤独は窓二枚分の薄さにまで減ってはいたが、だからこそ余計に誰の気配もしない部屋には帰りたくなくなる。手を伸ばしたらすぐ竜児に届く狭い借家が、いかに得がたい幸福をもたらしてくれる場所か、今はもう理解していた。ただ頑なに納得したくないだけなのだ。
 寝て、起きたらもうそこに竜児は居るだろう。けれどもそれまではやっぱり一人なのだ。窓二枚は思ったよりも厚い。帰りたくないのに、大河はもうマンションのエントランスをくぐってしまった。昨日より四半日近く早く帰ってきた部屋は何割り増しか広く感じられた。別に居てもいいのに、勝手に帰ってきてしまっただけなのに、すごく寂しくて、辛い。
「あーあ……。寝よ寝よ」
 わざとらしく大きな声を出し、寝支度を済ませてはやばやとベッドにもぐりこむ。竜児と出会う前だったら、きっと着替えもせずそのまま寝てしまっていただろう。でも今は横着しようとすると、服がシワになるとか、虫歯になるぞ、とか、なんてだらしないんだ信じられねえ、とか、母親みたいな小言を言う竜児が頭に浮かんで、面倒がりながらも時間のかかる身支度をきちんと済ませられるのだった。
 依存しすぎなのだろう。幾らなんでも。苦笑いで狭まる視界が、ふと枕もとの写真の束を見つける。そうだ、昨日はできあがった文化祭の写真を眺めながら寝ちゃったんだ。大河はそれを手に取るとぱらぱらとめくった。ハゲヅラの実乃梨や、プロレスショーの場外乱闘、避けがたい変顔の瞬間を撮られた不運な亜美。北村。竜児。誰がリストに挙げたものやら、必死の形相で福男レースを駆け抜ける竜児の写真は、撮影者がビビッたらしく少しピントが外れていて、余計に猟奇的な様相をかもしだしていた。こんなもの誰が買うと思ったのだろうか。買ってしまった大河の頬が緩む。竜児がこんなに必死な顔をしているのは、何もかも、大河のためなのだ。
「……竜児」
 ここへきて、誰の顔を見ても現れなかった感情が首をもたげる。ただ一人竜児に対してのみそれを欲するのだ。昨日、夢の中で、今と全く同じ場所で竜児のちょっとささくれた唇が触れた首筋に、おそるおそる指を伸ばす。頬や身体がひどく熱い。触れるか触れないかのところを、唇をかたどった中指と薬指で、耳の下から鎖骨にかけてくだっていく。
 だめだ、もう、全部。

2009/05/04