迷彩2

 危うくハルヒに保健室に連れていかれそうになったところを寸でで切り抜け、俺は制服に戻った。いつもは億劫に感じるネクタイも今日ばかりは、寧ろ安堵感を与えてくれたのだが、どうにも誤魔化しが上手くなってきた自分には、若干の息苦しさを禁じえないので相殺といったところ。
 まあある意味では本当に気分が悪い気もしてはいた。主な症状は動悸、悪寒、冷や汗などだが、こうして並べてみるとどこか悪いように見えなくもない。
 実際に悪いのは状況だけなのだが。
 授業風景など描写しても退屈なので、時間は放課後まで飛ぶ。そこは毎日何ら変わらぬ文芸部室の光景ではある。が、俺が普段より長門を気にしている辺りが、少々事情の異なるところである。
 俺はドアから見て向かって左、本棚を背にして座り、その左隣に長門が座って本の虫と化している。首の付け根の右側には、セーラー服から覗く肌色の絆創膏。まだ誰にも気づかれてはいないようだが、ひと組の近しい仲の男女が同じ日に同じような(しかも生活する上で滅多に傷をつけなさそうな)部位に絆創膏を貼ってくるなんて、怪しさの極みであろう。少々鈍感を自覚しつつある俺でさえ怪しく思うのだから、勘のよい団長様や立場上観察眼を肥やしているエスパー野郎に気づかれでもした日には、特に前者からの容赦ない追及は免れえまい。
 矛盾しているようだが、稀なことというのは一つの事象に限らなければ存外によく起きるものだ。久々に足を伸ばしてみた年中無休のラーメン屋がその日に限って臨時休業だったりな。とはいえ、そんな不確かな経験則を持ち出したところで再燃した疑念を払拭できるとは言いがたい。何よりこちらの根底は嘘なのだから、谷口でさえ誤魔化しきれなかった口八丁猿芝居が、その数万倍は賢いハルヒに通じるわけがないじゃないか。
 逆に考えてみると、いっそ真相を明かしてしまった方がいいのかもしれない。先の宣言ののちに事情が変わってしまったことは信じてもらえないとしても、どうせ覆した事実は盆には返らないのだ。不誠実な嘘を続けるよりよほど胸のつかえも下りるってもんだろう。嘘もつきとおせば真実なんていう欺瞞に誘惑を感じないではないが、あいにく人を騙すのに何の呵責も感じないほど鉄面皮というわけでもない。「切り札」の隠しついでとも思うが、フィクションはリアルの中に混ぜてこそ説得力を持つともいうではないか。
 誠実なんだかどっちなんだか、我ながら言いわけがましいね。
 この際だ、気づかれる前に先手を打ってこちらから話してしまおうか。時間が経つほどに暴露時のダメージは大きくなる。大きくなるからつきとおさねばならないという悪循環だ、雪だるま式に嘘が増えていくことも考えられる。最悪の場合古泉が大怪我するかもしれないし、世界が終わることも大いにありうる。
 長門とハルヒを窺う。二人ともに何ら変わった様子はない。しかし俺の視線を感じたか、長門がこちらを向いた。無表情なようでいて、心なし優しげですらある。俺は胸を締めつけられる。
 長門に相談しよう。毎度のことながら頼りすぎのきらいはあるが、これは俺たちの問題だ、自分一人で抱え込むよりはマシだろう。
 だとしたら早い方がいいな。誰かに感づかれるより早く。
「長門」
 俺は横目に長門を見たまま、自分にしか聞こえない程度の声で呼びかけてみた。果たして長門は小さな口を開閉した。読唇術はできないが、その唇が象った言葉が「なに?」であったことは容易に理解できた。
「聞こえてるか?」
 再び口の中で呟く。長門は二ミリほど顎を引いた。
「二人で話したいことがある。先に出て階段の下で待っててくれ」
 長門は無言のまま音もなく立ち上がり、長机に本を置いた。
「有希? どこいくの?」
 ハルヒがモニタ越しに問いかけた。長門はドアの前で振り返り、壁の向こうを指差した。
「……となり」
 コンピ研のことだろう。最近よくお隣さんに顔を出しているから、怪しまれないと踏んだのだろうか。長門も随分柔軟になったもんだ。
「あ、そ。いってらっしゃい。何かあったら大声出すのよ。すぐ救出に行くから」
 お前はあの哀れな連中を何だと思ってるんだ。彼らはお前のかけた黒魔術「この人痴漢です!」に呪縛されている上に長門を女神のごとく崇拝してるんだぞ。毛の先ほどだって傷つけたりするもんかい。第一そんなことがあったら幾ら俺だってタダじゃ済ません。
 長門は頷いてから出ていった。さてどれくらい間を置けばいいかね。
