何とも思わない振りで笑う・後篇
チャイムの音で目を覚ます。カーテンの隙間から差し込む朝日が蒲団の上にぼんやりした三角形を作っている。 わたしは枕元に手を伸ばして眼鏡をつけた。ぐずぐずと寝返りを打って目覚まし時計に目をやると、早めにアラームを設定したはずの九時より一時間も早い。チャイムは気のせいだったりしないのだろうか。うつ伏せに頭を下げたまま下半身から起き上がる。昨日はそれほど遅かったわけではないのに、眠気が纏わりついて離れない。眠りが浅かったのだろうか。 もう一度チャイムが鳴った。気のせいではなかったらしい。きっと朝倉さんだ。 わたしは何とか立ち上がると、幽霊のような足取りで玄関に向かった。足があるのだからわたしは江戸時代より前の幽霊に違いない。大人しく墓の中で眠っていればいいのに。縮こまった屈葬はわたしにぴったりだ。 覗き窓からは朝倉さんの晴れやかな顔が見えた。わたしはチェーンを外してドアを開けた。 「おはよう! ……って、ごめん、ちょっと早かった?」 わたしのパジャマ姿を見て、朝倉さんはちょっと口に手を当てた。害意のない笑いに目が細められる。 「……ううん、目覚ましかけるの……遅かったかもしれない」 「ごめんね、何だか早く目が覚めちゃって」 朝倉さんは手に提げた袋を示した。ビニール袋から突き出した縦長の紙袋からは香ばしい匂いがした。 「折角だから朝ごはん買ってきたの。お台所貸してね? 長門さんは顔でも洗ってらっしゃいな。なんだったら寝ててもいいけど」 わたしは首を振って洗面所へ行った。眼鏡を外して鏡に相対すると、半目の寝ぼけ顔はとても見せられたものではなかった。寝癖で頭の至るところが跳ねている。恥ずかしさで熱くなった顔に冷水を浴びせる。 実のところ朝倉さんのチャイムで起こされるのは今日に始まったことではなく、わたしのだらしない姿など既に散々見られているのだが、恥ずかしいものは恥ずかしい。寝起きでないからといってきちんとしているとは言い切れないのだが、そもそも寝起きにだらしなくない姿をしている人などいないだろう。 もしかして朝倉さんは寝起きを狙ってやってきているのでは……。 妙な疑惑を水気と共にタオルで拭い去る。そんなことをしたって朝倉さんには何のメリットもないのに。しかし今日のようなことがあると、朝倉さんはいつも嬉しそうだ。わたしを手のかかる妹か何かみたいに思っているのかもしれない。好かれているのだったら、何も問題はないのだが。 コタツ机には既に朝食が待っていた。斜めに切ってしてトーストしたフランスパン(バゲットというのだろうか?)とベーコンエッグが美味しそうに湯気を立て、サラダとオレンジジュースまで用意されている。わたし一人だったらトースト一枚で済ませてしまうか、もしくは昼過ぎまで眠っているところだ。 ぼそぼそとお礼を言ってパンをかじる。朝倉さんはそんなわたしを見ながら、楽しげにパンにバターを塗っている。上目遣いに窺うと目が合ってしまい、屈託のない微笑みを向けられてわたしは赤面する。 今日は朝倉さんと洋服を買いにいく約束をしているのだ。先日わたしが色々と飛ばし飛ばしにした話を彼女はきっちり理解してくれ、どうしようもなく内気なわたしの性格改善の策を一緒に考えてくれた。それで、まず手っ取り早く変化をつける、あるいは気分を変えるには外見を取り繕うのもいいのではないだろうか、という結論に達したのだ。曰く、わたしが制服のほかにまともな私服を殆ど持っていないのは、計り知れない社会的損失らしい。『長門さんはとっても可愛いんだから、勿体ないわ』というのが朝倉さんの言だった。 そんなことないのに。 朝食を終えると、クローゼットを見せてくれないかと言われた。何でも今日の服選びの参考にしたいらしい。わたしは下着類や僅かな私服が無造作に押し込まれた収納ケースの内部を想像した。とても見せられない。 「ちょっと散らかってて……片づけるから少し待って」 訳知り顔の朝倉さんはくすっと笑って、 「じゃあ、その間に洗い物しちゃうわね」 と言って食器と共に台所へ消えた。広すぎる台所はろくに使っていないのに、朝倉さんが使ったあとは普段よりきれいになってしまうのだから困ったものだ。 ああ、いけない。