何とも思わない振りで笑う・前篇

 坂の上を見上げて思わず溜息をつく。学校は嫌いではないが居心地のいい場所でもない。体力のないわたしにとって毎日お決まりのこの通学路はただでさえ楽しいものとはいえないのに、頂上に到達したとして何か楽しみが待っているというわけでもない。憂鬱にもなろうというものだ。
 わたしは今読んでいる本のことを考えて何とか脚を誤魔化し、坂道を登りはじめる。楽しみが全くないかといわれれば、微塵もないとはいい切れなかった。一人きりの文芸部室で本を読んだり、時々パソコンのキーボードを叩くのはそれはそれでいいものだ。でも本は家に帰っても読めるし、文章だって何も必ずパソコンに打ち込まなければならないものでもない、原稿用紙にでも書けばいい。
 けれども、中には代用の利かないものもある。それはわたし一人でどうにかなることではないから。
 思わず脚を止めそうになった。視力に自信はないが、何度も見た後姿は見間違えようがない。
 彼だ。見つけたからどうなるというわけでもない。彼はわたしのことなど覚えていないに違いない。何しろたった一度言葉を交わしただけ――二言、三言? とにかくその場限りの関係だ。電車で席を譲った人の顔なんて記憶しないように、彼にとってわたしは道端の小石なのだ。でも。わたしの都合でしかないが、わたしにとって彼は極めて少ない分母の上の一人だった。あのときは恥ずかしくてまともに顔も見られなかったのに、どういうわけか学校で彼の姿を見つけたとき、瞬時に彼だと分かって、わたしの心臓は高鳴った。
 これが何を意味しているのか、自分がどうしたいのか、何かするとして、一体どうやったらいいのかも分からない。けれど学校へ向かう坂で、廊下で、わたしは彼の姿を探すようになっていて、それがわたしの気だるく動かす脚を坂の上へ押し上げる小さな原動力になってくれていた。
 彼は友達らしい男子生徒と何か話しながら、わたしの五メートルくらい先を歩いていた。通学路で彼を見つけることは滅多にない。今日のようにわたしがいつもより遅く起きたときに、何度か見かけた程度だった。今は大体机についたら丁度チャイムが鳴るくらいの時間だ。もしかしたらこれくらいの時間に登校すれば、毎日彼の姿を見つけられるかもしれない。でもそこまでしてはいけないような気がした。認識すらされていない相手に対して気を回すなんてどうかしているとは思うが。
 面倒臭そうに坂を登っていく彼の後姿をぼんやり眺めているうちに、長い通学路も終わってしまった。靴を履き替えて廊下に出ると、もう彼の姿は見えなかった。少し落胆する。今日は朝から見られただけ運がよかったのだ。それにまたどこかですれ違ったりするかもしれない。
 席につくとすぐにチャイムが鳴った。目が合った子に挨拶され、ぎこちなく会釈を返す。ホームルームが終わって授業が始まってからも、わたしはずっとぼんやりとしていた。勉強はそれほど苦手ではなかった。なのに、脳裏に彼の姿がちらつく。後姿や横顔、遠くから見た顔。初めて会ったときより近くで見たことがないために、その顔はどこか茫洋としている。彼の声だけが鮮明に耳に残っている。その声さえ、図書館で会ったあのとき以来聞いていない。それなのに彼という存在は鮮烈な印象としてわたしの頭に焼きついて離れないのだ。
 結局授業に少しも集中できないまま昼休みになってしまった。一度も当てられなくてよかった。答えが分かっていてもしどろもどろになるのに、全然聞いていなかったことなんて余計答えられるわけがない。ノートはどうしよう。誰かに借りられるだろうか。
 わたしは本と昼食に買ってあった菓子パンを持って教室を出た。
「あ、長門さん」
 声のする方を見ると、丁度教室から出てきたらしい朝倉さんがわたしに笑いかけていた。彼女はわたしと同じマンションに住んでいる、自分とは正反対に活発で表情豊かな美人だったが、どういうわけかしきりと構ってくるので今では学校のあるときもないときも一番の話し相手になっていた。話すといってもわたしは殆ど言葉を返せない。せいぜい相槌を打つ程度で会話もしょっちゅう途切れるわたしに、大抵の相手はすぐに痺れを切らせてしまうのに、彼女だけは辛抱強く話しかけてくる。
