スリー,フォー

 俺を見つけた長門が、心なしか足を速めて近づいてくる。我知らず頬が緩むのを感じる。いつもビスクドールめいた無表情に凍りついている長門の顔が、俺に向けられるときだけはほんの少し融けだした雪のようにほころぶのを見るのが、最近一番の楽しみになっている。
「おはよう」
「……おはよう」
 俺の自惚れでなければ、声のトーンすら普段とは違って聞こえる。あの長門が俺に会えて嬉しそうにしている姿なんて、ちょっと前までは想像もできなかった。自分の気持ちにすら気づいていなかったのだから当然かもしれないが。ともかく今は俺もまた長門の顔を見つけるだけで幸福に満ち足りた気分になるのは確かで、お互い余り言葉に出したりはしないが二人の気持ちが通い合っているのも紛れもない事実だった。
 外では手をつなぐことも多いが流石に登校中にまでつなぐのは恥ずかしいので、寄り添うように並んで坂道を登る。勘がいい人ならこの姿を見ただけでも気づかれてしまいそうだが、そうでなくとも周りの連中に俺たちの関係の変化が気づかれるのは時間の問題だろう。そもそも俺たち以外と殆ど会話を持たない長門であるから、俺に接する態度が明らかに他と異なるのはどんなに鈍い奴でも気づくはずだ。
「でもあなたは気づかなかった」
「……すまん」
 長門曰く、かなり以前から俺に対する態度は違っていたのだそうで、それに微塵も気づく気配のない俺に痺れを切らしかけていたのだそうな。
「でも、いい」
 袖の端がやんわり引っ張られる。
「今は気づいてくれてる」
 こんな場所でなければ抱きしめてぐるぐる回っているところだったが、ぐっと堪える。きっと今の俺は古泉以上のニヤケ面で、相当気味が悪いに違いない。
 別に俺たちは世を憚る仲でもないのだが、今のところ誰にも、付き合いはじめたことは話していない。言い触らして回るようなことでもないし、遅かれ早かれバレるだろうしな。
 まあ前から、意外に頑固で負けず嫌いな長門も俺に対しては妙に素直なところがあり、俺もあの十二月以来誰より長門のことを気にかけているつもりでいたから、お互い憎からず思っていることはハルヒたちも分かっていただろうし、大っぴらにイチャつきでもしない限り表面上は他の奴より仲がいいくらいにしか見えないはずだが、毎日何時間も五人で過ごしているのだから、勘の鋭いハルヒ辺りが近いうちに気づくだろう。
 楽しい時間が過ぎ去るのは早いもので、取り立てて会話が弾んだというわけでもなかったのに、あっという間に校門に着いてしまった。まさかこの毎朝の登校もとい登山を物足りなく感じる日が来るとはね。これはいい励みができたもんだ。
「じゃあ、またあとでな」
 長門と別れて教室に入ると、退屈そうに頬杖をついたハルヒが俺を変な顔で見ていた。形状が変ということではなくて、顔の造作自体はいつもどおり腹立たしいくらいに整ってはいるのだが、ただ教室に入ってきた同級生を見るだけにしては妙な表情をしているのだ。
「よう」
「あんた最近いいことでもあった?」
 会釈すらない。人には挨拶は基本だなどといっておきながら、礼儀がなってないな。日ごろの傍若無人ぶりから鑑みればこいつが礼儀正しい方がおかしいのかもしれないが。
「なんだよ急に」
 鞄を机の横にかけて振り返ると、湿度と粘度の高そうな視線が俺を捕らえていた。
「自覚ないの? ニヤニヤしちゃって、気味が悪いったらないわ」
 どうやら本当に締りのない顔をしていたらしい。そういうキャラは谷口辺りに任せておきたいところだ。気をつけねば。だがこの場合何と答えるべきだろうか。下手に嘘をつくとバレたときの追求が怖いし、本当のことをいったらいったでひと悶着ありそうだと、理由は分からないが不安を感じる。