そんなことより片づけだ。わたしは寝室に行って、プラスティックの収納ケースを引っ張り出した。改めて見るとその中身は思っていたより壊滅的だった。辛うじて靴下はひと組ずつ纏められてはいるが、そのほかはシャツやら何やらがきちんと畳まれもせずに詰まっている。無事なのはハンガーにかかった制服くらいのものだった。 真っ先に底に埋まっていた仕切りのついた籠を掘り返し、ショーツを丸めて詰め込む。さすがに下着までは見はしないだろうが――いや、よく気のつく人だ、ちゃんと上下の揃った下着も買うよう勧められるかもしれない――毛玉になったものも丸めてしまえばぱっと見は分からないだろう。あとは皺だらけのシャツが二三、丈の合っていないジーンズが一本、Tシャツ、云々。それらを急いで畳んでいると、ドアをノックする音が聞こえた。 「入ってもいいかしら?」 と朝倉さん。まだ五分も経っていないのにもう洗い終わったのだろうか。いや、わたしが極端に遅いだけでそれが普通なのかもしれない。益々自信をなくす。 「待って…………どうぞ」 それを眺めたあとの朝倉さんの顔といったらなかった。一瞬左右を見たあと、たった一つの収納ケースをまた見て、驚いたように目を見開いた。もしくは呆れたのだろう。その可能性の方が高い。 「あの……」 考え込む朝倉さんに声をかけると、朝倉さんは当惑を誤魔化すように笑って、 「ちょっと待ってて、すぐ戻るから!」 と部屋をあとにした。わたしは状況を理解できずに立ち尽くしていたが、間もなく紙袋を提げた朝倉さんが戻ってきた。 中に入っているのは朝倉さんの私服らしい。 「ちょっとサイズが合わないかもしれないけど」 そういってわたしに貸してくれたのは、シンプルなキャミソールと、胸の下に切り替えがある襟ぐりの大きなチュニック、それに白っぽいスカートとシャーリングの入ったカーディガンだった。わたしが今日着ようと思っていたものに比べると、可愛らしすぎて眩暈がしそうだ。しかし朝倉さんの反応を見ると、もし待ち合わせの場所にわたしの私服で現れた場合、眩暈を起こすのは多分彼女の方だっただろう。 きっと似合わないとか何とか呟いてぐずぐずしているわたしを、朝倉さんは『いいからいいから』とあっという間に着替えさせてしまった。なすがままだ。 着替えたわたしが落ち着かずにカーディガンの裾を引っ張っていると、朝倉さんは両手を胸の前に合わせ、感極まったかのように目じりを下げた。 「すっごく似合ってる! 長門さんとっても可愛いわ!」 本当だろうか。鏡に映った自分の姿はまるで別人だった。後ろに立って一緒に鏡に入った朝倉さんは満面の笑みで、初孫でも見守っているかのようで、わたしも少し可笑しくなった。 「あ……これで出かけるの?」 「え?」 場違いだ。まず浮かんできたのはその言葉だった。わたしたちは今新しくできたショッピングモールに来ていて、わたしは言われるがままに朝倉さんの着せ替え人形と化しているのであった。ここまで寄ってきたのは服を見ていると頻繁に店員が声をかけてくるような店ばかりで、服といえばせいぜい量販店でしか買ったことのない上に、人見知りをするわたしは満足に受け答えもできず、朝倉さんの背後で小さくなっているしかなく、結果的に全て任せきりになってしまっているのだった。 「あらら、これじゃ大きすぎるわね……長門さん細いから」 試着している最中のショートパンツはどう見てもウエストが余りすぎていた。握り拳が二つ入る。 「ごめんなさい……」 「もう! 謝らなくたっていいのよ。すみません、これのSサイズありませんか?」 そんな調子で朝倉さんの手には色々な店のロゴが入った紙袋が増えていく。そんな時間があったようにも思えないのに、ちゃんと自分の買い物もしているようだ。取り敢えず要領のよさは見習いたいと思う。 わたしがよほど疲れた様子をしていたのか、その店を出ると朝倉さんは、 「ちょっと休憩しようか」 と近くのカフェに入り、さり気なくソファの方の席を譲ってくれた。 熱いカプチーノを啜ってひと息つく。学校と図書館以外は食品を買いに行くくらいしか滅多に外出しないので、たった二三時間で随分と体力を消耗してしまった気がする。人の多い場所は苦手だ。