無意識は言いわけを許容しない

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 違う。大河は自己嫌悪に押しつぶされるように席に着いた。手を振り払ったときの竜児の顔が頭から離れない。竜児にあんな顔をさせたかったわけではないのだ。今だけでなく、いつだって。あんな顔は見たくなかった。それでも口から飛び出すのは自分でもびっくりするほどとげとげしい言葉で、それを吐いた自分も傷つくのは分かっているはずなのに。
 大河は知っている。不器用に歪めた、世界を滅ぼす百八つのメソッドのどれもが選びがたい、といった竜児の形相が、本当は困惑と悲しみと綯い交ぜになった表情であることを。極悪な顔をしてその実人一倍繊細であることを。それを知っているために大河の胸はキュッと痛むのだ。人の痛みなんか想像することしかできないが、おそらく竜児は、自分以上に。
「……だめなのよ、こんなんじゃ」
 クラスメートらは毒ステータスの暗黒オーラを撒き散らしている大河を遠巻きにしていたが、誰一人としてうっかり触って爆発させかねないリスクを冒す勇気がないのは責められたことではない。この世でそれができるのは、2のCの爆発物処理班四人組だけである。運悪く大河より先に教室に着いてしまい動くに動けない生徒らは今か今かと救世主の到来を待つが、ドアを開けるのは事態を察知しその場で踵を返す世渡り上手か、うっかり虎の檻に踏み込んでしまった一般人ばかりで、こんなときばかり頼り甲斐のある猛者どもは中々現れない。
「タイガー様がお怒りじゃ…」
「今日がこの世の見納めなのか……」
「せめて亜美たんを一目見てから死にたかったぜ」
「そうだ、亜美たんさえ来てくれたら!」
「この際櫛枝でも北村でも……!」
「いや、ここは高須くんでしょ」
「まさかまた風邪とか……?」
「それは……」
 起こりうる限り最悪の事態である。高須竜児は猛虎からクラスを守る最後の防波堤、逢坂大河の安全装置なのだ。竜児の居ない大河はピンを抜いた手榴弾も同義。正に一触即発。ギャラリーを心胆寒からしめる当の本人も、実のところ安全装置氏の到着を待ちわびていたりするのだが。自ら置き去りにしたことは置いといて。
 何度目か、教室のドアが開く。予鈴まであと少しといった時間。
「……なんだよこの空気は」
 教室を血の海に変えてやろうとはもちろん思ってはいない魔王、もとい救世主の登場である。それどころか、続けてぞろぞろ入ってくるのは勇者ご一行様。おつかいイベントで虎狩りに来たわけではないのだが、大河が教室にグラウンドゼロを作っている状況など目撃すれば、決して放ってはおけないのが彼らの性分なのだ。
「ったくもーどうしちゃったのさ大」
 大河に近づきかけた実乃梨を、亜美が制止する。爆心地と化したちび虎が、四人の中の誰を待っていたか、即座に見当がついたのだ。実乃梨は亜美と、わざとらしく窓側を向いた大河を、そして竜児とを見比べ大げさに頷いてみせる。
「……はっは〜ん、なるほどね、高須くんか」

「いや、俺じゃねえって! ……俺かもしれないけど、いや、まあ俺か……」
 したり顔の実乃梨に上手く反論できない。原因が何であれ大河に何かあったときまっさきに飛んでいくのはまず竜児なのだから、今だってこの場を収拾するのはやっぱり竜児なのだろう。
 竜児が近づいていくと、予想外に険のない目が今やっと竜児に気づいたとでも言いたげにこちらを向いた。向いたものの目線は合わないのだが。
「……遅い。愚鈍ね。ノロマな駄犬だわ」
「口利いたと思ったらそれかよ」
 言いつつ、そんな言葉でも内心に起こる喜びを竜児は隠せない。
「何にやけてんの? 不気味。気持ち悪くて吐きそう。ビニール持ってない? ううん? 私じゃなくてあんたのその顔面お化け屋敷に被せておこうと思って」
 反射的にポケットからビニール袋を取り出しかけた竜児に、ジャブ代わりの一発。
「おぅ……!」
 常人なら致命傷になりかねない、とはいえ竜児には慣れっこの罵詈雑言は何だか少し早口で、いつものなぶるような陰険さに欠けるのだった。例えるなら義務だから仕方なく言っているような、取りあえず言っとけ、的な何か取り繕う風情。竜児の方を見ているのだかいないのだか、瞬間的にしか目が合わない。
 やっぱり何か、おかしい。
「まあいいけどよ。どうしたんだよ今日は、っつーか今もだけど。何で口利いてくれなかったんだよ?」
「はぁ? なに、私には毎日ダメ犬に朝のお言葉を垂れてやらなきゃいけない義務でも」
 噛みつきそうになるのだが、目が合って、すぐ逸らす。赤面。
「……なんでもないわよ! 変な夢見てちょっと機嫌が悪かっただけ……八つ当たり」
 悪かったわね、とごく小さな声で付け加える大河に、教室は静かにどよめいた。「タイガーが謝ったぞ!」だの「天変地異の前触れでは!」だのと無責任なBGMを覆い隠すようにチャイムが鳴る。
 竜児の目が刃物のように鈍く光る。舐めやがって、どう料理してやろうか? と思っているのではなく、ただ純粋に、
「あんまり心配させんなよな」
 衷心からそう思っているのだ。それも当然、いつだって。