「別に何もないぞ」
「ホントに? 怪しいわね……まあいいけど。じゃあ気をつけなさいよ。バカか不審者みたいだから。我がSOS団にはバカも不審者も必要ないわ」
「……お前時々かなり酷いよな」
「本当のことをいってるだけじゃない」
「真実も時に害悪になるんだぞ」
 俺は窓に映った自分の顔を確認してみた。よくいえば平和そうな顔をしているが、もっといえば平和ボケしているような顔だった。例えるなら融けだした雪だるまのようだ。どんなに甘く判定してもキリッとしているとはいいがたい。幸福感に対する正直な反応ともいえるが、こんな間抜け面では、ただでさえ大した面相をしているわけでもないのだ、とても俺的美的ランクトリプルSの長門の横は歩けないな。
 その日は一日中背中に視線を感じていたのだったが、ままあることではあるので向こうから何かいってこないうちは放っておくことにする。時と場合によるが、触らぬハルヒに祟りなし――とはいい切れないものの、積極的に声をかけた方がいいのはこいつが落ち込んでいる場合に限る。単に不機嫌なときなどは俺に当り散らすなり閉鎖空間を発生させるなり解消する方法を持っているのだが、黙り込んでしまったときは大概フォローが必要なときなのだ。
 放課後になり、振り返るとハルヒは既にどこかへ消えていたので、一人部室のドアをノックする。
「……どうぞ」
 その声が聞こえることを、実は期待していた。中に入ると本棚の横に立った長門がこっちを見ていた。
「まだお前だけか。何してたんだ?」
 ドアを後ろ手に閉める。普段なら置物のようにパイプ椅子で本を読んでいるのだが。
「待ってた」
 そういうと音もなく近寄ってきて、ちょっと強いくらいの力で抱きついてきた。
「おいおい、誰か来たらどうすんだ」
 たしなめるようなことをいいながら俺の顔はデレデレと緩みだしている。何を隠そう俺は今、主に付き合いたての若年カップルに見られる最高に幸福でバカな状態にあるのだ。自覚はしているがどうしようもない。参ったねこりゃ。
「涼宮ハルヒが到着するまであと十二分四十六秒かかる」
 お見通しってわけか。便利なもんだね。もしかして四六時中ハルヒをモニターしてるのか?
「そう。でも数値に変動があった場合と任意に呼び出した場合を除いて、涼宮ハルヒの監視はわたしの識閾下で行われている」
「パソコンのウイルス対策ソフトみたいだな」
「……それにあなたのことも常にモニターしている」
 そういって俺を見上げる長門の顔はどこか嬉しそうに見えるのだが。自分の行動が監視されているのは余りいい気分はしないが、長門がその役割を負っているのだったらまだ諦めがつくってもんだ。朝倉や喜緑さんに監視されていたらと思うとストレスで胃に穴が開きそうだものな。
「まあ俺は準観測対象らしいしな」
「それだけじゃない」
 少し間があった。
「いつでもあなたの存在を認識していたいから」
 やっぱり長門はどこか嬉しそうだった。今までの俺だったらここでなぜか穿った色気のない解釈をして「そうかそうか」と頭を撫でてやっていたところだろう。だが今の俺はその言葉の意味をストレートに理解して、心地いいときめきを感じながら「そうかそうか」と長門の頭を撫でることができるのだ。成長した自分を褒めてやりたい。
 そして今の俺はそれ以外の方法でもこいつへの親愛の情を表現する権利を獲得しているわけで。いまだに恥ずかしさは抜けきらないが、抱き合った恋人同士が見つめ合ってすることといったら決まってるだろ?
