寝言

 竜児はぼんやりと目を開けた。カーテンを透かす薄明かりに最後の記憶と同様の和室が浮かび上がっている。
 記憶と違うのは、電灯とテレビが消えていること。そして近くでだらしなく寝そべっていた大河の姿がないことだ。
 いつの間にかかけられていた毛布の暖かさに眠気をくすぐられつつも、手探り、携帯を手にとって開く。
 午前四時前。泰子はもう帰っている時間だ。毎日酔ってぐったり帰ってくる母親だが、今日は珍しく居間で寝入った息子に毛布をかけてくれる余裕があったらしい。
「……おう」
 自分の握っている携帯が大河のものであることに気づくまで、実に三十秒を要した。忘れていったのだろうか。というか帰ったのか。起こしてくれたってよさそうなものなのに。もしかすると毛布をかけてくれたのは大河なのだろうか。
 寝ぼけた思考が再び活動を休止しかけたころ、
「んん」
 と傍らで気配。もとい声。傍らというか右腕の上。
「大河?」
 妙に暖かいと思ったら、二人分の体温だったというわけだ。
「っておい!」
 最後の一線として泊まりは何としても回避してきたというのに、もうちょいで夜明け。雑魚寝どころか毛布一枚腕枕。竜児の肩に頬を乗せ、小さな右手で恋人でも何でもない男の胴にしがみつく大河の姿は、例え想い人がいないにしても誰にだって見せられたものじゃなかった。勿論竜児も同様に見られたくない。
「おい、大河」
 細い肩を揺する。誰にも見られてないとしても、変な事実を作ってしまうと向けられた誤解にきっぱり否定する自信を失ってしまいそうだ。
「んにぁー……」
 大河は間抜けた声を出してますますすり寄ってきた。蒲団に潜り込んでくる猫みたいだった。蒲団と猫のどちらが先かは分からなかったが。
 その、猫ならぬ手乗り虎からは獣らしからぬ何か甘ったるい匂いが香って、竜児は無駄に動揺する。血流が豊かになったせいか目が冴えてきた。危険だ。これはお互いに危険だ。でもどちらかと言えば竜児の方が危険だった。大河が目覚めてこの状況を把握したとき、罵倒、平手打ち、膝蹴りなどの理不尽な仕打ちを受けるのは間違いなく竜児だからだ。寝ぼけてくっついてきたのが大河だって、そんなことは本人には関係ない。この小さな暴君にとって、物事は快か不快かの二択しかないのだ。理由なんて無意味だ。
 いつもながら寝起きが悪く起こしても二度寝する大河のこと、生半には起きまいと諦め半分、竜児は細心の注意を払って腕を引き抜いた。大河が軽いからか眠りが深いからか、そっと頭を持ち上げて座布団の上に載せなおしても、一向に起きる気配もない。まったく幸いだ。
 外はまだ暗く、伝わる気配は夜中のそれで、こんな時間に起き出したとしても何をしたって誰かの(特に泰子の)眠りを妨げてしまうだろう。とすると洗濯も掃除もできない。今から二度寝しても半端な時間で起きるのはきっと辛いだろうが、このまま起きていたとしても昼前には漏れなく睡魔に襲われるだろう。
 無防備な寝顔が憎い。
「おい。起きろよ。帰れよ」
 枕元であぐらをかき、なめらかな頬を軽くつまんでやる。鼻をつっついても唇を引っ張っても起きない。長い睫毛を引っ張ってまぶたを開いたときはさすがに噴き出しかけた。耳に息でも吹きかけてやろうかとも思ったが、またぞろ無意識の裏拳を食らうのも割に合わないので思いとどまる。思い出しただけで顎が痛くなりそうだ。
 それにしても何という無警戒っぷりか。一応は男の前だというのに、遠慮も恥じらいもあったもんじゃない。信頼も感じられるのだが何か釈然としない気持ちの方が大きかった。だからといって今更遠慮されたくはないのだけど。軽いアンビヴァレンツ。こんなどうでもいいことを考えてしまうのも変な時間に起きたせいで、ひいては大河が無防備にぐーすか眠りこけるのが悪いのだ。
 癪だ。
 何としても起こそうという決意も新たに肩を掴んだところで、大河はごにょごにょと何か言い出した。
「……じ……竜児……」
 呼ばれてしまった。なぜか照れくさくなり竜児は手を放した。ついに俺たちは夢の中まで馴れ合うようになったのか……苦笑する竜児の顔はかなり凶悪だったが、内心はちょっとドキドキしていた。
 大河の寝顔がほんの少しふにゃっと笑う。
「……すき」
 竜児は、今俺の心臓は確実に止まった。短い人生だった。後に残した母親が心残りだ、と、瞬間的に思った。
「……チャーハン……」
「だよな!」
 思わずサムズアップ。頭上に電球が灯り、拳で手のひらをぽんと打って頷く。
 なおも大河はにんにく、鶏がら、などとぶつぶつ。涎を垂らし、竜児は半ば自動化された動きでティッシュを取り、それを拭った。
