無意識は言いわけを許容しない

1

 ぼんやり拡散していた大河の意識が不意に像を結んだ。咄嗟に夢を見ていることに気づき、安堵すると同時に強烈な羞恥心に襲われた。なぜかといえば、それはあんまりな内容の夢だったからだ。
 場所はたぶん現実と同じ天蓋つきベッドの上、いつの間にやらパジャマを脱ぎ散らかした大河の上に、誰かが覆いかぶさっている構図。当然ともいうべきか、それは男性であって、その大きな手で大河の華奢な手を優しく握り、首すじあたりにキスの雨を降らせている最中。和菓子ではない。ナウ・アット・プリゼント。
 なんて夢見てんだ私は! 身もだえして頭を抱えるがそれは自分がそうなっている夢を「見ている」自分であって、実際そっちの自分は誰かさんのなすがまま、切なげに鼻など鳴らしている。コントロールできない明晰夢は悪夢ではなかろうか。何が悲しくて自分が、いや自分自身そのものではないにしろ自分の姿をした誰かがこんな甘い吐息を漏らす様をぼんやり眺めていなければならないのか。目を覆うことも逸らすことも瞑ることもできない。それでいて視点は上からだったり、自分の体験のようだったり。
 これは恥辱だ。辱めだ。犬の夢だってあれはあれで悪夢ではあったが。それでもこれよりはマシ、だったような気はする。少なくともこんな。
 ああ。
 頭の中が真っ白になって、暫く呆然としている間にもコトは進んでいって、自分のあられもない姿を延々見せつけられる。何という羞恥プレイ。とはいえ、自分の見たことのない角度からの自分の身体はどこかはっきり見えなかったり、行為が中々未経験ゾーンにまで及ばなかったりと、「結局夢なのよね」と大河は段々冷静になってきた。
 となると気になるのは相手の正体であるが。
(ど、どうしようっかな、だってその、もし万が一、相手が北、北、というか、それ以外なわけないけどそんな夢の中に、ましてこんな、こんっな夢に出しちゃって申しわけないというか、えへへ、うひひひ)
 云々と。
 ところが、である。予想に反してその人物は眼鏡をかけていないのだ。(そりゃその……のときくらい外す、かも? よね?)自分の見てる夢の中であるから自分の知識とそれを駆使して想像できる範囲のことしか起こらないはずだから、その推測もたぶん間違ってはいないのだろう。
 ところが、「そいつ」は普段から眼鏡をかけていない――


「おう、大河。おはよう。珍しいな起こしに行く前に起きてくるなんて……」
 勝手知ったる借家のドアを開けると、エプロン姿の竜児がフライパン片手に迎えた。はすでも正面でも上からも下からも鋭い眼光ではあるが、何も鈍器のようなもので大河を痛めつけてやろうと思っているわけではなく、朝食にキャベツとコンビーフを炒めようとしているのである。卵も忘れてはいけない。
「…………」
 そんな竜児に、一閃! とばかりにひと睨み。何やら険悪な眼光が叩きつけられる。当惑する竜児をよそに、靴を脱ぎ捨てた大河は狭い台所を主夫の脇をすり抜けるように居間へ。
「……なんだよ」
 背後でそんな呟きがしたようだったが、無視して食卓にちんと収まる。
 竜児は今日一日に何度するともしれない溜息の第一回目をつき、たった今大河がドアを開けてから竜児を睨みつけるまでに一体自分に落ち度があったかどうか考えた。卵を割るほどの時間もかけずに結論が出る。何もない。普段ならせいぜい、駄犬の分際で人を寝ぼすけみたいに言うんじゃない、とか何とか理不尽に噛みついてダメージの大きい部位を狙って一撃見舞ってくれる程度のところである。
 しかして、無視。正確には無視ではなく無言で睨まれたのだったが。
 往々にして大河は黙っているときの方がタチが悪い。そんな大河は取りつく島がない。気まぐれに何か答えてくれたとしてもそれは大体嘘だ。本当のことは絶対教えてはくれない。そして憶測は地獄を呼ぶ。インコちゃんの危機である。

