曖昧数センチ

 秋口の頃だっただろうか。空気からは執念深く居残っていた夏の気配も薄れ、夜風に肌寒さを感じるような季節のことだ。
 塾の帰り道。自転車を押す俺の横を歩くのは咽喉から小さな笑いを漏らす佐々木である。この日も佐々木はいつもどおり、タメになるんだかならないんだか分からないが、とにかく俺にとっては未知の分野の知識を授けてくれていた。
「教養という便利な言葉がある。物事に例外はつきものだが、害のない知識の一つや二つ、知っていたって損にはならないさ。寧ろ人生に深みが出てくると思わないかい? もっとも君が寸毫ほどの記憶容量を惜しむというのなら、僕も敢えて強いたりはしないよ。そうしたところで君の脳の勉学に対する割り当てを増やすことに貢献できるとも思えないけど……だとしたら残念だな、こう見えて僕はこうした君との無害な知識の交換を結構楽しみにしていたのだが」
 佐々木の話、というか佐々木っていう奴は隙がなくて、少し割り込みづらいところがある。別に嫌で言ったわけじゃないぞ。タメになろうがなるまいがお前と喋ってるのは俺だって好きだからな。
「そうかい? どうも早とちりだったようだね、失敬した。そう言ってもらえると嬉しいよ」
 そう言って笑った佐々木は、俺の顔を覗き込むように首を傾げた。
「ときに、キョン。君に一つ質問があるのだが、構わないかな?」
「何だよ勿体ぶって。言ってみろ」
 佐々木は目を細めた。口の端がきゅうっといたずらっぽく吊り上る。普段の大人びた雰囲気とのギャップのせいだろうか。俺はなぜか動揺を覚えた。
「君は……僕を異性として見ることができるかい?」
「なに?」
 反射的に聞き返したのは何も質問が聞き取れなかったからではない。思いもよらない質問に、戸惑い半分驚き半分、一瞬混乱したからだ。だがその二音節を発している間に、我が怠惰な脳細胞は質問の内容を理解している。
 何だって? とはいえ頭に浮かんだのも似たり寄ったりの疑問符だった。意味は分かるが意図が分からない。佐々木の顔を見るとからかわれているような気がしなくもないが。
「どういう意味だ? あー、いや、どういう意味で?」
「……まあ即答は期待していないよ」
 肩をすくめた佐々木はお馴染みの笑いを漏らした。
「君はカフカを読んだことがあるかい?」
「え?」
 俺は佐々木に向かって首を捻った。さっきの質問は終わりなのか?
「いや? 質問に質問を返されたのでね、君の疑問に答えるに当たって僕も更に前提を確認してみたのさ……フランツ・カフカ。二十世紀文学を代表する小説家の一人だよ。聞いたことくらいはないか?」
 生憎と近頃は本を読まないもんでな。
「知らんが、それが?」
「なに、カフカの作品の中に、中々含蓄のある一文があってね、『不変なのは書物であって、見解などというものはしばしばそれにたいする絶望の表現にすぎないのだ』というんだ。興味深いだろう?」
「悪いが全然分からん。俺でも分かるように説明してくれ」
 佐々木はふっと息を吐くと俺の二の腕をぽんと叩いた。
「キョン、一瞬でも考える振りくらいしたまえよ。まあ君のそういう率直なところも好――いや、いい。
 ……精確性には欠くが、簡単に言えば、真意と解釈は別物、というような意味を含んでいるのではないか、と僕は考えるのだがね」
「分かったような分からないような……で、それがさっきのとどう関係あるんだ?」
「君の解釈で答えればいい、ということさ」
「だったら最初からそう言ってくれ」
 バス停の前まで来て立ち止まった佐々木は器用に眉毛を片方だけ吊り上げた。やや遅れて俺も自転車を止める。
「別に構わないだろう? この会話は手段ではなく目的なのだよ。内容に大した意味はないし、事務的に済ませればひと言ふた言で終わってしまうようなものだ。それとも君は塾からバス停までのこの短くもない移動時間を黙ってたまま並んで歩きたいのかい?」
 そいつはどうもぞっとしないね。基本的に俺たちが一緒に居る場合といったら、学校や塾の教室に結果的に同じ空間に居る場合か、こうした移動時間だけだ。前者ならどちらかが話しかけて成立する関係であって、何か目的があって敢えて一緒に居たりしたことはないから、大概が――会話が途切れることはあっても――他愛のないおしゃべりに費やされている。二人きりで黙ってるなんてどうも気まずそうだ。
