人称

 晴れやかな気分の背景は晴天、悲しいときは雨模様、などとフィクションの世界ではしばしば、たった一個人のために局所的な天候が左右されてしまうことがあるのだが(推奨はできないぜ? 長門いわく)、この日の天気はある意味俺の心境を如実に体現していたと言えよう。
 即ち、俺の気分とそっくりな深いブルー。晴天である。忌々しい。
 ここ最近雨続きであったせいか、久々に覗いた晴れ間を喜びたくはあるのだが。心にわだかまりを残したままでは慶事も慶事たりえないのだ。それはちょうど宿題に手を着けぬまま迎える八月三十一日である。そんな日に限って空は晴れ晴れと澄み渡っていたりする。
 忌々しいったらありゃしない。
 もっとも、この奇態な高校生活を強いられるようになって以来、頭痛の種といえばそれこそ小袋に詰めて風船で飛ばしたいほど山積し、凡百ないち高校生の抱えるそれとしては全く似つかわしからぬ――いわば噴飯ものの荒唐無稽な悩みを食傷するほどに抱えてきた俺にしては、随分と人間らしい悩みとも言えるのだが。
「……長門?」
「…………」
 無反応。これである。
 長門有希なるこの宇宙人製インターフェースは、元からそうやる気のある反応を見せてくれるわけでもない。答える必然性を感じないような質問には無言をもって返すような場合さえある。とはいえ、近頃とみに人間らしくなってきたことでもあるし、呼びかけにはせめてシラブルの二三でも返すなり本から顔を上げるなりしてくれたってよさそうなものだ。
 それが、昼間廊下ですれ違ったときの会釈に始まり、部室のドアを開けたときの挨拶に続き、更には最前からの呼びかけに一切反応反応を示さないのは一体どうしたことだろう。
 しかも俺に対してだけとは、一体全体どうしたこったい。
「なーがーとー……」
 反応を期待できない呼びかけは尻すぼみに消えうせていく。長門の表情は俺ですら判読しかねるほどの無である。新品の半紙や霜に覆われた氷を想像されたし。強いてどちらかと問われたなら、少なくともご機嫌ではなさそうである。
 あるいは俺が何か悪いことでもしてしまっただろうか。常にご臨終の心電図のような平静さを保っている長門だが、怒るときは怒るのである。声を荒げたりなんて勿論するはずがなくても、内に秘めた怒りというか、ともかくこいつが怒るとこれが相当怖いのだ。まさしく「普段大人しい人が怒ると……」を地でいっている。
「あんたたち何かあったの?」
 気まずい雰囲気を察したのか、ハルヒが問う。聞こえていないのでもない限り、全く無反応とは幾ら長門でも不自然だと気づいたのだろう。そもそもあいつがどんなことでも聞き漏らしているとしたら、そっちの方が余程大事件であるといえよう。俺は首を傾げて肩をすくめ、考えうる限り全てのお手上げポーズをしてみせた。
「ねえ有希?」
 ハルヒは今度は長門に声をかけた。
「…………」
 無言である。無言ではあるが読んでいた分厚な本から顔を上げ、長門はハルヒの方を見た。聞こえてはいるようで、俺は少し安堵した。ということはつまり意図的に俺を無視していることになるので本当は息もつけないのではあるが。
「キョンと何かあったの? まさか何かされた?」
「してねえよ」
「なにも」
 今のは「まさか」がついただけ俺の地位が向上したと考えるべきなのだろうか? 何かして当然と思われなくなった分には?
 さて、果たして俺は今日初めて長門の声を聞いたわけである。昨日話してから丸一日も経っていないだろうが――実際声を聞いていないことを意識しだしたのはたかだか数時間前で、いつもだったら二三日ひと言も聞かないこともままあるにも係わらず、その声は妙に快く聞こえたものだった。
「だったらどうして無視してるの?」
 ハルヒが語を継ぐ。ごもっともだ。何かした覚えもないし本人も何もないというのならなぜ俺を無視するのか? よもや情報ナントカ体の指令か何かか?
 長門は一瞬俺の方を見かけて、角度にしてあと十二度くらいのところで視線をハルヒの方へ折り返した。目も合わせたくないというのですか長門さん。
「気づくまで」
 ぽつりと漏らす。凪いだ水面みたいに平坦な声だった。
「はぁ?」
 その感嘆詞はファルセットに達している。全くの余談だが、幾つかの国、例えば中国なんかでは日本語の「え? 何ですか?」程度のニュアンスで今の「はぁ?」のような強い聞き返し方をするらしく、背景を知らない日本人観光客なんかは恐縮してしまうようであるが、前述のとおり、特別強い感情は含まれていないそうな。今のハルヒにしても同様であろうが、長門の説明を理解しようとするならもう少し根気よく待たなくてはいかんぞ。まだ言葉が続くかもしれないからな。
 予想どおり、長門が口を開きながらゆるゆると人差し指を俺に向けた。
「自分で」
