あらためまして
今まで俺は、言葉に表せないということは全て語彙が不足しているせいだと思っていた。ところがここに至って俺は考えを改めると同時に確信した。ありとあらゆる言葉を尽くしても名状しがたいものは存在するのだ。 昼休みになり、振り向いたときには既にハルヒは教室を飛び出していた。どうしようもない心のモヤモヤを抱えた俺は谷口のアホ話を聞く気にはなれず、かといって確実に長門が居る部室に行く気にもなれず、弁当を持って食堂の屋外テーブルまでやってきた。別に長門に限った話ではなく誰が居ても行く気にはならなかっただろう。詰まるところ一人になりたかったのである。 幸い天気は俺の気分を反映したかのような薄曇りときては、外のテーブルを使用している生徒も居らず、俺は食堂内から見えづらい隅っこの方に座ってもそもそと弁当を食いはじめた。 ぼんやりと海苔弁の層を分離していると、弁当箱に影が差した。顔を上げると見慣れたグッドルッキングガイが弁当箱を手にニヤケていた。いや訂正しよう、取り分け笑顔だったというわけではなく、デフォルトの顔で立っていたのだ。 「ご一緒してもよろしいでしょうか?」 「……ドーゾ」 古泉は俺の向かいに優雅に腰を下ろした。 「何でこんなところに?」 「廊下であなたの後姿を見かけたもので」 「ストーキングが趣味か?」 二層目の海苔に箸を突きたてて口に運ぶ。この冷や飯の食感は何ともいえないね。古泉はゼロ円スマイルみたいな笑顔を浮かべて自分の弁当を開けた。 「滅相もない。あなたが何だか、気分が優れないように見えたもので」 古泉の弁当は、自身が赤い玉に変身するだけあって日の丸弁当――というわけではなく、華やかさこそないものの中々豊かな内容だった。浅葱入りの玉子焼きに筑前煮、煮豆――冷凍食品などはなさそうだ。何とも羨ましい。早速俺は筑前煮のシイタケを強奪した。 「やっぱりつけてきたんじゃないか。まあお前らが俺の一日の生活をトイレの回数までチェックしてたって驚かないぜ、今更な」 「さすがにあなたの私生活にまでは我々もノータッチですよ。あなたの言う『お前ら』が、僕を含んだ『機関』を指しているのならですが。お味はいかがです?」 「うまい。まさかお前が作ったのか?」 「そのまさかです。お気に召していただけて光栄ですよ」 俺は漠然と森さんが作っている姿を想像したのだが。勿論メイド姿で。 「じゃあお返しにこの市販のタレで漬け込んだ生姜焼きをやろう。……まあ別に誰って限定して言ったわけじゃねえさ。それに同じ時間を生きてる地球人のお前らが知ってても平気だっていうんなら、宇宙人やら未来人に寝言を聞かれたって痛くも痒くもないね」 冷凍のカラアゲを頬張る俺に、古泉は嫌になるくらい爽やかに笑ってみせた。 「有難く頂戴します。僕はただ、あなたが認めてくださるなら友人としてあなたを心配してやってきたんですよ。何か悩みごとでもおありですか? 解決できるかどうかは分かりませんが、相談でしたら幾らでも乗りますよ」 俺は咀嚼途中の昼飯を購買で買ったいちごミルクオレで流し込んだ。胃の中は千々に乱れた俺の心のようにカオスであろうことは想像に難くないが想像したくない。 「寧ろお前が友人以外の何かだったら、何であったって嫌だぞ」 「それはどうも」 「褒めてねえよ」 「いえ、あなたに友人と認識されているというだけで感無量です」 「お前の言葉には重みがないんだよ」 「それはどうも?」 「疑問型にしなくたってどこからどう見ても褒めてねえよ」 首を傾げる古泉から目を逸らし、俺は天を仰いだ。微妙な雲行きである。予報では曇っても雨にはならないと言っていたと思ったが。 「……それで、一体どうなさったんです?」 「え? ああー……」 どうやって話したもんだろうか。こいつに聞かれて困るような話でもないし、誰に聞かれたって困るような話では多分ないと思うのだが。いや約三名ほど話せないやつは居るな。それに誰でもといったって妹に話しても詮ないことだ。 「……これは例え話なんだが……」 「いいでしょう、例え話ですね?」 古泉はくすりと笑って、俺は眉をひそめた。 「……例えばだな……ある男が……いやある男に女友達が居たとしてだな、そいつとは疑う余地の一辺もなく全く完全に友人関係であるんだが、ある日そいつが別の、そいつとは知人程度の関係だと俺――その男が思っていた別の男と一緒に歩いているのを目撃……したとしてだな? その目撃した男の抱いた……何とも言いがたい、こうやり切れないというか、胃の辺りがキリキリしてくるような……そんな感情を何て説明したらいい?」 話しているうちになぜだか顔が熱くなってきた。何だろうこの湧き上がる気恥ずかしさは。漫画的なレトリックを用いるなら今俺の顔には赤面を表す斜線が描かれるかトーンが貼られ、幾筋も汗が流れていることだろう。