迷彩1

「何その絆創膏?」
 ハルヒが目ざとく俺の首を指差した。ケガをしていたときや、あるいは体調が悪かったときなどはこいつの勘の鋭さは大いにありがたいだろう。しかしわざわざ目立たない肌色タイプの絆創膏を早朝買いに走った俺にとっては、そんな心配はありがた迷惑以外の何ものでもなかった。
「あー……これか?」
「他にないでしょ。なんかキスマーク隠してるみたいよ」
 ここでギクッとしてはいけない。気づかれなければいいとは思っていたが、指摘された場合に備えて充分にイメージトレーニングも積んでいるのだ。
「人聞きの悪いことを言うな。昨日シャミセンにやられたんだよ」
 といかにも痛そうに首をさすってみせる。ハルヒは意地悪そうに笑った。
「なあに、あんた自分で引き取った癖に懐かれてないんじゃないの?」
 仕方なく引き取ったんだろうが。
「ちげーよ。風呂に入れようとしたら大暴れされたんだ」
「ふーん、その割には手には傷がないみたいだけど?」
 畜生、こいつは将来恋人の部屋の風呂場で排水溝をチェックするような人間になる。間違いない。
「風呂場までは大人しかったんだよ。だがシャワーの音に驚いてしゃがんだ俺の肩を蹴り越えて逃げ出したってわけさ、ほれ」
 俺はシャツの襟を引っ張って、鎖骨の辺りに貼った絆創膏を見せてやった。ハルヒははっとしたように大きな目を見張ると、頬を紅潮させてそっぽを向いた。
「あ……そう」
「そうそう、腿にも爪の跡が残ってるぞ。見るか?」
「いいわよバカ! 分かったってば!」
 おどける俺をハルヒは強引に前へ向かせた。嘘をつくことに少々心苦しさは覚えなくもなかったが、真実が知れたときに俺が受けうる金銭的もしくは肉体的苦痛を勘定してみたところ、現在の心痛の二十倍くらいとでもチャラにできるほどの解答が出てきた。まあその場合はこいつが人の話を聞かない、または聞く耳を持たないがために俺がとばっちりを受けるのであって、その真実というのは別段誰に対しても悪いことではないのだから、やはりここでは嘘も方便がまかり通るわけだ。徒にコトを荒立てることはあるまい。
 つまりハルヒの言ったことが正解なのだが、まさか自分の言ったとおりとは夢にも思っちゃいまい。思い出すだに顔が緩みそうでいて同時に頭を悩ませる一夜だった。詳しくは言えない、という言わないが、予定外に色々と痕の残るようなことをしてしまったのだ。
 どうして悩まねばならないかというとこれまた色々あるのだが、一つに今嘘をつくことになってしまったのがその種なのだった。先日あれだけ何もない清廉潔白だ云々と一席ぶってしまった手前、いやー昨日いいことしちゃってさあ、だなどと口を滑らそうものなら、芸能界デビューの予定もないのに俺の前歯は総差し歯に変更を余儀なくされてしまうだろう。あの時は本当に何もなかったのだが、現在事情が変わってしまったとはいえ、それこそ『舌の根の乾かぬ』うちの出来事では信用が得られるとは思えない。
 何せ突然だったからな。いや俺にとって突然であっただけなのだが。
 そんな風にぼんやりと授業を聞き流していると瞬く間に時は過ぎ、つと時計をみると最早カウントダウン。次は体育だったな。
 体育かよ。
「おいキョン、お前なんでこそこそ着替えてんだ?」
 言うのはアホの枕詞ももうお馴染み、谷口である。俺が窓の方を向いて着替えているのを見咎めたらしい。
「近頃急に乳房が発達してしまってなあ、男性でも時々あるらしいぞ」
「何だと!? てめえちょっと見せてみろ!」
「嘘だアホ。バカ。アホ。気持ち悪いこと抜かすな」
 何でもねえよと肩をすくめ、さっさとジャージのジッパーを上げる。谷口は何とも疑わしげなアホ面で俺を睨んでいた。
「首に絆創膏貼ってたみたいだが、まさか涼宮にキスマークでもつけられたのか?」
 その瞬間俺は谷口から顔を背けており、いかにも図星といった体で思わず引きつった表情を見たのは、幸い窓ガラスに映った自分と目が合った俺だけであった。なんというシンクロニシティ。まさかの不意打ちである。侮りがたし谷口。というかアホを二回も言ったことに関しては否定しないのか。
「何バカなこと言ってるんだ。どういう理由で俺がハルヒにキスマークなんぞつけられなくちゃならんのだ?」
 俺は蔑みきった表情を見事に表現してみせ、
「国木田、アホがうつる前に行こうぜ」
「そうだね」
「おいてめえら!」
「雨で体育館ってことは、六組と合同か」
「そーだな」
「無視すんじゃねえ!!」
 谷口の喚き声を背中に、俺は内心冷や汗を拭う思いだった。六組は長門の所属するクラスである。気のない返事をする振りをしたが、実はそんなことは先刻承知だ。残念ながら事後にではあるが一応対策を立て、長門にもちゃんとジャージを着込むよう言い含めてある。なぜかって、そんなこと言えるわけないだろ! 長門が宇宙的パワーを発揮してくれさえすればこんなもの幾らでも消せるのだろうが、当の長門はそれを拒否。かくなる上は徹底的に隠すしかないのである。
 暖かくなってきたころだし、元気な奴ともなれば最初からジャージは着てこないかもしれないが、長門は長袖シーズンはずっとカーディガンを着ているような奴だから、別段怪しまれる心配はないだろう。俺は――まあ普段から元気溌剌ってキャラでもないからな。
 体育館に着くと俺の視線はそぞろ歩きを始め、目当ての小柄な後姿を見つけると何となく落ち着いた気分になった。しっかりジャージを着ている。