「そりゃ同感だ。しかしお前がこんなに甘えん坊だとは思わなかったぞ」
 手を伸ばしてすべらかな白磁を思わせる頬を撫でると、長門は心地よさそうに目を細めた。
「もう自分を抑制する必要はないから」
「そうだな……」
 俺はそっと長門の顎を持ち上げた。察して長門は目を閉じる。その顔が余りに綺麗で、俺は暫く見惚れてしまった。ブレザーの腰の辺りが握られる感覚がした。薄く目を開く長門。中々来ないので不審に思ったのだろう。何だかこそばゆい思いでその目を閉じさせると、自分も目を閉じて唇を重ねた。
 長門は柔らかくて温かくて、いい匂いがした。やや斜めに合わせられた唇は今まで何度かした触れるだけのキスよりも少し強く密着していた。長門の唇が探るように動きはじめ、くすぐったさを感じていると、やんわりと上唇を挟まれた。腰の辺りにあった手が背中を這い登って俺の項で一度重なる。その手が遠慮がちに頬を挟む。薄目に窺うと、ほんのり上気した肌が至近に見えた。
 さっきからうるさいくらいに心臓がドキドキしている。この一年ばかり命の危険とか悪い意味でのドキドキばかり経験していたものだから、この種の高鳴りなら何度経験したっていいとさえ思う。
 唇に湿った感触がした。俺の上唇を右から左へゆっくりとなぞっていくのは長門の舌であるらしかった。何というべきか、ものすごく興奮した。長門の細い腰に回した手をぎゅっと引き寄せた。迎え入れるように口に隙間を作る。
「こんにちはぁ……えっ? ……あっ……ひゃあっ!!」
 ドアノブが回される音で我に返ったときには既に朝比奈さんは部室へ足を踏み入れてしまっていて、さっと身体を離したときには、童顔の上級生は口を押さえて茹でダコのようになっていた。
「あ、朝比奈さん!? い、いやこれは……」
 俺はつうっと糸を引いた唾液を慌てて拭った。朝比奈さんは動揺の余りその場から逃げ出すという選択肢も思いつかないようで、プルプル震えながら言葉にならない声を途切れ途切れに発していた。

「なんかすみません……さっきは……」
 朝比奈さんから湯呑みを受け取って、俺は頭を掻いた。朝比奈さんは何とか落ち着きを取り戻したようで、まだ少し赤い顔で微笑んだ。
「ううん、あたしこそお邪魔しちゃったみたいで……ごめんなさい」
「とんでもない、謝らないでくださいよ。こんなところであんなことしてた俺たちが悪いんですから」
 親にエロ本を見つけられたような気分だ。生まれて初めての恋人に少々舞い上がりすぎていたのかもしれん。思うに学校でするにはいささか非常識な行為だった。そういうイタイ奴にはなりたくない、なるはずがないと常々思っていたのだが、まったく形無しだね。機会はいつだってあるのだから、ちょっとはセーブしなければなるまい――何、公共の場所の方がスリルがあっていいだって? 気持ちは分からんでもないが現実とフィクションを一緒にしてはいかんね。俺はあくまで暴走するSOS団の良心として常識人でありつづけなければならんのだ。だから自分が見たら目を覆いたくなるようなマネは人前では絶対したくないし、ハーレムエンドなんてごめんこうむるし、いずれそういうことになったら堅実にゴム製品を使うつもりだ。相手のことを真剣に考えてれば安全性の高い方法を選ぶだろう? 誰だってそーする。俺もそーする。
 ちらちら長門の方を窺う朝比奈さんにつられて見ると、長門は何事もなかったかのように分厚い本を広げていた。
「長門、お前まだ誰も来ないっていってなかったか?」
 咎めるつもりなんて毛頭ないが、長門の保証がなければもう少し踏みとどまっていたような気がしないでもないぞ。
 長門はゆっくり顔を上げた。
「センサーの大半をあなたとのキスに集中させていたために涼宮ハルヒ以外の人物の感知が遅れた」
 真顔でそんな恥ずかしいことをいうなよ。ほら朝比奈さんがまた茹でダコになってるじゃないか。
「その……こんなこと頼むのもアレですが、一応まだみんなには話してないんで、このことは内密にお願いできませんか? まあいずれバレるでしょうけど、ハルヒ辺りがうるさそうですから」
 朝比奈さんは瞬きでもすれば見逃してしまいそうな一瞬、切なげに眉を八の字にしてから、
「……うん、とてもいえないもの。涼宮さんには」
 と苦笑交じりに微笑まれた。
「すみません。助かります」
 ところで今の間はなんだったんですか?


おしまい

フラクラせずにはいられないキョンでした。
2007/12/30