「お昼、また部室で食べるの? 一緒に食べない?」
 その屈託のない笑顔が少し苦手だった。自分が後ろめたいことをしているような気分にさせられる。朝倉さんはわたしと違って友達が沢山いる。一緒に昼食を摂る相手だっていっぱいいるに違いないのに、どうしてわたしなんかを誘うのだろう。それに大勢の輪の中になんてとても入れない。
「……ごめんなさい、わたし……」
 当の朝倉さんとすらまともに目も合わせられないのに、話したこともない人と昼食だなんてわたしには不可能に近い。
「あ、違うのよ、私も今日は静かなところで食べたい気分だから、一緒に部室で食べてもいい?」
 より断る理由がなくなってしまった。彼女が好意でいってくれているのは分かる。断ってもきっと気にしないだろう。たったひと言「一人で食べたいから」といえば済むのに、わたしにはそれができない。
 わたしは曖昧に頷く。朝倉さんのことが嫌いなわけではない。寧ろ感謝すべき立場にある。朝倉さんが話しかけてくれなければ、わたしは丸一日ひと言も口を利かずに過ごしてしまうだろう。自分でも社交性のなさを気にしていないわけではないのだ。それだけではない。同じく一人暮らしをしている彼女は、一人分も二人分も一緒だといってはよくわたしのために食事を作ってくれたり、ともすれば閉じこもりがちなわたしを外に連れ出してくれたりする。
 一度だけわたしに構う理由を聞いたことがある。朝倉さんは「だって、放っておけなくって」と、やっぱり屈託なく笑った。わたしはそのあけすけな笑顔が苦手で、笑いかけられるたびにそれを苦手に思うこと自体を罪悪に感じるのだった。
 昼休みの部室棟は静かだった。わたしたちの足音と、朝倉さんの声しか聞こえない。わたしは小さく相槌を打ったり頷いたりしていたが、相手にしてみれば辛うじて自分に意識が向いている程度にしか感じられないだろう。分かっていても直すことができない自分が嫌になる。
「ねえ、キョンくんとはどうなった?」
 パンをかじっていると、それまで近所のスーパーの話をしていた朝倉さんが急に話題を変えた。わたしはパンを咽喉に詰まらせて、朝倉さんの飲み物を分けてもらった。
「……どうって……なにもない……」
「まだ話しかけてないの?」
「……そんなこと、考えたこともない」
 包装のビニールをくしゃくしゃにしていると、顔を上げなくても朝倉さんがちょっと濃い眉毛を八の字にしているのが分かった。
「どうして? 仲良くなりたくないの?」
 いつだったか、どうしてそんな話になったのか覚えていないが、朝倉さんにはあの貸し出しカードを作ってくれた彼の話をしてしまったことがあった。それは彼が同じ学校の生徒だと知ったあとのことで、しつこく頼み込まれて仕方なく偶然見つけた彼を指差すと、何と同じクラスだというのだ。そのおかげで彼がキョンという変なあだ名で呼ばれていることや、まだ誰とも付き合っていないことなどが分かったのだが、朝倉さんはわたしのことがなくても元々世話焼きな性格なようで、その後も度々彼のことを教えてくれたり、わたしと彼を引き合わせようとしたり計画してくれたりした。当然断りつづけるわたしを納得いかない顔で見ながらも、こうして時折、思い出したように彼のことを話題にするのだ。
「…………分からないよ」
 朝倉さんは大きく溜息をついた。自分でさえ間怠っこしいと思うのに、他人にしてみればどんなに面倒に思えるだろう。
「私も分からないなあ、長門さんが……お昼それだけ? 玉子焼き食べる?」
 わたしが頷きもしないうちに箸が差し出された。抗いようもなくそれを口に入れる。おいしかったが恥ずかしかった。
「……朝倉さんこそ、どうして、わたしのことそんなに気にするの?」
「前にもいったじゃない。何だか放っておけなくって……そうね、それに長門さんのことが好きだからかな」