野郎と対面しているときにはしたくない感じの表情である。 黙って聞いていた古泉はやがて気障ったらしく笑い、人差し指を立てて言った。 「それをひと言で表すと――嫉妬ですよ」 「……やっぱそうなんのか」 俺は箸を置いて頭を抱えた。 「どうしてだ? 何で友達に妬かにゃならんのだ?」 古泉はどこか困ったような風情で整った眉毛を歪めた。 「そこで躓かれるのがあなたらしいところなんですが……」 その辺りでもう例え話の茶番は終幕を迎えている。もっともハナから見透かされている感はあったのだが。 「どういうことだよ」 「なぜ嫉妬するか……それはたった一つのシンプルな答えです。あなたはその女性に恋愛感情を抱いているんですよ」 ウインクまでおまけにつけてきやがる。 「なんでそう断言できるんだ。嫉妬ってのは何も恋愛感情に発するものだけじゃないだろう」 そうだとも、嫉妬ってのはつまり妬ましく思うことであって、相手の状態を羨ましく思ったりすることで。つまりこの場合俺は誰が羨ましいんだ? 「あなたの『例え話』にぴったり当てはまる人物を存じあげているもので、その方とあなたの関係を間近に観察している身としましては、それ以外の解答には思い至りませんね」 古泉は目にかかる前髪を指先で跳ね上げた。切ればいいのに。目に悪いぞ。 「ですが……気になりますね、知人とおっしゃいましたが、一体どなたとご一緒だったんですか?」 「部長氏とだよ。お隣さんの」 つい苦々しく口にすると、古泉は掃除機を見たシャミセンみたいな顔をした。 「それは……全く予想外でした……何とも珍しい組み合わせですね」 「ん? 予想外ってことはないんじゃないか? 週に何度かは向こうに行ってるみたいだし」 古泉のハンサム顔が今度はドライヤーを向けられたシャミセンのような顔になった。分かりやすく言うと驚愕の面持ちだ。なぜか毛が束になって抜け落ちるくらいの。そんなに驚くところがあっただろうか。 「……ひょっとすると長門さんのことを仰っていたんですか?」 「他に誰が居るんだよ」 紅海にぶち当たったモーセですらしないであろう困り顔が目の前に出現した。ニヤケ度一桁代の苦笑いだ。何に困っているのかは知らないが困ったときくらい笑いから離れたっていいじゃないか。困惑が一周してもう笑うしかないってんなら別だが。 「僕はてっきり涼宮さんのことだと……」 古泉は大きな溜息をついた。 「お前なあ、ハルヒが誰か男と歩いてたらそりゃもう驚天動地の部類だ、心にモヤモヤなんて湧き起こるわけがない。確かにヒヤヒヤして動悸くらいするだろうが」 俺が呆れた調子で言うと、若い身空で二重生活のイケメンはなぜか恨めしげに俺を見た。 「弱りましたね」 「何のことだ」 今までの流れで古泉が困ったり弱ったりする要因になりそうなことは全然思い当たらないのだが。しかし、そうするとアレか? 「おいちょっと待て、その流れで言うと俺がハルヒを好きだって前提があるみたいじゃないか」 「そう思っていましたよ。あの閉鎖空間でしたことはなんだったんです?」 そこを突かれると若干の罪悪感のようなものを感じないでもないのだが、あれは朝比奈さんと長門のヒントから導き出した単なるキーワードであって、あくまでエンディングの象徴、深い意味はないと言い聞かせて――いや確信している。そうじゃなきゃ困る。 「……白雪姫も眠り姫もお終いじゃ『幸せに暮らしました』とはあるが、幸せな結婚生活を送りましただなんて書いてないぜ? ……というのはちょっと苦しいかな」 「大いに苦しいです。しかし……あなたはそうだったとは……」 「それで、何で俺がそうだとお前が困るんだ?」 古泉は顔の前で組んだ手の向こうからじっとりした視線を送ってきた。何か悪いことをしてしまったのだろうか。 「……我々『機関』の方針は現状維持ということはお伝えしましたね。それはつまり涼宮さんにこの世界に満足していただかなければならないわけでして……いえ、これ以上は言えません。僕の口から言っても仕方がありませんから。あなたがご自分で気づかなくては……」 そう言うと古泉は半分も食べていない弁当を仕舞って立ち上がった。 「はじめに友人としてと言いましたが、結局こちらの事情を持ち込んでしまいましたね。すみません。『機関』の人間として言うことはもうありませんが、最後に友人として、ご自分が誰にどういう感情を抱いているのか、改めて見つめなおすことをお勧めしますよ。 それではそろそろ予鈴が鳴りますから、僕はこれで。失礼します」 数秒目を合わせたあと、呆然とする俺を置いて古泉は去っていった。 半ばまで差しかかった弁当は、どうにもそれ以上食べる気にはなれなかった。 |
続きそうで続かない
2008/04/03