「どうかなさいましたか? 先ほどから落ち着かないようですが」
 素晴らしき助け舟。俺は危うく古泉ににっこり笑いかけるところだった。
「いや、すまん、何か腹が痛くなってきてな」
「ちょっとキョン! やっぱりまだ具合悪いんじゃないの!」
 言い終わらないうちにハルヒが口を挟む。既に立ち上がっており、ぐずぐずしていると熱でも測りにきそうだ。
「拾い食いでもしたんじゃないでしょうね」
「そこまで卑しかねえやい。昨日薄着で寝ちまったから腹が冷えたんだろう。ほら、昨日も暖かかっただろ」
 薄着で寝たのも事実だし食ったといえば食ったのだが――失礼、下品だった。
「ダメじゃないキョンくん、暑くてもちゃんとお腹にはお蒲団かけないと」
 ああ、朝比奈さんにまでお叱りを受けてしまった。怒っているお姿は愛らしすぎて飴と鞭どころか飴とチョコレートにしかなりませんよ。
「というわけだ。トイレに行ってくる」
 俺はやや前屈み気味に部室を出て、階段へ急いだ。
 階段に差しかかると、ぴったり階段の下で直立不動した長門がこちらを見上げた。
「すまん」
 長門のもとまで駆け下りる。幾ら腹痛でトイレといったって、長くて十分やそこらが限度だろう。それ以上粘っていると誰か様子を見に来るかもしれない。
「ここでいいか?」
 俺は階段を示した。
「いい」
 返事を待ってから並んで腰を下ろす。少しひんやりしている。
「冷たくないか?」
「平気」
 そう言うと長門は距離を詰めて俺に寄り添った。
「冷たくない」
 おいおい、照れるだろ。と実際照れた俺は話すべきことを暫し忘れ、制服越しに伝わってくる長門の体温に気もそぞろだった。昨夜の記憶がありありと蘇る。何の隔たりもなく直に長門の体温を――
「……話とは」
「え、ああ」
 肩の向こうに長門の黒い瞳があった。その輝きに見惚れかけて、俺は頭を振った。
「そうだな……まずは」
 そうなんだ。実は議題は一つではないのだった。まずは一つ不安を解消してもらわねばならない。
「ちょっと確認させてくれ、長門……お前確かにその……する前に、『大丈夫』って言ったよな?」
 長門が硬直した。いやこいつはデフォルトからして動かないときは本当に微動だにしないので、今だって隣に座って俺を見ている、というポーズのまま一寸たりとも動いていないはずではあるのだが。自然体だったのがこわばったというべきか。
 そのままたっぷり四十秒は見つめあっただろうか。体感時間ではもっと長く感じられた。解答の正否をCMを挟んでまで引き伸ばすクイズ番組のようだ。あれをやっていると俺はチャンネルを変えるのだ。
 冷や汗。
「……大丈夫」
「そうか」
 すると長門は腹を撫でた。
「わたしが育てる」
「ちょっと待てえ!!」
 俺は一瞬間のうちに頭を抱え天を仰ぎうなだれるという挙動をやってのけた。両親に土下座する俺、高校を中退して働く俺、ハルヒに殴打される俺などが次々に去来する。
「……冗談」
「…………そうか」
 勘弁してくれよな、ただでさえお前は表情が以下略。
 長門の無感動な白皙は何か笑いの発作を堪えているようにも見えた。幾らなんだってその手の冗談はタチが悪いぜ。まあご愛嬌といったところかね。
「今度はちゃんと、対策をした上でしないか」
 幾らご都合主義的なコズミックパワーで出す側の責任を放擲できるとはいえ、不安はどこかしらに引っかかっているし何より些細なことでも長門の負担にはなりたくはない。お互いに責任を持っている方が対等な気もするしな。
「今度」
 長門は鸚鵡返しに呟いた。長門よ、常にあと二三言付け加えるようにしてくれ。俺だってぎりぎり判別できる程度なんだから、他の奴にはまず分からんぞ。
「ああ、いや、つまり。順番が逆になっちまったんだが」
 俺は顎を掻いた。やがて数回躊躇ってから、意を決して長門の目を覗きこむ。
「もう一度言う、昨日は悪かった。あの時は半ばその場の勢いに流されちまったんだ。勿論それが嘘だったっていうわけじゃなくて、単に順番の問題なんだが……」
 長門の視線に射抜かれて、舌が踊る。
「その、だな……」
 ええい! とっとと言ってしまえ!
「古泉一樹」
「そう古泉がな……って、え?」
 長門は首をひねって段上を見ている。視線の先には、ハルヒに言われて様子を見に来たのだろう、困惑顔の古泉。
「お邪魔でしたか?」
 ああ、途轍もなく邪魔だ。さっきの助け舟はチャラだな。
 やれやれだ。