教えて

 チャンスが到来した、と長門有希は考えた。誰にも邪魔されずに調査を行う機会が訪れたのだ。玄関のドアが閉まり、キョンの後ろ姿が視界から消えたことには失望を禁じえなかったが、有希は胸中に奇妙な高揚を感じていた。
 部屋の方へ振り返ると、途方に暮れたような朝比奈みくるの制服姿があった。正確にはみくるの異時間同位体であるが、高々一週間余り先の未来からやってきたに過ぎない彼女は、まともに会話を成立させたことのない有希への苦手意識を克服しているわけではなさそうだった。
「あっ……あの、長門さん……?」
 当のみくるはというと、ガラス玉のような双眸に必死に視線を合わせようと目を泳がせながら、無事に元の時間平面に帰還したら、まずキョンに長門有希の表情を読みとるコツを教えてもらおうと決心していた。
「……何?」
 有希もまたみくるが自分自身を苦手に思っていることを認識していた。極度に無口な有希に対し他の三人はそれぞれ、涼宮ハルヒはある種のこだわりのなさで接するし、古泉一樹は考えを先読みして一人で会話を成立させてしまうし、キョンは辛抱強く理解しようと努めているが、今のところみくるはなす術を知らないのだった。とはいえ単なるクラスメート程度の関係であれば、苦手な人物には係わらなければそれで済むのだが、みくるは総勢たった五人のSOS団団員であると同時にハルヒの監視員であり、幾ら苦手とはいえ別勢力の監視員の一人である有希と全く係わらないわけにはいかないのだ。
「えっと……いえ、なんでもないです……」
「……そう」
 みくるはいまだに有希と非常に親しいとはいえなかった。そのため、有希にとっては喋らないことが取り立てて異常なことではないのにも係わらず、彼女の沈黙に気まずさを覚えてしまうのだ。どちらに非があるというわけではないが、きっと相性がよくないのだろうとみくるは思っていた。互いに何も含むところはないはずだが、相対するとどこか気詰まりでならない。
 リビングには電源の入っていないコタツを除けば一切の電化製品がない。従って人間の可聴音域ではほぼ無音といえるが、そこに心安い仲とはいえない人間同士が押し黙ることによって発生する沈黙が横たわると、辺りの空気の重さが増したように感ぜられた。
 先ほどから有希は相手の表情から困惑を読み取っていた。現状を変化させなければ相手に苦痛を与えることを悟り、落ち着かない様子で立ち尽くしているみくるに向かって口を開く。
「お風呂」
「ふえっ? なんですか?」
 みくるはヘビに威嚇された仔ネズミのように身を竦ませた。
「お風呂……入る?」
 有希は平坦な声で訊ねた。呆然としていたみくるは数秒経過してからようやく、質問の意味を理解した。
「おっ、お風呂ですか?」
 思わず繰り返す。よく考えてみれば何ら不自然なところはなかったのだが、有希の口から聞かされると全くその場にそぐわない質問のように思えてしまったのだ。有希は微動だにせず、何を慌てているのか分からないといった体でみくるを見つめている。
「そんな、わ、悪いですよ」
 反射的に意味もなく断ってしまう。単に親切から出た言葉だったのだろうが、なぜだかみくるには、それに甘えてはいけないような気がしたのだ。別段合理的な理由があるわけではない。
「断る理由はないはず。彼に依頼された以上わたしにはあなたに対し責任があり、あなたを快適に宿泊させる義務があると考える。あなたは理由不詳のまま時間移動を強いられ、多大な不安によるストレスを抱えていると推測される。入浴には人間の精神をリラックスさせストレスを緩和する効果があるとされている。だから、あなたには入浴を推奨する」