一人では絶対に来ないような場所に来られて、新鮮な体験ができたとも思うのだが、もう暫くは来なくていい。 「疲れちゃった? ごめんね、何だか私一人で楽しんじゃったみたいで」 「ううん……わたしもちょっと、楽しかった」 「ちょっと?」 朝倉さんはわざとらしく眉を寄せ、わたしは慌てて手を振った。 「あ、あの……そうじゃなくて……」 わたしの口からは意味のない弁解すら出てこなかった。怒っていないことは明らかなのに、滑稽な話だ。案の定朝倉さんは笑い出した。 「ごめんごめん、長門さんの反応が可愛いから、ついね」 にっこり笑う朝倉さん。わたしはマグに浮かぶ牛乳の泡に目を落とした。相も変わらずわたしはわたしだった。小さな溜息をつく。 「ほら、顔上げて」 長い指がわたしの顎を持ち上げた。視線の先には優しげに微笑む顔。僅かに唇を歪めることで笑い返す。 「そうそう、もっと笑って? うん。いつもそうしてればいいのに……」 それは難しいと思う。何か楽しいことでもあれば別だが。何もないのにいつもニコニコはできない。朝倉さんが笑っていられるのは、友達が沢山居て一人の時間が短いからだ。わたしはいつも、一人だ。 「……ねえ、やっぱり彼に話しかけてみる気ない?」 朝倉さんはコーヒーの入ったマグを両手で持って、湯気の向こうから言った。その目にはどこかいたずらっぽい輝きがある。例えるなら、きっと買ってもらえないだろうと思いつつに玩具をねだる子供のようだった。 「……うん……だって、何も接点がないから……」 「そんなのは作っちゃえばいいのよ、気になるんだったらね。曲がり角でぶつかったっていいし、いっそハンカチでも拾ってもらえばいいんだわ」 本気で言っているのではないだろうが、わたしは自分の落としたハンカチを彼が拾う光景を想像した。前時代的すぎて笑ってしまうだろうと思ったのだが、それが意外に胸をときめかせた。笑われるべくは私の方だ。 「想像しちゃったの? やっぱり満更でもないんじゃない?」 わたしは益々顔を赤くした。朝倉さんはやっぱり楽しそうだった。他人のことでこれだけ色々考えられるのは凄いことだと思う。わたしは自分のことでさえ持て余しているというのに。 「そうねえ、折角買ったんだからお洒落してるところを見てほしいわよね。そうなると学校の外かあ……。 そういえば初めて会ったときはどんな格好だったの?」 「……覚えてない」 彼の格好だったら隅々まで思い出せるのだが、彼に会った前後の記憶は茫洋として何があったかも思い出せないし、自分が着ていた服なんてそもそも全然気にしたことがない。 「うーん、まあキョンくんも無頓着そうだものね。でもきっと学校では何度かは見かけてるはずよね」 「分からない……それにきっと、わたしのことなんか覚えてない」 「そんなことないわよ。申込書を代わりに書いてくれたんでしょ? しょっちゅうそんなことしてるんならともかく、そこまでしたら幾らなんでもちょっとは覚えてるはずよ! 相手が長門さんみたいな人だったら尚更。あの鈍感な人が、口に出してもいないのにあなたが困ってることに気づいたのよ? きっと強い印象を持ってるはずだわ」 「……そうかな」 そんな風に力説されると、それが真実であるような気さえしてくる。物事は案外、そんな思い込みでも押し通してしまえば何とか進展するものなのかもしれない。わたしにできるかどうかは分からないが。 「そうよ。私だったら絶対覚えてるんだけどな」 朝倉さんはコーヒーを一口啜った。 「……そうね、例え学校で気づいていなかったとしても、長門さんみたいな大人しそうな人の私服が可愛かったら、それはそれでギャップに魅せられちゃうんじゃないかしら? でもまずは学校で会った方がいいわよね、きっかけも作りやすそうだし……」 「……うん……できたら」 わたしが頷くと朝倉さんは嬉しそうに笑った。 「やっと首を縦に振ったわね? そうこなくちゃ。あなたが乗ってくれなかったら何も始まらないもの」 わたしは多分そのとき、困ったような微笑を浮かべていたと思う。 「どう? ハンカチでも落としてみない?」 |
2008/04/06
消失長門はぞんざいな生活をしてると萌えます。
消失朝倉は長門が大好きだったらいい。