エナメル

 内輪ネタというものがあるだろう。限られたコミュニティー内や共通の知識を持った人々の間でしか通じないユーモアやメタファーのことで、少なくとも遙かに千年は前から日本人が大好きな、お約束文化の中核をなすものだ。
 ここで俺は敢えて、今感じている驚きをかなり限定的な内輪ネタで例えてみたい。
 どれくらい驚いているかと言えば、寝支度を済ませて自分の部屋に戻ったらパジャマ姿の長門がベッドの上で待っていたときくらい驚いているのだ。
 ちなみにこのメタファーは「ちょっとした驚き」を表したもので、俺の中でしか通じない超ローカルネタである。万が一誰かに――特に高校入学以来ぴたりと俺の後ろの席から離れない誰かさんに通じてしまった場合、文字どおり問答無用の制裁を免れないのは、コーラを飲んだらゲップが出るのと同じくらい明らかではあるが。もっと分かりやすい例を挙げてみると、週に二三度顔を見せる野良猫が三日立て続けに現れたときに感じる驚き、くらいが妥当だろうか。
 賢明な諸兄姉にはお分かりいただけたことと思うが、こんな例えを用いるということは、折り紙つきの凡夫たる俺の部屋に自称宇宙人製アンドロイド、取り敢えず人間ではないことは確認済みの、見た目は女子高生、実年齢は三歳ちょっとの長門有希が不意打ち的に現れるのは、ちょっとびっくりする程度の事態に過ぎないということだ。この時点でかなりの異常事態のはずなのだが、異常事態のパンチドランカーと化した俺は最早感覚が麻痺しかけているのか、長門の微妙に世間知らず的な害のない奇行には「ああまたか」と気の抜けた反応を返すのが精々になっていた。
 慣れとは恐ろしい。
 そして今俺が一体何に少々驚かされたかと言えば、寝支度を済ませて自分の部屋に戻ったらパジャマ姿の長門がベッドの上で待っていたことに、である。
 どうか石を投げないでほしい。リアクションに窮すると無意味なモノローグを垂れ流してしまうのが悪い癖だとは自覚している。
 しかしまずこのとき、俺は気づくべきだった。長門の大きな目が秘めたる決意に穏やかならぬ輝きを湛えていたことを。

