保留1

「じゃあ、またな」
 といつもの別れ道。いつもは寸暇も惜しまんとばかりにさっさと踵を返すハルヒが、長門と一緒に歩き出した俺を見咎めた。
「ちょっとキョン、なんで有希についてくのよ」
 俺より身長が低いにもかかわらず斜め上から見下ろすポーズ。腕組みに仁王立ちが併さって、威圧を増している。何やら不穏当な空気ではあるが、こちらをじとっと睨むハルヒの表情からは先日俺を詰問したときのような険悪さは薄れていて、どちらかといえば歯痒いような色があった。俺ばかり長門と親しくなるのが寂しいのだろうか。
「ああ、本を貸してもらうんだ。厚い本だから学校まで持ってきてもらうのは荷物になるだろ」
 立て板に水といった体ですらすら流れ出す言葉は決して嘘ではない。といったら少々欺瞞になるかもしれない。特に約束をしていたわけでもなくたった今考えついたことなのだが、どの道長門の部屋には寄るのだし、現状は一応隠し事をしているのにまさか本当のことを言えようはずもなし、アポなしとはいえ長門が本を貸してくれないわけもないので、何か厚モノのハードカバーを借りて帰れば取り敢えず体裁は整いはする、はず、で、ある。
「トイレ?」
「え?」
 ハルヒは目を眇めて所謂便所を意味する外来語を口走った。
「借りるんでしょ、あんた」
 下痢だから、と継いで口を尖らせる。
「いや」
 違うぞと言いさしたところを、背を向けて首だけこちらに向けていた長門が向きなおって、
「そう」
「そうか」
 俺は下痢に決定した。
「女の子の家でトイレ……しかも大で下してるなんて……あんた羞恥心ってものがないわけ? まあ一応あたしには隠したんだから恥ずかしくはあるわけね。っていうか体調悪いんなら寄り道してないでとっとと帰りなさいよ」
 ハルヒは途中羞恥心のくだりで俺が差し挟んだ「お前にだけは言われたくない台詞だな」を完全にスルーしてまくし立てた。そして何やら「うんうん」と一人勝手に頷いている。
「そうよ、キョンは下痢だから有希の部屋のトイレを借りるんだわ」
 合点がいったらしく、ハルヒは表情を和らげた。もとい真顔に戻した。具体的に言うなら直線だった上目蓋を弧状に戻し、全体的には顔面の筋肉を緊張から解放したのである。
「キョン、あんた下痢なんだからトイレ借りたらとっとと帰って下痢止め飲んでその下痢早く治すのよ」
「下痢下痢言うなよ……」
 そんなに連呼されると本当に腹が痛くなってきそうだ。が、ハルヒはこれもまた無視した。
「有希、あんたも簡単に部屋に男上げるもんじゃないわよ!」
 ビシッ、と効果音の飛びそうなほどキレのある動作で長門に人差し指を向けた。長門は無感動な面持ちでその指先を見つめていたが、五秒ほど経過してからゆっくりと視線を上げた。ハルヒも慣れたもので長門が喋り出すタイミングを計っていたらしい。
「……彼以外を上げる予定はないから」
 俺は思わず頬を引きつらせた。今のはいいのか、セーフか。ギリギリアウトなんじゃないだろうか。長門はこちらを見もせず、「というのは」と続けた。
「信頼が置けるから。彼はちゃんと相手の意思を尊重できる人。あなたも知っているはず。だからあなたの心配するようなことは起こらない」
 長門は「だから」と重ねた。
「大丈夫」
 ハルヒは毒気を抜かれた様子で首を傾げた。少し唇を尖らせて、器用に片眉を上げる。日本人にはこれができる人とできない人がいるとか。まあどうでもいい話である。
「あ、そ。まあいいわ。有希がそこまで言うならあたしも信頼してあげる。団員同士が親交を深めるのは、やぶさかでもないし……ねえキョン、どうやったら有希からここまで信頼されるの? 今度教えてほしいもんだわ! じゃあ!」
 くるりと反転、ハルヒはいつもの調子で素っ気なく手を上げて駆け出していった。常々思うのだがあいつは走らないと生きていけないんじゃないだろうか。マグロみたいに。
 その様子を見送って、それまで息を詰めていたと思しき苦労人二人が胸を撫で下ろしていた。何とも申しわけのないことである。こちらを振り返った古泉に曖昧に笑いかけると、古泉も二十パーセントくらいの微笑で肩をすくめて見せた。
 朝比奈さんは――恐らく埒のない考えに思いを巡らせている。ちゃんと訳を説明しなければならないだろう。できるだけ早く。

2009/04/02