 と、まあたった四音節。漢字かな交じりで三文字ではあったが。
「やっぱりキョンに原因があるってことなのね?」
 あの二言から即座に長門の意図を探り当てるとは、中々どうしてハルヒも長門をよく見てるじゃないか。
「……一応」
 あるのか。何もしていないのに俺が原因とはこれいかに? 何もしていないことが原因だったりするのだろうか。
「ほら見なさい。あんたのせいじゃない。
 ……で、有希はいつから口を利いてくれないわけ?」
「む……昨日の別れ際までは?」
 俺の覚え間違いではなければ、別れ際「じゃあな」と言った俺を、長門はちゃんと視界に捉えていたと思う。ハルヒは難事件に直面した名探偵みたいな顔で、
「その辺が怪しいわね……」
 などと無責任なことを言い、俺に昨日から今日にかけての自分の言動を微に入り細を穿って完璧に思い返すように強要した。あいにくと俺は大事なことは忘れてどうでもいいことはよく覚えているというありがちなタイプなんだよ。それでもさっきからの長門の無反応にぶち当たって、言われなくたって自分の行動を思い返したりしたんだぜ?
 それでも、一度探したところをもう一度見てみると失せものが出てきたりすることもあるから、貧弱な記憶野を再起動し、覚えている限りの行動を遡ってトレースする。落し物を探すために歩いてきた道を引き返すように。
 脳内時間遡行終了。原因不明。以上。
 やはり何も思い当たらない! 昨日は長門から以前貸してもらったハードSFの続編(これまた分厚い本)を借りたりと、「よう」と「じゃあな」しか言わない日なんかと比べたらかなりフレンドリーな接触を持ったはずだ。存在も認めてくれないほどのことをした覚えは毛頭ない。全然ない。全部まるっとエヴリシング・エヴリタイム、ない。
 それとも何かをしていないことが問題なのか。長門は俺の煩悶も意に介さずといった風で、ぺらりとページを手繰った。俺が長門に対してすべきこと? 本を借りたお礼は言ったし、挨拶もしている。取り敢えず同じ部屋に居る学友に対する義務は全て果たしていると思うのだが。
 そもそも、寧ろ俺は正直なところ長門を特別扱いしているから、他の三人に比べて『している』ことは多くとも『していない』ことは少ないはずなのだ。俺だけが長門にすべきことなのだとしたら、それはもう神のみぞ知る領域だ。長門に土下座でもして教えてもらうしかあるまい。
 あるいは、無視されているのは俺だけなのだから、ハルヒたちは長門に対し俺とは違うことをしているということだろうか? 一体何が違うというのか。部室で見ている限り何にも違いが見出せない。俺の知らないところで起きていることだったら本当にどうしようもないぞ。
 あ。
「呼び方?」
 そう言ってから、誰しも凍りつくこと約一分。平均速度から鑑みるにそろそろ読み終わろうかという時間だが、長門がページをめくらない。そのまま黙って反応を窺うが、やはりページが進まない。
「アタリか?」
 長門は無反応のままだが、伏せられた目が文字列を追っていないことは容易に察せられた。数時間来絶えていたが、やっとこさ俺に対して意識を向けていることが分かるまでになった。どうも正解らしい。
 はて。俺たちの間で何か接し方に違いがあるとすれば、呼び方だ。四分の一と二分の一の違いでしかないが、俺とハルヒの二人称三人称はそれぞれ、古泉と朝比奈さんの使うそれとは違っている。例えば、朝比奈さんを「みくるちゃん」と呼ぶのは不遜なハルヒだけだし、古泉を呼び捨てにしているのは俺だけというように。
 しかし呼び方の違いだけで前日まで普通に接していた相手を完璧に無視するものだろうか。半信半疑ではあるが、こっちは万策尽きている。
 長門に対して使われる多数派二人称は「長門さん」だ。もしかしたら長門は俺とあいつの間に立ちはだかる圧倒的なスペックの違いから、呼び捨てを無礼なものと感じるようになったのかもしれない。突然な。取り敢えず敬称でもつけてみるか。
「長門さん?」
 反応なし。一番無難どころだったのだが……。
「長門様?」
 これは違うだろう。
「長門ちゃん?」
 どこの業界人だ。
「長門殿?」
 どこの流浪人だ。
「長門うじ?」
 忍者か。
「ミス・ナガト?」
 まさかだろ?
「…………」
 予想はしていたことだがことごとく無反応である。それどころか失望の色さえ浮かんでいるように見える。長門がページをめくった。やべえ。
 しかし敬称がダメとなるとあとはもう思いつく限り常識的な二人称は一つしか残っていないのだが。それは口に出すと想像しただけで恥ずかしいぞ。いや、まあハルヒはハルヒと呼んではいるが、それは苗字より呼びやすいからであって、ゴニョゴニョ。
「……有希?」
「なに?」
 即答であった。

名前を呼んでほしい長門さんでした。

08/04/30