保留3

 嘘も方便、という言葉がある。瀕死の兵士にお前はもうダメだと言わない優しさのことだ。あるいは窓が壁に面している病室の二人の入院患者の話とか――あれは嘘が仇になるが――つまりだ。物事を円滑に進める上で、波風立てずコトを荒立てずに済ませるためには、害のない、バレないような嘘ならついても平気だぜってことだ。和をもって尊しとする日本人の特性をよく表した言葉であると言わざるをえない。けだし、名言だね。
「様子を見ろって言われてもねえ」
 どうしたもんかね。俺は涼しげな顔で読書と決めこむ我が恋人の姿を打ち眺めた。
 どこからどう見てもかわいいなあ――おっと。うっかりノロケてしまった。謹んでお詫びしよう。
 と言うような有様で。俺としては、いかんせん初めてできた恋人の存在に正直舞い上がっており、今まで俺のどこに眠っていたのかと思われるほどほとばしる熱いパトスが、記憶されるかぎりクールな男であった俺の思い出を大絶賛裏切り中、幸せすぎて歩行時も一センチくらい浮いてしまっている特定意志薄弱児監視指導員のような状態であり、端的に言って察しのいい勘の鋭い人間が既に疑いの目でこちらを見ている情況で嘘をつくなんてことは、米軍に沖縄から退去しろというくらい難しい話だし、耳の長いアマミノクロウサギくらいありえない話なのだ。
 問題外である。まったくもって、どうしたもんかね、と嘆息閉息青息吐息するほかない。
「大丈夫」
「お前が太鼓判押してくれるっていうんなら心強いな」
「あなたが歩行時に浮遊しているという事実はない」
 文字列を追うペースはあくまで一定に、長門は断定した。
「……メタファー?」
 わずかに目線だけ上げる長門。テナニンみたいなことを言う奴だ。というか何だ、もしやノリツッコミだったのか。
「まあ、つまり何というか」
 この件は保留。それが我々特定意志堅固児監視指導員の出した、文字通り保留の結論だった。古泉の言葉を借りれば「様子を見る」ということなのだが、朝比奈さんや俺の意見からすれば様子を見るのは話を切り出すタイミングを見計らうためであり、要するにそもそもどう切り出したものやら見当もつかないがために様子を見ているのに、その話を切り出すために様子を見ることすら様子を見るべきだという、マトリョーシカ的情況というか、様子見ステイタスに変化したはいいが消化すべきイベントも皆目分からないという閉塞的な実際なのである。
 この件に関して長門はいっそパーフェクトなまでな無関心さを保っている。
 一応、いやいや、長門よ、この話にはお前も一枚噛んでいるどころか、当事者の一人なんだから、ミクロン単位でもいいから何か意見を出してくれないものかね。さっきの百倍希釈のノリツッコミはともかく、お前が何か言ってくれるとそれだけで結構助かるんだけどな。お前の声を聞くのも好きだが何より、のべつまくなしベラベラ立て板に水のあの軽薄なイケメンの百の言葉より、寡黙なお前の発するひと言、いや一文字一音節の方が少なくとも俺にとってははるかに重みがあるんだぜ。古泉もあれはあれで頑張っているんだろうが、あいつは少し言葉を弄しすぎる嫌いがあるよな。
「ハルヒに嘘ね……しかし古泉に時間をやったところで何が解決するとも思えないんだがなあ。むしろ時間が経ったらよりややこしくなる気がするよ」
 どうせ来る嵐なら、さっさと来てもらいたい。到来は予測できるのに先延ばししていたら、その分の時間ずっとストレスを抱えたまま過ごさにゃならん。面倒くさいこと極まりない。夏休みの宿題なんかとは違って、差し迫った期限がないのがせめてもの救いではあるが。
「ハルヒ」
 ぼそっと。しかしピンポイントで俺の耳に差し入れるような声で長門は呟いた。
「あなたは、涼宮ハルヒのことを苗字ではなく名前で呼ぶ。しかしあなたが他の人物を名前で呼ぶところをわたしは聞いたことがない」
 まともに会話する気になったのか本を閉じ、こちらに首を向ける長門。しかしそれはこのお話は本腰入れて解決するまでとことん話し合いますよ、オーバー。という有無を言わせぬ無言の圧力が感じられる態度であった。