「弁当はチャーハンだな……にんにく抜きで」
 竜児の脳裏を冷蔵庫の内容が流れてゆき、頭の中では既に残り物処理を兼ねたレタス入り五目チャーハンが完成している。魔法瓶に卵スープを入れて、タッパーに剥いたリンゴでも入れていけばいいか。
 家事のことを考えると心が落ち着くのである。竜児はまったくもって根っからの主夫気質であった。
 それはさておき。
「まったく……」
 迷惑な寝言だ。死ぬかと思った。だって、そうだろう。何たって。
 何だっていうんだ?
 意味もなく膝立ちになっていた竜児は再び腰を下ろし、足だけ毛布に突っ込む。今の自分の動揺は何のために起こったのだろう。仮に誰かに告白されたとしたら、それは動揺するだろう。しかしそれは、おおよそ、単に驚いたことによるものだ。
 竜児は今、驚きはしなかったのだ。ただ何となく、今までほのめかされたり、言いかけてやめたことや、どっちつかずの発言、思わせぶりな否定、ある意味決定的な態度から、もしそうだとしてもおかしくないのかも、と考えつつも意識的に否定してきたことだったからだ。
 二人の関係は、ある意味特別だった。他にそんなことをしている奴がいなくたって別に構わない。どういう風に言い繕っても二人はそういう間柄なのだ。そうしているのが二人にとって一番心地よいから。そうでなかったら、お笑いだ。大河は北村が好きだし、竜児は実乃梨が好きだ。だから竜児と大河は「そういう」関係ではないし、そうであってはならないのだ。
 気づくと竜児は大河の人形みたいな寝顔を見つめていた。こいつは確かに、言っていた。北村に告白した後で、唐突に一席ぶちやがったのだ。誰が聞いたって誤解する調子で、簡潔に言えば竜児と一緒に居たいと。竜児もまた大河の側に居たいと思った。ドジだけど一生懸命な大河を放ってはおけなかった。その感情は実乃梨に抱くような気持ちとは全然別で、それでも優劣などつけがたい大事なものだったのだ。
 好きかと聞かれたら、好きなのだろう。でもそれは友達とか肉親に抱く感情としての好きで、などと自分を納得させてはいたが、実のところは竜児にも分からないのだ。
 少なくとも今は、安心しきった寝顔に妙な意識を持ちつつも、実際どうこうしてやろうなんて考えは毛頭ないし、そんな度胸もない。度胸があったとしてもしたくない。関係を壊したくないとか、そういった怯えではなく、単に大河が大事なのだ。
「大河」
 そっと頭を撫でて、意味もなく名前を呼ぶ。
 と、不意にぱっちり目が開いた。
「おうっ」
「あえ?」
「うん?」
「あう……」
「いや、何だよ」
 不毛なやりとりのあと、大河はぶるっと身を震わせ、毛布を掻き寄せた。
「帰んねえのかよ。泊まりになっちまうぞ」
 大河は起きてるんだか寝てるんだか、
「や……眠い……寒い……」
 独り言のように言って眉根を寄せた。
「いやっつってもなあ……」
 貞操より眠気を選ぶのか、この女は。いや、別に何もしないけど。
 竜児は頭を掻いて、再び携帯を開いた。三十分も経っていた。風呂に入る時間を考えると大河は二時間後には起こさねばなるまい。その間畳に転がしておくのもどうか。
「もう、知るか」
 ちょっと考えて、竜児は毛布にくるまった大河を抱え上げ、自分のベッドに寝かせた。起きたとき何か言われたら、自分から入ったんだと言えばいい。どうせ覚えてないだろう。
「……で、俺はどうすっかね……」
 小さく息をついたところで、丸まっていた大河が寝返りを打つ。それで毛布からはみ出して蒲団に触れたのだろう、「つめたっ」とぱっちり目を開き、視線をさまよわせること二秒。ベッドから離れようとしていた竜児の服をがっちり掴んだ。
「な、何だよ。寝てろよ。もしくは帰れよ」
「……つべたいじゃない」
 竜児はいつぞやの鞄の引っ張り合いを思い出した。あのときはくしゃみさえ出なければ、あんな小さな身体で竜児と互角の渡り合いをした大河である。半端な姿勢だった竜児が抗えるはずもない。あえなくベッドに倒れる。
 引きずりこまれた。
「おい! お前……!」
 幾らなんだってそりゃまずいぞ、と竜児は背中にへばりついた大河の方へ何とか首を回す。そこには安らかな寝顔があった。
「こいつ……」
 要するに大河は最初から最後まで一度も起きちゃいなかったのだ。その間竜児は焦ったり照れたり動揺したりと大忙しだったというのに。馬鹿みたいだ。

 二時間後、セットしたアラームが鳴り、不運にも思いのほか寝入ってしまった竜児より先んじて覚醒した大河は、一分ほどかかって状況を見て取るなり、竜児をベッドから蹴り出し、罵り、起き上がってきたところに往復ビンタを見舞ったのだった。

2008/12/22