 指先がちょっと触れただけである。それなのに大河は弾かれたように手を引いて、弁当の入った巾着を机に落とした。
「大河?」
 昼休みのことだった。ぎこちないながらも「普段どおりにしなきゃ!」と努めている、のがバレバレの大河は竜児のところまで弁当を食べに来たのだが、巾着を受け取るときにちょっとだけ指が竜児のそれと触れ合った。
 それで、この反応。日常的に(変な意味でなく)指どころでない接触をして平然としている二人のする反応ではない。二人は気づいていなかったが、当惑する二人を取り巻く視線はクラス全員分で、当事者でありながらさっぱり状況が理解できていない竜児よりもよほど大河の挙動の意味を察していたのであった。
「あれってやっぱさ」
「ねえ……」
 原因は分からないが、みんな意味は推察できる。日ごろどれだけ非道な仕打ちをしようが決して竜児の側から離れないのは、本人が幾ら否定しても、少なくとも竜児に何かしらの好意を持っているからなのだろうし、何をされても別段堪えた様子もない竜児を見れば、二人の関係は大河の主張するように飼い主と犬なんてものではなく、竜児も大河が本心からそう思っているのではないと分かっているのだろう。大体そう考えるにしては矛盾する出来事がこの半年間、多すぎるほど起きている。プールやら別荘やら文化祭やら、本人たちがどう主張しようと行動で自己撞着を起こしているのだ。
 そこにきて、この反応。なぜ竜児には分からないのか、周りには逆にそれが分からない。そう原因は分からないが、今現在大河は竜児を滅茶苦茶意識しているようにしか見えないのだ。
 竜児は竜児で、やっぱお前何か変だぞ、と言ってやりたい気持ちはあるのだが、余りつっこむと薮蛇になりかねない。そんなことを思っている。傍目には明らかなことに気づけないのは、何も竜児が鈍感なせいばかりではない。普段なら口で嫌といったら態度でも肯んじない大河が今は言行不一致に陥っているがために、状況をはかりかねているのだ。ましてや、今更、竜児は大河が自分のことをどうでもいいなどとは思っていないことを知っているから、
「…………」
 一途に、心配なだけである。その真正直な目を、大河は睨み返せない。下を向いたまま弁当を黙々と口に運ぶ。
 竜児の作った弁当は、いつもどおり美味しかった。「おいしい」とか「ありがとう」とか、そんな何でもないひと言が、いつも、どうしても言えないのだった。単純に恥ずかしいとか照れくさいとかも理由の一部だが、自分と竜児は何でもないんだから、というよく分からない意地も邪魔をしていて、加えて竜児は大河がどれだけ毒づいても噛みついても、竜児を嫌いでやっているのではないことを分かってくれているのだ。要するに、甘えているのだった。結局。
 ちら、と目を上げるとやはり目が合う。見てんじゃない、なんて言って以前なら目潰しを食らわせていたところだろう。でももうできない。今までもしたくてやっていたわけではないが、したくないのだ、本当に。竜児に触れるのが怖い。あの大きな手に肩を掴まれたとき跳ね上がった心臓が、今伏せた視界に入ってくる、行儀よく机の上に置かれた手のせいで、また鼓動を速めるのが分かった。あの夢と、同じ手。

(2009/04/30)