長門有希の靴下

 俺は今ちょっとした懸案事項を抱えていた。この抱えるというのは比喩表現ではなく文字通りの意味である。つまり長門有希が俺のあぐらの中で寝ている。
 どう懸かるのかといえば、一つには身動きが取れないということだ。今は平気だが、さっきジュースを飲んだから今後数十分で尿意を催すこと必至であり、男子諸君にはお分かりいただけると思うが、男はあんまり尿意を我慢していると圧迫されるせいか何か知らないが二つの役割を持つ方の排泄器官が膨張してしまうのだ。
 今長門はあぐらをかいた俺の脚の隙間に座り、胸にもたれかかって平和な寝息を立てている。この座っている場所が問題なのだ。このままでは長門の尻に膨張したブツを押しつける形になってしまうのは避けられないではないか。そんなときに長門が目覚めでもしたらどうなることやら。今まで築き上げてきた信頼関係がガラガラと音を立てて崩れ去ってしまうに違いない。
 この説明で分かったかと思うが、こんな体勢になっているからといって別に俺と長門は男女の仲というわけではなく、性別を越えた友人関係だと俺は思っている。ただお互いに対するパーソナル・スペースの主張が弱いだけだ。俺も最初はくっつかれると動揺していたものだが、今やこんな風に座椅子にされるのも慣れっこになっている。というのも、このある意味無邪気な有機インターフェースがここ二三週間ほど妙に俺に物理的接触を図ってきたり、不意に泊まりに来たりするようになったせいだ。長門の思考はよく分からないがどうも懐かれたようで、俺としてはしばしばこんな風に困った事態になったりはするのだが、鉄の自制心で幾度も危機を回避してきたわけである。
 俺とて長門に懐かれて嬉しくないわけではない。しかし長門は自分が魅力的な美少女の姿をしていることと、そんな長門に無造作にぺたぺたされた俺が(他の奴にはしないという言質はとってあるので、一応限定しておく)一体どんな風に感じるかということを全く考慮していないらしいのだ。
 多分長門は自分が誰かに好意を持たれたりするなどと考えたこともないのだろう。いや、俺は長門のことが友人として好きなのだが、それにしても長門が可愛いことに変わりはないわけで、度重なるゼロ次接触によって慣れっこになってはいたものの、鈍感なること岩のごとき俺でも長門を女性として意識せざるをえないこともままあるのだ。今みたいに。
 その長門は近頃休日などにはふらっと家に遊びに来るようになっていて(遊びにといっても二人でのんびりしているだけなのだが)今日も今日とてテレビゲームをしている俺の膝の中へ入り込んで持参した分厚な本を読んでいたのである。
 そして今に至るというわけで。
「長門ー、長門さーん……」
 反応はない。斜め後ろから覗き込むが、伏せられた長い睫毛はぴくりとも動かない。規則的に胸が上下していなければ生きているかどうかも分からないくらい静かな寝姿だ。どうやら熟睡しているらしい。起こすのは忍びない。
 しかし尿意というのは意識しだした瞬間から始まるものであって、気のせいだろうが膀胱の圧迫感は着々と増していくのだ。
 このまま長門を起こさずに立ち上がることは可能だろうか? 長門のことだから野生動物みたいにちょっとした刺激で起きてしまいそうではあるが、今は珍しく熟睡しているようだしもしかしてそっと動けば平気かもしれない。
 まず長門の膝の上の本をどかす。本を持ったときに少し腿に触れてしまい(すべすべだった)、心臓が飛び跳ねた。スカート丈が短すぎるんだよ。普段ならグッジョブ! と快哉を叫びたいところだが、このときばかりは制服デザインを採用した奴に文句をいってやりたかった。友達にドキドキしちまったときの自己嫌悪はそりゃ酷いもんなんだぞ。
 心を落ち着けてから長門の膝の下にある自分の脚を抜き出す。途中スカートの裾に引っかかり、危うくめくりそうになったが、何とか脚は自由になった。ほら、長門の腿だったら夏に水着姿で見てるじゃないか、落ち着けよ俺。いやしかしスカートの裾から覗く太腿というのはただ露出された太腿よりある種特別な悩ましさを――と、俺は何を口走ってるのかね。