 ちょっと怖いぞ、長門さん。
「どのような意味が」
 じっと。黙して俺の返答を待つ長門。だから怖いって。
 でもまあ、言わんとしていることは分かるぞ。
「まあ、何だ、特に深い意味はないな。気軽さというか気安さというか、まあ親しみもあるんだろうがあいつに敬意とか礼儀とかそういうもんを使ってやる気になれなくってな。そういう諸々の折衷案……だと思うぜ。実際俺もいつから呼びはじめたか覚えてないし」
 親しみを感じてはいるのだろうが、どちらかと言えばその呼称はぞんざいさというかざっくばらんさなどの表れであるように思う。親戚の子供達への対応のようなものだ。
「こら、ハルヒ、御神木に登っちゃいけません!」
 とでも注意するかのごとく、
「こら、ハルヒ、勝手に世界を変えたらだめでしょ!」
 同じような文脈で同じように対応するための呼称である。
 長門は別にそのこと自体に興味があるわけではないらしい。長門こそ常にあなたわたししか使わない奴でもある。だから、妬いているとか疑念を抱いているわけではないようだった。信頼されているようで嬉しいね。こちらを見るその目はいつもどおり一見して一定不変の常態である液体ヘリウム的な眼差しだったが、大別するならば何かを期待しているように見えなくもない。
 ああ、分かるぜ、お前が何をしてほしがっているか。かわいい奴め。いつもこれくらい分かりやすければ助かるのだが、それは贅沢というものだろうな。俺だけにしか分からないというのも大いに独占欲を刺激されて、心地いいものがあるし。
 さて、言うぞ。
「…………」
 思いのほか恥ずかしいな、これ。確かにこんなことを気安くやっている相手というのは親しみを抱いていると思われても無理のない話なのかもしれない。
 俺は冷めた麦茶を啜った。
「だから、な。俺はあいつを何か特別に感じているから名前で呼んでいるわけじゃないんだ。俺がその……なんだ、特別に思ってるのは、お前だけだ。だからさ、お前のこと」
 普段はハルヒの魔手から朝比奈さんを救うためにしか発動しない覚悟だが、長門有希、お前に使わせてもらうぞ。いや、むしろこれからはお前専用だ。至上の覚悟はお前だけのために用いうるものとする。会員様限定特別提供だ。オンリーユー。
 俺は残りの麦茶を飲み下した。
 覚悟完了だ。
「お前のこと、有希って呼んでいいか?」
 言った。言ってしまった。
 長門――いや有希の反応を待つまでもなく、俺はものすごい達成感に満たされた。困難に打ち勝って偉業を成し遂げたかのような気分だ。自分の人生はまさにこのためにあったのかもしれないとすら思った。
 長門有希、そうフルネームで語る文脈でしか発声したことが――あ、いや声に出したことこそないが、頭に思い浮かべる行為においてもそのひと繋ぎでしか認識したことのなかった名前ではあったが、分割して普段使わない片割れを使ってみただけで、これはどうして新鮮な喜びに胸が躍る。
 ああ有希よ有希。有希有希有希有希。有希さん、有希ちゃん、有希さま、有希はん。何ゆえ今までそう呼ばなかったのか。照れくささが先行していたためとはいえ、愚かしい恥じらいであったと思わざるをえない。もっとも恋人として親しみを込めてそう呼べたのはどんなに早くとも昨夜からなのだが。
 と、いうか、なんだ。俺はあのときあの真最中にも彼女を苗字で呼んでいたのか。そもそも相手も人に名前で呼びかけないとはいえ、よく興を削がれなかったというべきか。苗字もアリといえばアリだが。
 しかしまあ長門有希は実際その存在が日本国で書類上どう登録されているのかは知らないが、家族や血縁関係のある人間はいないだろうから(たぶん)、こいつの名前は長門(所属名)有希(個体名)ではなく、長門有希(個体名)なのだろう。俺が長門のご家庭にお邪魔して有希と区別すべき長門さんは存在しないということはつまり、下の名前で呼ぶ必然性がなかったということか。
「……いい」
 三秒ほど逡巡めいた時間を置いて長門はぽそりと言った。正座のままじっと俺から視線を離さない。
 それは肯定の「いい」だよな?