 そのとき自分がどんな表情をしていたのか分からないが、よほど妙な顔をしていたのだろう。朝倉さんは慌てて取り繕うように顔の前で手を振った。
「変な意味じゃないのよ、単に一般的な意味で、というか……自分でもおせっかいだって分かってるけど、長門さん放っておくとどんどん一人の世界に入っていっちゃう気がして、そんなあなたが珍しく興味を持った人だから……。
 別に付き合うとか付き合わないとか、そういうのじゃなくてもいいの、ただ友達ができるきっかけができたんだったら、折角だからと思って。友達ができるのは嫌じゃないでしょう?」
 朝倉さんは少し困ったような顔でいった。この人は本当にわたしのことを心配してくれているんだ。そう思うと申しわけない気持ちで一杯になる。
「あの……ありがとう……でも、いい。見てるだけでいいから、今は」
 尻すぼみになる声。わたしの視線はどんどん下がっていく。彼女のいうとおりだ。わたしは沈んでいくばかりで上を見ようとしない。何かの拍子に上の光を見上げたとしても、そこに上っていこうする勇気がなくて、見ているだけで満足だと自分に思い込ませようとするのだ。
 いつだって、そうだ。
「あなたがそう思うんだったら何もいえないけど……長門さんがしたいことだったら、私何だって協力するわよ? 長門さんのことを覚えてるか訊いてみたっていいし、さりげなーく引き合わせることだってできるし」
 おずおずと顔を上げると、優しい微笑みを浮かべた朝倉さんの姿があった。明るくて何でもできる彼女が、暗くて何もできないわたしに対しているのに、全然見下されている感じはしなかった。それが余計に辛い。そんないい人を心のどこかで妬んでいる自分が、いかにちっぽけな人間か思い知らされる。
「……私ね、世の中にはもっともっと楽しいことが沢山あるんだって、長門さんに知ってほしいの。本を読むのだって楽しいし、私も時々は読むけど、小説の物語の中でだって本以外にも楽しいことがいっぱいあるって書いてあるでしょ? 試しもしないうちに諦めちゃうなんて勿体ないよ」
 身振り手振りを加えて話してから、朝倉さんは恥ずかしそうに「偉そうなこといってごめんね」と呟いた。
「……いい、謝るならわたしの方……。ごめんなさい。わたし……わがままばっかりで……こんなに心配してくれてるのに……」
 わたしはまたうつむきはじめる。目頭が熱くなるのを感じた。あんまり自分が情けないのと、恥ずかしいのとで嗚咽がこみ上げてくる。顔を押さえてしゃくりあげそうになるのを必死に堪えていると、何か温かいものに包み込まれた。
 朝倉さんがわたしを抱きしめていた。
「長門さんは謝らないで、私が勝手にやってるんだから。責めるようなことをいっちゃってごめんなさい。余計なお世話よね? 自分でも分からないのに、人にごちゃごちゃいわれたら余計分からなくなっちゃうよね」
「あ、あのわたし……」
 驚きとどぎまぎする気持ちの方が勝って、目頭の熱さが顔全体に広がった。
「あの……眼鏡、痛いから……」
「あ、ごめんなさい! 私ったら忘れてて……大丈夫?」
 ようやく解放されて、眼鏡を直す。本当はそんなに痛かったわけではなかった。でも恥ずかしくて仕様がなくて、床の模様に目を落とした。
「……へいき」
 朝倉さんの足が所在なさげに床の上を擦っているのと、わたしの右手が左手の親指を白くなるほど強く握り締めているのが見える。
「……わたし……」
「え?」
 眼鏡の下から指を入れて滲んだ涙を拭う。鼻もかみたい。わたしはゆっくり顔を上げて、すぐ側にたった朝倉さんを見上げた。
「わたし……どうしたら変われるかな……?」
 眉根を寄せていた朝倉さんの顔がぱっと光が差したように明るくなった。少し赤い目の下を見てまた胸が痛む。
「その言葉をずっと待ってたの!」
 朝倉さんは満面の笑みを浮かべてわたしの肩を掴んだ。ちょっと興奮もしているらしく目がものすごく真剣だった。
 そうだった、この人は明るくて優しくて美人で、実は熱い人なのだ。

2008/01/10