 みくるは目を丸くした。長門有希が彼女のみに対してこれほど長い台詞を口にしたのはこれが初めてである。みくるにはその内容も、物言いこそ事務的ではあったものの、キョンの信頼に応えようとする使命感と、彼女に対する本心からの気遣いから生まれたものであるように思えた。やっぱり長門さんはいいひとなんだ。何を考えているかまではよく分からないけれど――みくるは屈託なくそう思った。
「じゃあ……お借りします」
 有希がほんの四ミリほど首肯したのがみくるにも確認できた。
「用意する」
 踵を返し、有希は洗面所があると思われる方向へ行った。湯沸かし器のスイッチを入れにいったようで、二度ほど電子音が聞こえた。戻ってきてみくるがまだその場に佇んだままでいることに目を留めると、無感動な調子でコタツ机を示した。
「座ってて」
 そして今度は足音も立てずに奥の部屋に消える。みくるはいわれたとおりコタツの前に正座した。フローリングそのままなので膝の骨が当たって少し痛い。緊張が若干緩んだためか、疲労感が押し寄せてきた。お風呂を借りたら、すぐに寝かせてもらおう。明日がどうなるか予測もつかないのだから身体を充分休めておくべきだ。
 気配もなく有希が戻ってきた。手には二組のパジャマとバスタオルがあった。パジャマは両方とも同じものらしい。みくるが立ち上がろうとすると、それを片手で制する。
「まだ適正水位に達していない。所要時間は残り十二分」
 有希は端的に告げると、脱衣所にそれらを置きにいき、すぐに戻ってきてキッチンへ向かい、急須と湯呑を乗せた盆を持ってみくるの正面に腰を下ろした。茶汲み人形のような手つきで湯呑に緑茶を注ぐ。
「サイズが合うかどうか分からない」
「へ?」
「パジャマ」
 湯呑を差し出しながら、有希はアステロイド・ベルトで小惑星同士が衝突する確率でも話すかのようにいった。
「あ、ああ……だ、大丈夫ですよ、あたし長門さんとそんなに身長変わらないですから」
「……そう。でも下着は我慢して。明らかにわたしのものはあなたには合わない」
「え? あっ……えっと……はい」
 みくるは半秒だけ有希の身体を見て、慌てて目を伏せた。有希は何かいいたそうにも見えたが、湯張りが完了する電子音が聞こえてくるまで、結局ひと言も口にしなかった。

「はあ……」
 熱めの湯に肌をくぐらせるとようやく人心地がつき、みくるは控えめな溜息を漏らした。浴室はカビ一つ湯垢一つない完璧な清潔さを保っていて、同じメーカのシャンプー、リンス、ボディーソープのボトルが整然と並べられている他には、吸盤式のフックでスポンジがぶら下がっているだけで、風呂場用の椅子もなければ浴槽の蓋さえもない。その素っ気なさが有希らしいと感じ、みくるは微かに目を細めた。
 物音がして、浴室のドアの半透明のアクリル板に有希のものと思しきシルエットが浮かんだ。みくるの目の錯覚でなければ制服を脱いでいるように見える。
「なっ、なっ、長門さん!? どどうしたんですか?」
 その声を聞いて有希のシルエットが一瞬動きを止めるが、すぐにまた動き出す。みくるは浴槽の縁を掴んだ。ゆとりの欠片もない機械的な速度で服を脱ぎ終え、有希は浴室のドアを開けた。
「入浴する」
 有希は極めて端的に答え、一糸纏わぬ裸身を湯気の向こうから現した。
「ひゃっ、にゃん……なんで!? ななななんでですかぁ!? なななな長門さんあたしあのっ……!!」
 湯面を波立たせて首まで浴槽に隠れる。みくるの頭の中はいつもどおりパニックであった。有希は相変わらずの無表情である。
「浴室に充分な余裕がある以上、同時に入浴するのは合理的なこと。時間とエネルギーの節約になる」
 淡々と告げると、膝をついてシャワーを浴びはじめる。みくるは当然一人で入るものと思っていたから、バスタオルなど身を隠すようなものは何も持ってきていない。しかし同性である有希に対して身体を隠す必要があるのだろうか。ちらりともこちらを見ない有希を見て、みくるはかえって赤面した。バカみたい、あたし一人で慌てて。ゆるゆるとしがみついていた浴槽の壁から離れる。