 竜児は極力何でもないような顔をして食卓の準備をはじめた。布巾でテーブルを拭き、箸やぬか漬けやら残り物やらのタッパーを並べる。箸を置くときにちらと大河を窺ってみたが、あからさまにそっぽを向いていた。竜児と目を合わせたくないらしい。聞こえない程度に溜息第二回を漏らす竜児は、実は大河がじっとこちらを見ていて、自分を窺う気配を察して素早く首を回したことには気づかなかった。
「ふぁ〜あれぇ、大河ちゃんだあ」
 今日は早起きなんだあ。いいこいいこ☆ 襖をガタガタさせながら泰子が登場する。そして眉毛のほとんどない童顔をこすりつけて大河をぐりぐり撫でる。
「おはよ、うっ……やっちゃん酒臭い……タバコ臭い……」
「おっ。起きたか、ほれ」
 さすがの不機嫌タイガーも泰子に冷たくする道理はないらしく、ちょっと顔をしかめながらも抵抗する素振りもない。竜児は少し安心して母親に冷えた麦茶を出してやる。
 顔を洗ってきた泰子ともども食卓を囲み、いつもの光景が展開される。毎日毎日顔を突きあわせて会話の種に困らない、ということもさすがにないから普段から別に何もなくても無言の朝餉、というのは珍しくもないのだが、竜児から頑なに視線を逸らしている大河と、その様子を何気なく窺う竜児に、半ば寝ぼけ眼の泰子、曰く、
「ん〜どうしたの二人ともぉ……なんか朝から空気重いよお。ケンカしてるの〜?」
「別に、なんでもない」
 そして見事にハモる二人は気まずそうに(もとい大河は「ゲッ」という顔で)見つめあい、すぐにハッとした様子で目を逸らした。無論、大河の方が。その頬に少しだけ差した赤みはきっと気のせいだろう。たぶん。
「……なあ」
「…………」
 泰子に見送られて家を出たあともその状態は変わらず、大河は竜児と目をあわせようとしない。目と言うか、視界に入れるのも御免! 吐きそう! とばかりにずんずん前を進んでいく。朝起きたら突然竜児が嫌いになった、というわけではない、と、きっとそう思う。朝食はいつもどおり食べに来ておかわりも竜児が手ずから盛ってやったし、今だって一緒に登校していると言えないほどの距離ではない。
 そこでやはり、凶悪な外見に反して小心の高須くんのことである。長いこと不安でいる状態に耐えられないのである。仲良しの逢坂さんが口を利いてくれないのはやっぱりちょっと、いやかなり寂しいわけで。
「……どうしたんだよ、今日は」
 噛みつかれても罵倒されてもいいから、何かしら大河の声が聞きたいのだ。
「…………」
 無視である。しかも心なし歩調が速くなった気配すらあるではないか。
「おい、大河……!」
 たまらず大河の肩に手をかける。大河は電流でも走ったみたいに文字通り飛び上がり、乱暴に竜児の手を振り払った。
「触んなエロ犬! けがらわしい!」
「はあ!? なんだそりゃ!? お前幾らなんでも……」
 幾らなんでも、理不尽な、あるいは的確に痛いところを抉ってくるような罵声を浴びせかけられるのが日常茶飯事だとしても、幾らなんでも、竜児は棒っきれではないし、竜児の心臓は鉛を鋳溶かして作ったわけではないのだ、傷ついたりもするのだ。というようなことを言いさして、竜児は口を噤んだ。振り返った大河の顔が真っ赤で、傷つけられた竜児の表情を見て、罪悪感に歪んだからだ。
「大河……」
 何と声をかけたらいいか分からず振り払われた右手をさまよわせている竜児を尻目に、大河は駆け出していってしまった。
「なんなんだよ……」

(2009/04/23)