 さて次が大変だ。相手の身体を動かさざるをえないから、一番起こしてしまう可能性が高い。まあこれまでの様子から察するに慎重にやれば起きないだろう。頭と肩を支えて膝を立てる。そのままゆっくり身体を引き、長門の上半身を横たえる。
 オーケー、ミッションコンプリートだ。長門が起きる様子はない。やるな俺。
 静かに部屋を出、用を足して戻ってくると、長門は俺が寝かせたままの姿勢で安らかな顔をしていた。相変わらず可愛い寝顔だ。撫でたい。まったく、ハルヒの言い分にも一理あるね。長門には自分が周囲にどう思われているかをちゃんと認識してほしいもんだ。自意識が低いのかね。こっちが気を遣っちまうぜ。
 まあ長門の面倒を見ることに喜びを感じている自分が居ることも否定できないのだが。手のかかる妹を持った兄のサガか、はたまた万能な長門に対しヘチマほどの力しかない俺ができる数少ない恩返しの一つだからか。
 さて、カーペットが敷いてあるとはいえ床の上で寝かせっぱなしというのもどうだろう。長門なら針山の上でも涼しい顔で眠りそうだが、何となく申しわけない気もする。元々俺の膝で寝入っちまったんだし、せめてベッドに寝かせてやりたい。
 肩と膝の下に手を入れて抱き上げると、何とも軽々と持ち上がってしまった。妹よりちょっと重い程度だろうか。見た目の体積より明らかに軽いように思えるのだが、長門にとって体重なんて無意味なんだろう。そっとベッドに下ろす。
 しかし随分とぐっすり眠ってるな。こいつの寝姿は何度か見ているが、軽く揺すっただけですぐに起きたものだ。疲れてたのかね。取り立てて変わったことも起きていなかったと思ったが、まさか俺たちの知らないところで何かおかしなものを未然に防いだりしていたんじゃなかろうな。
 だとしたら、何にもできない自分が歯がゆい。せめてゆっくり休ませてやろう。寧ろ長門がしたいことだったら何だってさせてやりたい。何か一つ自分自身の望みを持つたびに、こいつはより人間らしくなっていく気がする。それに比べれば抱き枕にされた俺の葛藤の重要性なんてチョモランマと天保山くらいの開きがある。長門がそれで安眠できるっているならさせてやろうじゃないか。逆に考えてみるんだ、長門はいい奴だし、こんなに可愛いんだ。信頼を勝ち得た俺はかなりの果報者なんじゃないのか?
 目蓋にかかった前髪をどけてやると、長門は身じろぎして俺の手首を掴んだ。
「あ、悪い、起こしちまったか?」
 ここまで散々頑張っておいて起こしちまうとは。何やってんだ。
「…………」
 長門は薄く目を開けて俺を見ている。普段ならぱっちり開けているかしっかり閉じているかのどちらかなのでこんな眠そうな目は貴重だ。
 と思ったら閉じてしまった。俺の手を掴んだまま。大して力は込められていないのに外れない。無理にとったらまた起こしてしまうだろう。俺は諦めてベッドの横に腰を下ろした。
 どうしたもんかね。見回してみても手の届く範囲には漫画も本もないし、ゲームのコントローラには手が届くが、片手で出来るようなものでもない。足を伸ばして何とかゲーム機本体の後ろにあるスイッチを切った。誰だこんなところにスイッチをつけたのは。
 こりゃ何にもできないな。やれやれ。長門を振り返ると、両手で俺の左手を掴んで横向きに、少し身体を丸めた姿勢で寝ていた。手が顔に添えられているので息がかかってくすぐったい。
 長門の観察でもしてよう。起きてるうちにそんなにじろじろ見るわけにはいかないからな、これくらい役得ってことでいいだろ? 明るいところでじっくり見たこともないし。こういうと何だか変態みたいだが、別に他意はないんだ。多分。綺麗な花を愛でるようなものさ。花なんかアサガオくらいしか育てたことはないが。
 結果として俺は目に毒だなあと顔を赤くした。まじまじと見ているとかえって照れくさい。すべすべして柔らかそうな頬が俺の右手を誘うのである。けだしハルヒのいうことももっともだ。普通友達とこんなことはしないだろう。女性同士なら割と抵抗がなさそうだが、男同士でスキンシップだなんてむさ苦しすぎて想像もしたくない。自分に当てはめてみても、古泉の顔が妙に近かったりすると不愉快だし、一方的に掴みかかられたりすることを除けば仲のいい女子にだって気軽に触ったりはしない。というか触れない。死刑は嫌だからな。