 と、視線を感じたのか、そいつは首が精密な動作で回転してこっちを見た。俺が小さく手を振ると、僅かに首を上下させるのが分かった。
「キョン、何ぼーっとしてんのよ。男子がチーム分けしてるわよ」
「え? ああ、今行く」
 この日の体育は、岡部教諭の活き活きした顔を見れば分かるとおりハンドボールだった。場所を取るので試合は五分ずつの総当り戦で、余った生徒はその辺で大人しく見学である。効率の悪いこと甚だしいが、担任の楽しそうな顔を見る限り――まあ好きにすればいい。俺は汗をかかずに済んで好都合だ。
 可もなく不可もないチームに編入された俺はまだ出番ではなかったので、何気なくじりじりと六組側へ移動する。
「長門」
 最初から俺に気づいていたらしい長門は、意図を察してか音もなく向こうからも近づいてきた。まあ岡部の笛が元気に響く体育館内では、多少バタバタしたって大して目立つまいが、長門は元から無闇と物音を立てたりしない。
「……誰にも見られてないか?」
 念のため小声で問う。
「ない」
 長門の声も小さいが、いつもの一定した音量と同じだ。それでいてどんな喧騒の中でもしっかり耳に届くその声を、俺は心地よく味わった。それを最後に聞いたのは今朝方で、普段の部室で会って夕方に別れるパターンと比べればかなり短時間のうちに再会しているはずだったが、どうしたものか俺にはその時間が実際より長く感じられていたのだ。
「そりゃあいい。しかし……何だか悪かったな」
 横に立った長門がゆっくり俺を見上げる。
 少し間。
「……どうして?」
「どうしてってそりゃ、見られたら恥ずかしいと言うか」
「……わたしと性――」
「シーッ!」
 聞こえないとは思うがそういうことを人前で口にするのは控えた方がいいと思うぞ。俺は素早く左見右見して長門に視線を戻した。
「…………わたしと……行なったことが恥ずかしい?」
 長門の眉毛が数ミリ単位で動く。微細な変化ではあったが、俺にはそれが寂しげな表情に見えた。
「あ……違う、そういうことじゃなくて。すまん。照れるって言った方が意味が近い。恥じることなんて何もないんだからな」
「……そう」
「何と言うべきか……そんなもの見つかったら冷やかされたりとか、余計な勘繰りをされたりとか色々不愉快なことも起きるだろ。ちょっとした噂にだってなっちまうかもしれん。ただでさえお前たちは目立ってるんだからな」
 SOS団の中にあっては地味なように見えて長門は、整った容姿や特異なキャラクタのせいか意外と人目を引く存在なのだ。谷口は極端な例としても長門に注目している男子は結構居るに違いない。あんなものが見つかった日には噂どころか軽く騒ぎくらいにはなるのではないだろうか。当人のあずかり知らないところで変な誤解を受けても困るしな。
「あなたも」
 長門は首筋を指し示した。細い指が滑って鎖骨、肩、胸へと下がっていく。いや、全箇所を確認しなくても分かるからさ。
「まあ適当に誤魔化せてるよ。だが俺なんかよりお前の方が心配だからな」
 俺は長門の頭を撫でようとしたものの、流石に人目もあるので肩を軽く叩くに留めた。長門も少しだけ手を浮かしかけたところでチームからお呼びがかかり、こちらを気にしつつもコートへ入っていった。
 さて問題はここからである。数分後俺の所属するチームは試合を開始する。相手方共々我々のチームはやる気も熱意も半々といったまことに「適当」で居心地のいい感じであったのにも係わらず、活躍すれば注目されると思ったのか――あのアホ、あのアホが異様にやる気を出し、帰宅部の身で大してあるはずもない体力を浪費して試合を引っ掻き回したがために、自然その他のチームメイツも無駄な運動量の増加を余儀なくされたのだ。
 で、何が言いたいかといえば、暑い。折りしも外は雨である。そもそも体育館という場所は密閉性が高いのか、その場所で更に若者たちが汗を流すからか知らないが、蒸れるのだ。試合を終えて汗を拭き拭き、既に体操着姿になっている者もあり、そうでない者も上着を脱いでしまっている。
「キョン、暑くないの?」
「ないね」
 例に漏れず体操着姿の国木田に不思議そうに問われ、俺は爽やかに答えてやった。
「結構汗かいてるけど」
「いや、何というんだ、これは。冷や汗?」
 実際冷や汗も混じっているような気もする。
 視線を走らせると、試合を終えた生徒の殆どがジャージを脱いでしまっている。その中にぽつんと肌色率の低い姿を見つける。無論長門である。もしやジャージなのは二人だけなのではなかろうか。本当に背中に冷たいものを感じた。長門は灼熱の日差しのもとで全力疾走しても汗一つかかずに涼しい顔をしているようなやつだから、きっとクラスの連中も気に留めていないだろうが。
 俺、目立ってる? ありもしない視線が集中している気さえしはじめた。
「ふうん……そういえば朝から様子がおかしかったけど。風邪でも引いたの?」
 そうだよ、欲しいのはこういう気遣いなんだ。お前みたいなタイプはモテそうだな。畜生。ありがとう。
「あ、ああ、そういやそうかもしれん。ちょっとだるいような気もする。動きまわったのが悪かったかな」
 結局俺は具合が悪いと言って残りの時間は見学していた。若さゆえの過ちというか情熱の暴走というべきか――嘘はつきたくないもんだね。

さりげなく酷い国木田。