 バスが来るまでにはまだ少し時間があった。
「その言い方だとどうも……無理して話してるみたいにも聞こえるぞ?」
 総じて友達っていうのはそういうもんなんだろうがな、と心の中で付け足す。付き合いはじめはさほど重要でもない会話で、無理なくそれができるから友達でいられるのだ。
 冗談ととったのか佐々木は大仰な仕草で手を腰に当てた。
「それは心外だ。さっきも言ったように僕としてはこの時間を楽しんでいるよ。君だって一切の無駄も認めないような性格ではないと思っていたのだが?」
「まあな。それに、別に無駄だなんて思ってるわけでもないさ」
「……そうか」
「そうさ」
 図らずも降りてきた沈黙はそれほど居心地の悪いものでもなかった。暫く黙ったまま通り過ぎる自動車のテールランプを見送る。お互いに相手が切り出すのを待っていたような気もしたが、このまま黙って立っているのも悪くないという気もしていた。
 緩く風が吹いた。佐々木は乱れた髪をかき上げて口を開いた。
「……それで、さっきの答えは?」
「ん? ああ……どうだろうな」
 脱線が長過ぎて半ば忘れかけていたが、佐々木を異性として見ることができるか、という質問だったか。まあ今話していたように単にちょっとした話のスパイスであって、大した意味はないのだろうが。
 俺は佐々木を見返した。俺の中では男だとか女だとかいう前に、佐々木は佐々木なのだ。こいつの口調のせいもあるのだろうが、今まで性別を意識して相手をしたことは余りなかったように思う。そもそも他の女子や誰に対しても特別な対応をしたりはしないので余計に区分が曖昧になってしまうのだろう。決して佐々木が女らしくないというわけではない。どこからともなく耳に入ってくる風評を客観と言えるのならば、俺の主観はさて置いたとしても佐々木は結構可愛い方だし、体型も年齢の割に――いや何でもない。ともかくどこからどう見ても百人並な俺と並べて置いておくのは不自然なほどに魅力的な女性ではあろう。
「何だい、人をそんなに見つめるものじゃないよ」
 佐々木は照れたように(ひょっとしたら本当に照れたのかもしれない)笑ってそっぽを向いた。
「実地検証してみてるんだよ。佐々木と居るのは自然すぎて、顔なんかそうまじまじと見たことないからな」
 俺はからかい混じりに屈んで佐々木の顔を覗きこんだ。
「しかしそれは……」
 改めて見てみるまでもなく綺麗な顔立ちがこちらに向き直り、予想外に近かった俺の視線とぶつかって再び逸らされた。見つめられると照れるってガラだったか? してみると佐々木にも案外に可愛らしい一面があったことになるね。
 質問の焦点は可能かどうかってことだったか。まあ幾ら分け隔てないからといって行動の上では完全に意識していないとは言いがたい。現にこうして夜道を送ったりもしているし。男相手だったらするまい。
 尤も俺の解釈では質問の意図は女扱いするしないの問題ではないように思う。そうなると質問を発した意図の方が気になってくるが、先方はあくまでこちらに解釈を委ねているようだし――中々答えづらいな。
「そう言うお前はどうなんだ? 俺を異性として見られるのか?」
「おやおや、また質問を上積みしたいのかい? 仕方がないね」
 佐々木の左手が自転車のハンドルに置かれた。俺の手とは触れるか触れないかの位置。
「そうだな、僕は充分可能だと思うよ」
「充分? そりゃ随分自分を過小評価してるんじゃないか? それをいうなら俺の方こそ『充分』だと思うぞ」
 佐々木の目が一瞬輝いたのは、勿論俺の背後から来る自動車のヘッドライトが反射したせいだろう。
「……キョン、それはもしかして」
「お、バスが来たぞ……ってすまん、何か今言いかけたか?」
「いや何も! ……送ってくれてありがとう。また明日」
「そうか? じゃあ気をつけてな」
「ああ、君こそな……キョン?」
 佐々木は妙にこわばった笑顔で、停車したバスのステップに足をかけた。
「どした」
「世の中というのは思い通りにはいかないものだね」
「ん? そうだな」
 席に着き、窓越しに小さく手を振る佐々木に俺も手を振り返し、遠ざかるバスを暫く見送ってから自転車に跨る。
 カフカね。たまには図書館でも行ってみるか。
 と考えつつ、俺の図書館行きが実現するのは翌年の五月まで待たねばならないのだったが。

佐々キョン。

2008/03/27