 ところが長門に対してはどうだろうか。最近向こうから寄ってくるようになったのもそうだが、前から気軽に頭を撫でたりしていた気がする。かといって全く異性として意識していないというわけでもないのだ。それでいて相互に接近しても比較的安心していられるのは、長門の方が何にも意識していないだろうという確信に近い推測があるからなのだ。恐らく妹が意味もなくベタベタしてくるような感覚なのだろうと。はっきりした根拠があるわけではないのだが、長門がそういう感情を抱くのが、ハルヒが突然恋に目覚めるのと同じくらい想像できない。長門に感情がないといいたいわけではなくて、時折こいつが見せる感情の萌芽のようなものが、基本的にはいまだに実利的なこの宇宙人製ヒューマノイドインターフェースにおいて、いきなり恋愛方面に向かって双葉を伸ばすような可能性は低いだろうと思うのだ。
 大体そういう含みがあるのだとしたら、色々な過程を飛ばして同じベッドで寝るなんて、恥らいが邪魔してできないものなんじゃないのか? 俺だったらそうだ。
 長門が俺の左手に頬をすり寄せる。可能性の分母は天文学的数字だろうが、もしもだ、もしもこいつが俺のことを好きなのだとしたら? この間ハルヒが疑ったように俺たちが付き合っていたとしたら、一体どんな風だろうか。何だか今とあんまり変わらないのではなかろうか。お互いの家に遊びに行ったり、一緒に図書館に行ったり。長門が俺の袖をつまんでついて来たりしてさ。
 これでは間違われたって仕方がなかったかもしれないな。俺も別に抵抗があるわけではないし。ちょっとしたやりとりのあとに長門が首肯したら、俺たちの関係は――まあそんなことは起こりえないんだが。きっと。
 そんなことを考えていると一層照れくさくなり、俺は長門の顔から視線を外した。その先にあるのは胸とか腿とか、ずっと目を留めているとセクハラになりそうな場所だったので、段々下がってきて俺の目は長門の足で止まった。
 濃紺の靴下を履いた足である。長門がこれを脱いでいるところを見たのは海とプールと縁日のときだけだ。こいつの服の少なさと物持ちのよさから考えると意外に四年前から同じものを履いているのかもしれない。汚れなさそうだし磨り減っても補修してしまいそうだ。風呂に入ったりはしていたようだが、猛暑でも汗一つかかなかったし、新陳代謝が行われているのかさえ怪しい。余り考えたくないが何もかも形だけなのだろうか。それはちょっと寂しいな。
 認識できないものは存在しない、或いは蓋を開けてみなければあるかないかは分からないという考えがある。長門の身体が形だけのものだとしたら、この靴下の中に足はなくて、靴下を脱ぐ必要性に迫られたときだけ足が形成される可能性だって否定できない。まさかとは思うが、眠っているうちに脱がせたら足の指が分かれていなかったりしないだろうか。長門が裸足になる機会に居合わせたことはあったが、足の指までつぶさに見た記憶はない。普通見ないだろ。
 ちょっとしたいたずら心が芽生える。長門は身体を丸めているので、手を伸ばせば足には届く。靴下を脱がすくらいなら片手でもできるだろう。しかしそんなことしたら起きてしまわないだろうか。というかそれ以前に変態みたいじゃないか? いやでも妙に気になる。もし憶測が当たったら嫌だが、そこは怖いもの見たさというか、見たとしてもせいぜいがところびっくりする程度で、長門に対する認識は変わらないだろうし。
 長門を窺う。ぐっすり眠っているように見える。靴下を脱がそうとしているだけなのに妙にドキドキしてきた。そういう趣味があったのだろうか。いやいや、ちょっと確認したいだけさ。
 左手はできるだけ動かさないように、靴下に手を伸ばす。折りよく左足は手前にある。親指を脛と靴下の間に差し込み――
「……なに?」
 いつから見ていたのか、長門は見下ろすように俺を眺めていた。
「えっとこれは…………すみませんでした」