「そう」
 微かに首肯すると有希は立ち上がり、コタツの角を曲がって俺の隣に膝をついた。片手を俺の肩に置いてそっと顔を近づける。
「この情動反応をうまく言語化することができない」
「……なんだ、とりあえず言ってみろよ。今更俺たちの間で情報に齟齬なんて発生しないからさ」
 そうとも。混線していた回路はようやく一本に繋がったのだ。お互いの意図が誤解されるようなことなんてもう起きないさ。
「……言語化は中止する」
「中止?」
「再検討したところ、言語は不要との結論に達した」
 鼻先が触れ合うような距離だが、有希の言葉はあくまで淡々としている。
「でもあなたが望むなら、一つだけ言える」
 残った手を反対の肩に廻す有希。額に額をつけ、滅多にないことだったが目を細める。
「……ありがとう」
 唇が柔らかく触れ、一度離れて再び触れた。
 一体俺はどんな表情をしていたことだろう。死ぬ。幸せすぎて死ぬ。舞い上がるなと言われる方がどう考えても理不尽な話だ。今の俺は陽気に踊れと命じられれば陽気に踊っちゃうくらいのラテンな男と化している。
 どう隠せと。俺はそもそも、顔に出るタイプだ。根っから正直者なのだ。ポーカーフェイスに定評のある某ハンサムや僕っ子の友人とは、ましてや俺以外にはほぼ表情の変化を区別できないマイハニーとは違うのである。嫌なものを見ればうへえって顔になるし、好ましいものを見れば顔がにやける。
 あとはもう至極単純な作用だ。有希が視界に入っていれば俺は緩みっぱなしである。当然同じ部屋に居たら見ざるをえない。見るなと言われたら、俺はそういう不当な圧力には断固として抗議する。ハンスト、座り込み、デモ行進。有希をその目に見んがためにあらゆる抗議活動に身を投じてくれるわ。
 つまり団長様に我々の関係を秘密にしろというのは、到底できない相談だ。百歩譲っても難解極まる話だ。
 そもそも古泉当人も言っていたように、そういう事実は祝福こそすれ、いかがわしい組織に所属する連中の思惑がどうなのかは知らないが、ひた隠しにするようなことではないと思うのだ。ハルヒだって案外喜んでくれると思うぜ? 団長だ団員だ雑用係だなんていかにも縦の繋がりみたいなことばかり言ってはいても、結局友達だし、あいつはツンデレだ。
「なが……いやさ有希、有希さんよ、お前はその……名前では呼んでくれないのか」
「キョン」
「なんと」
 即答であった。
 有希の顔は水平軸から二度くらい傾き、黒目が振幅僅かに〇・五ミリメートルばかり揺らいだ。俺の真横に正座したまま、口を開きかけて閉じるという、このキュートかつスウィートな宇宙人にしては余り意味のない動作をした。
 というのは全て俺の気のせいとも考えられるくらい些細な変化だったが。とにかく俺にはそう見えるんだよ。文句あっか。
「…………」
 きっかり二十秒の沈黙の後、有希は再び口を開いた。
「……活動限界を超える行為。今のが最初で最後」
「嘘お!?」

2009/10/30