「いつの間に来たんだ? ああ、いや別に答えなくていいが」
「…………」
 知ったところで俺に理解できるとも思えないしな。
 恐らくドアを開けたときからこっちを見ていた長門は、その姿勢からぴくりとも動かない。
「……それはさておき、一つ質問してもいいか」
「……どうぞ」
 俺は後ろ手にドアを閉めた。椅子をベッドの側に引っ張ってきて、寡黙なる文学少女と相対する。俺の移動と共に長門の首だけが動く。
「……なんで来るんだ?」
 というのはかなり初期の段階でもした質問ではある。しかし本人の答える、目的と等号で結ばれるような理由以外は、勝手に「そうに違いない」と推断して自己完結していたので、その結論が他に余地のないものという確信(あるいは願望)もあって、それ以上追及してこなかったのだが、何気なくとはいえ口火を切ってしまったことだし、この際だからはっきりさせてみようと思う。
 長門は小さく口を開いた。平坦な声が漏れてくるまで、起動の遅いパソコンのような間と、僅かながら瞳に揺らぎがあった。
「……嫌だった?」
「へ? ……ああ! いやっ」
 俺は間抜けな声を上げた。長門の微妙に下がった眉。慌てて首を振る。
「そういう意味で言ったんじゃない。すまん、言い方がまずかった。否定的な意味で言ったわけじゃないんだ。何と言うべきか……今のは別のニュアンスを全く含んでない純粋な疑問であって……」
 弁解じみた、というかまるきり弁解を並べ立てる。針の先ほどの微細なニュアンス程度の表情から察するに、『てめえ何で来やがるんだ』という意味で問うたのではないことは理解してもらえたようである。
 つまりだ、非常に有能だとかかなり可愛いだとかそういった色々な要素のどれをとっても、長門ほどの奴がそれが当然とばかりに平々凡々たるいち男子高校生の部屋に侵入して臥所を共にする(これもまた純粋に文字通りの意味で)なんて非常識な行いの理由が、『来たかったから来た』なんてものでは納得がいかないんだよ。結局な。
 長門は黒洞々たる双眸を俺に向けて沈黙している。どうにも今現在の長門から表情を読み取ることは俺にも困難だった。言葉を選んでいるようにも見えるし、何も考えていないようにも見える。見ようによっては怒っているようにも見えるのだが、これは気のせいであってもらいたい。
 しかし取り敢えずポジティヴな表情には見えない。どうしたことだろう。部屋に入ってからの一分足らずの行動を省みるに、何ぞまずいことをやらかしたようにも思えないのだが。
「……分からなければ説明する」
 見つめ合うこと数十秒。やっと沈黙を破った長門の口から出てきたのは、何ともありがたいお言葉だった。分かりやすく頼むぜ。
「大丈夫。簡単なこと」
 そう言うと長門は腕を正面に上げて手を動かした。要するに手招きした。手招きするには幾分近すぎるのではなかろうか。遠くから呼ばれたらパーソナル・スペースを侵さない程度の距離まで行くし、至近で手招きされたら密談に適した距離くらいまで近づくだろ? ところが現在彼我の距離は一メートル以内で、俺の部屋がさして広くないことを考えると既に充分近づいていると思うのだが。密談にしても他に誰が居るわけでもなし。妙齢の男女が薄着で同じベッドの上、というのはかなり危険な状況だと思うぞ?
「危険性はない。来て」
「危険というのはだな……」
 言いながらも否応ない長門の眼力によって、俺はベッドの上に移動している。見つめられると弱いのは相変わらずだ。女たらしと呼ぶなかれ。フェミニストと呼ぶがいい。
「なあ……お前はほんとに俺を信頼してるんだなあ?」
 シャツタイプのパジャマは大体一番上のボタンはなく、開襟になっている。そこから覗く鎖骨やら、首を回して俺を見ているためにうっすら浮かんでいる胸鎖乳突筋やらから、振り子のようにそれら各悩ましげな隙間に戻ってくる視線を引き剥がす。普段制服を着ているときにも見えているはずの部位なのだが、何ゆえに今ばかりはこれほどの吸引力を持つのか?
 その答えは鎖骨から懸命に引き剥がした視線の先にあった。人によっては型崩れを防ぐために就寝中も身に着けていると聞くアレ――まあ長門には必要ないんじゃないかなあというアレがない――それが表すところは正に布一枚を隔てて長門の――
「信頼している」
 静かながら力強い口調から疑念の余地が感じられない。ちくりと胸が痛む。
「……しかしながら」
 長門は少し間を置いてから言った。俺は長門から目を逸らしていたので、その顔は見えない。
「あなたはわたしを誤解している」
 俺の手に予想外に温かな長門の手が重なった。俺は振り返った。長門の揺るぎない視線が俺を捕らえた。
「誤解?」
「そう。わたしがあなたに対するのと同様に、あなたもまたわたしを信頼し、尊重してくれている。それはわたしも喜ばしいと感じている。でもそれらはわたしの望むものだけじゃない。あなたがわたしを尊重してくれるのは、わたしがわたしだからという理由だけではなく、わたしを特別視しているから」
「……どういうことだ?」
「わたしはあなたが思うほど未熟な存在じゃない。確かにいまだ完璧に有機生命体を知悉し、理解しているとは言いがたい。けれどわたしは『わたし』という自己同一性を獲得し、自律する一個の個体であり、わたしは自ら理解するわたしの意志を以って行動している」
 長門は俺に向き直って正座していた。二人の間にはいつかのようにコタツ机はない。
「あなたは多くの場合状況に流されやすい性質を持っているが、拒絶することも知っている。にも係わらず、あなたはわたしの行動があなたの意に反している場合においても拒絶するということをしない。現に過去十三回の侵入において、あなたはわたしのために正常な肉体の反応を枉げさえした」
「しかしそれは……」
「そしてあなたは恐らく、わたしが自分の行動が持つ意味を理解していないと考えている」
 俺は開きかけた口を噤んだ。
「……もしくは、そう望んでいると思われる」
「…………」
 長門の顔が二十センチの距離にある。透きとおるような肌の薄青い静脈さえつぶさに見える。
「わたしは理解している」
 俺は照れ臭さからか、その指向性の高い視線からじりじり逃げはじめていた。「肉体の反応」辺りから気づいてはいた。全部分かっててやってたってことか。ここ暫くの長門の対応に困る行動はつまり。
 再び口を開きかけると、長門は細い指を俺の唇に宛がった。
「あなたが誤解している類の信頼だったら、わたしは寧ろ裏切られることを期待してきた」
 見透かされている。確かに俺は誤解していたようだ。この迂遠なのに直截な物言い! こいつは俺が考えているよりずっと「人間らしく」成長している。
 とすると、今まで俺は何に煩悶しのたうちまわっていたというのだろう。見当違いも甚だしい。
 俺は口を塞ぐ手をどけた。笑いたい。寧ろ笑ってくれ。
「俺は無駄な努力をしてたってわけか?」
「大体……でも全てではない」
 長門はその手を軽く握りかえしてきた。
「その努力の動機は好意的に解釈するし、努力の対象がわたしの推測する通りのものであれば、お互いに同質の感情を抱いているということ」
 まあ、その推測は概ね正しいと思うぞ。
「それなら、わたしの本意」
 そう言った顔が一瞬微笑んだように思えて呆気にとられていると、長門は俺の肩に手をかけた。
「な、なんだ?」
「これまで我々の意思疎通には齟齬があった。これからそれを埋めたいと思う。許可を」
 と言いつつ有無を言わせぬ口調である。何をするつもりなのかは分からないが、こいつの行動には必ず何か意味があるし、どう状況が変わったって俺が長門を拒絶するはずがない。信頼してるからな。
「勿論、いいぞ」
 次の瞬間俺は微笑みを浮かべたままベッドに倒れていた。「そう」という長門お決まりの声が聞こえたような気がしないでもない。視界には天井とシーリングライト、長門の頭の上半分が見える。そして身体に感じるこの重みは。
 我に返って視線を下げると、俺に覆いかぶさってスウェットの襟首を引っ張る長門の姿が目に飛び込んできた。目に飛び込んできたのはそればかりではなかった。パジャマっていうのはゆったりしたものだろう? 四つんばいになったらどうなるか分かるよな?
「ななっ、長門!? 何やってんだ!?」
 長門は手を止めてこちらを見上げた。
「齟齬を埋めようとしている。許可は得た」
「いやっ、そーゆーことじゃなくてっ!」
 埋まったのは齟齬ではなく長門の顔で、埋まった先は俺の首筋だった。顔が見えなくなる寸前、長門の歯が白く光った。直後に、以前も味わったことのある感覚に襲われた。前回は腕だったが、今回は鎖骨だ。感覚に襲われたというより長門に襲われているのではなかろうか。
 もしや情報の齟齬を言葉ではなく宇宙的パワーで解決しようとしているのではないだろうな。
「またナノマシンか?」
「違う……ただ噛んでるだけ」

 その晩俺が更に数十箇所を噛まれたのだが、噛まれた場所については差し障りがあるので言及は控えておく。

2008/03/10