ステップ・トゥ

 図書館は迷路に似ている。壁のように高い本棚が整然と立ち並び、薄暗い通路が幾筋となく走っている。行き止まりのある例の脳味噌の略図のようなものばかりが迷路ではないのだ。同じ柱を等間隔に並べただけでも人は迷うらしい。昔何かで読んだ気がする。
 何がいいたいかというと、図書館の中で長門を探しているうちに軽く迷子になってしまったのである。抜け出せないわけではないのだが、何度も同じところを通ったりして一向に長門に行き当たらない。緊急というわけではないから図書館の中で大声を出すわけにもいかない。単に俺が、珍しく居眠りもせず持ってきた本を読み終わってしまい、手持ち無沙汰になったので本を返しがてら長門を探しているだけなのだ。
 ちなみに今日は土曜だがハルヒの都合が悪いらしく市街探索は中止になり――悲しいかな、身についた習慣からか、いつものように待ち合わせ場所まで行ってしまい、ようやく中止を思い出したのだった。その後何となくぶらついていると、図書館へ向かう途中の長門に出会い、折角なのでついていくことにしたのである。二人の男女が一緒に出歩くことをデートと定義するなら、これもまたデートだ。長門は露ほどもそんなこと思っていないだろうが。
 ――で。本は返せたが長門が見つからない。読書に耽溺することを活字の海に溺れると形容することがあるが、俺は活字の迷路に迷っているわけである。
 もう駄目だ。次の棚を覗いても居なかったら、おとなしく元の場所で帰りを待っていよう。
 本棚の壁を一つ折れると、果たせるかな、長門の制服姿があった。何かの全集モノの巨大な本にかじりついているので、長門が小さくなったように錯覚する。
「長門」
 何だか無性に嬉しくなり、俺は早足で長門に近寄った。長門もそれに気づいて、まるで息継ぎをするみたいに本から顔を上げた。
「……何?」
 長い睫が僅かに揺れ、小さな唇が開かれた。発せられた平坦な声に安心感を得る。
「いや、本を読み終わったんで、返しがてらお前を探してたら、全然見つからなくてな」
「……そう」
 俺は長門の頭に手を乗せて、軽く撫でた。
「やっと見つけた」
 長門は海溝のような目で俺をじっとみている。無機物的なそれの中に、微かな感情の色彩を見いだされる。
 華奢な手が伸びてきて俺の手を掴んだ。
「ああ、すまん。思わずな」
 子供扱いされているようにでも感じたのだろうか。なぜだか頭一つ分下にある長門の緩いくせっ毛が、撫でるのに丁度いい位置にあるように思われたのだ。
「違う」
 長門は掴んだ手を押し返すのではなく、自分の頭の上に戻した。
「……もっと」
「あ、ああ……」
 見上げられて俺はどぎまぎした。心臓が必要以上に血液を送り出す。相手に心臓の音が聞こえるのではないか心配だ、という表現があるが、長門だったら実際聞こえているかもしれない。それを長門の表情から判断することはできそうもないが。
 長門の柔らかな髪の上に手を滑らせる。整った繊細な顔に雪のように白い肌の取り合わせはどこか人形めいた印象を与えるが、手のひらから伝わる体温は長門が紛れもなく人間の女の子であることを証しているように思えた。マクロな見方をすれば違うのかもしれない。しかし長門自身、ただの女の子であることを望みはじめているし、俺もそうであったらどんなにいいかと思う。
 髪の毛に指をくぐらせると、長門は本を閉じて身体を寄せてきた。どうしてそう思うかと、今までずっと考えていたのだが、どうもそういうことらしい。いつからかなんて野暮な疑問は置いとこう。どうやら俺はこの柔らかい髪を独り占めしたいと思っているようだ。
 軽く引き寄せると、長門は羽根みたいにふんわりと胸におさまった。
「長門?」
 囁きかけると顔を上げる。
「……なに?」
 だったら長門はどう思っているのだろう。急に抱きしめたことを咎める風でもなく俺を見上げるその白析が、微かに喜色を湛えているように見えるのは俺の思い込みだろうか。
 長門はこの状況を俺と同じように理解しているのだろうか?
「……どうするの?」
 初めて長門が質問を重ねた。
 誰も居ない通路で二人きり。頭を撫でたり抱きしめたりするくらいなら、俺に対しては割に無防備な長門だから、他意もなく許してくれるだろう。しかしその先はどうか? あれだけ本を読んでるんだ。それが何を意味するか知らないわけもないだろう。
 左手を背中に、右手をうなじに回す。長門はじっと俺を見つめている。いつもなら長くは耐えられずに逸らしてしまうまっすぐな視線を、正面から受け止める。顔が熱くなって紅潮を自覚する。
 顔と顔がゆっくりと近づき、鼻が鼻をかすめた。それは信じられないくらいに柔らかだった。ほんの少し目が細められて、本を持たない手が背中を遡り、肩を辿った。
 随分と長い間そうしていた気がした。やがてどちらともなく顔を離す。ぼうっと俺を見返す長門の顔に差した赤みが堪らなく愛おしくなり、もう一度抱きしめる。
 重たい本が床に落ちて、思いのほか大きな音を立てた。俺は急に照れくさくなり、できる限り優しく腕を緩めると長門が落とした本を拾った。長門はそれを受け取ると、何かいいたげに唇を震わせた。俺はその口を人差し指で軽く押さえた。これは俺が先にいうべきだろ?
「長門……好きだ」
 長門は今までに見たことのない眼差しを俺に向け、口に当てられた手を取ると、頬をすり寄せてきた。
「……わたしもあなたが好き」
 その口元がごく僅かだが緩んだ気がして、俺は胸を熱くした。

 読みさしの本を借りて図書館を出ると、肘の辺りに何かが触れた。見ると長門が手を伸ばしている。指先が袖を辿って俺の手に行き着く。ためらいがちに手のひらを合わせ、細い指を絡ませる。俺はそれをしっかり握り返すと、先に立って歩きだした。

フラクラばっかりなので、たまには成就する二人も書きたくなりまして。
というかどんどん原作の文体から離れていく……。
2007/12/29