 手を離して後ずさる、が、左手を掴まれたままなので距離が開かない。それどころか引き寄せられている。怒ったのだろうか。平素のとおりぱっちり開けた目からは感情が読み取れない。
 冷静になって考えてみると眠っている女友達の靴下を脱がそうとするなんてまるっきり変態じゃないか。ド変態だ。有機情報連結を解除されたって何の文句もいえないぞ。
 長門は体感時間にして二十秒ほど俺の目をじっと射すくめてから、
「……性癖?」
 と。そういうわけじゃないんだ。自分で気づいていないだけでもしかしたらそういう性癖があるのかもしれないが、今のは決して性的な意味で行ったのではないぞ。
 声の調子からしてそんなに怒っているわけではなさそうだった。俺はなるべくいいわけ臭くならないように経緯を説明した。あと、平謝りした。
「そんなに見たい?」
 長門は嫌にゆっくりと上体を起こした。ベッドに腰掛ける長門と左手を掴まれたままベッド脇に正座する俺である。何ともいえない構図だ。
「そりゃ見たいといやそうだが」
 改まって見ようとするとただの足なのに異様に恥ずかしい。
 長門はすっと俺の前に足を差し出した。え?
「あ、いやわざわざ見せてくれなくてもいいんだぞ? 別に俺もどうしても見たいというわけでは……」
「では、見たくない?」
「……見たくないといえば嘘になるが」
 爪先が俺の鼻先にちらつく。無臭だ……嗅ぐなバカ。
「確認を要求する」
「脱がせってことですか」
「そう」
「いいのか?」
「いい」
「っていうか、お前が意識していないときに確認しないと意味がないんじゃないか?」
 そうだ、脱がす寸前に足を構成してしまうかもしれないじゃないか。
 長門はごく僅かに首を傾けた。
「わたしは睡眠中でも周囲の環境を知覚できる」
「……つっ、つまり全部知ってたってことか!?」
 それは恥ずかしすぎるぞ。そんなとんでもないことはしていないとはいえ、人に知られたら恥ずかしくて外出できないようなことが幾つかある。今まで話さなかったってことは怒っているわけではないのだろうが。
 こっそり窺うと、長門は指先で額の辺りを触っていた。アレもか!
「あ、あれはだなっ! 何というかアレだ! 魔が差したというか……!」
 必死に弁解の言葉を探す俺を眺める長門は、どこか楽しげに見えた。
「それは構わない」
「……そ、そうか」
「だから、確認して」
「なんか文章がつながってないんじゃないか?」
「……このことを涼宮ハルヒに報告した場合のあなたの被害想定は……」
「謹んで確認させていただきます」
 なあ諸君。これは仕方ないだろ? 俺は弱味を握られてしまったんだ。……自業自得? ああ、そのとおりだよ。
 俺は目の前に差し出された足の靴下に手をかけた。
「有希ー、キョンくーん、アイス食べるー?」
 妹が元気よくドアを開けた。手に袋に入った棒アイスを持っている。
 コラ、人の部屋に入るときはノックしなさいって教えたでしょう。
「わっ……おかーさーん! キョンくんが有希にエッチなことしてるー!」
「ちょっと待てええッ!!」


おしまい

 

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   ノ l Jヽ   レ/::/ /:イ:\/l:l l::l   u   !. l / ';:::l ', ';:::::l. ';::::l:::::
    ノヌ     レ  /:l l:::::lヽ|l l:l し      !/  ';:l,、-‐、::::l ';::::l::::
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   ム ヒ       /::::l/l::::lニ‐-、``        / /;;;;;;;;;;;;;ヽ!   i::::l:::
   月 ヒ      /i::/  l::l;;;;;ヽ \            i;;;;;;;;;;;;;;;;;;;l   l::l:::
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書いてるわたしが。
2008/01/05