 無駄のない動きで一分足らずのうちに頭と身体を洗い終えた有希は(ちなみに顔もボディーソープで洗っていた)、身体を流し終えるとぎこちなくみくるの方へ首を回した。
「温まった?」
「は……はい」
 こちらもぎこちなく微笑む。
「上がって。背中を流す」
「ふぇっ!?」
 有希は一人分のスペースを空けた自分の前方を指し、スポンジに新たにボディーソープをつけた。二の腕を伝った水滴が肘から落ちる。
「いっ、いいえっ、じ、自分で洗えますから……」
 またつい身を竦ませてしまう。有希は片手で床を示したまま彫像のように身じろぎ一つしない。
「……恥ずかしい?」
「そ、そういうわけじゃ……えっと」
 恥ずかしいといわれれば恥ずかしいのだが、条件反射で断ってしまっただけのような気もしたし、今まで散々ハルヒには無邪気で壮絶なセクハラを受けてきておいて、今更という気もする。かといって羞恥心がなくなったわけではないが、有希に対して恥らう必要はないのでは、とも思う。他意のない親切を無碍に断るのはかえって有希に悪かろう。みくるは恐る恐るといった様子で両手を身体で隠しながら湯船から出た。
「よかったら……お願いします……」
 有希の前に座って背中を見せる。スポンジを泡立てる音がして、左の肩甲骨の辺りに添えられる感触がした。そのまま結構な力を込めてスポンジが垂直に腰まで下ろされた。
「ぅひゃうっ!」
 みくるが変な悲鳴を上げ背中を反らしたので、手が止まった。
「ごめんなさい、くすぐったくて……」
「……そう」
 再び肩甲骨の、しかし今度は五センチほど中心にずらして添えられたスポンジが、さきほどより力を緩めて腰のやや上まで下ろされる。洗う範囲を狭めたようである。みくるはまだ若干くすぐったさを覚えたが、我慢できる程度であったのでなるべく身体を動かさないようにした。スポンジが同じ軌道で上昇し、更に五センチ右へずれてから下ろされる。背中を流すというよりペンキでも塗られているようであった。精確に同じ動作が繰り返され、長方形の中をスポンジが三往復した。
「……どうして胸を隠すの?」
 ぽつりと漏れる声。
「えっ? ええと、何となく……です」
 一人暮らしにしては広めの浴室が沈黙に支配される。背中をなぞるように流れ落ちる泡が余計にみくるを落ち着かなくさせた。
 音の反響しやすい場所にも係わらず有希の声は静かだった。
「……わたしより大きいから?」
「えっ? えっ!? ち、ち違います……っ……そういうことじゃ……あのぅ……」
 肩越しに細い腕が伸びてきて、みくるが驚く間もなくシャワーヘッドを掴み、反対の手が蛇口をひねった。みくるは再び大混乱の只中に放り込まれる。なぜか自分が窮地に立たされているように思え、泣きたいような気分で有希を振り返ろうとしたが、
「顔に跳ねる」
 にべもなく前を向かされた。シャワーのお湯で背中が洗い流される。
 有希の質問は続いた。
「……胸の大きさとは、なに?」
 ある意味ひどく深遠な問いだった。
「ぅえっ、そそれはどういう……」
「あなたは自分の胸をどのように考えている?」
 答えは期待していなかったらしく、有希は質問を重ねた。みくるは質問の意図を掴みかねたままおずおずと答える。
「……そ、あの、あたし……そんなに好きじゃ……ないです……大きすぎて、邪魔だし、よく変な目で見られますし……」
 暫くシャワーが同じ箇所から動かなかった。やがて背後から手が伸びてきて湯を止める。有希はスポンジを手渡した。みくるがひと昔前のロボットのような動きで振り向くと、有希は浴槽へ脚を入れるところだった。身体を隠そうとする意思は微塵もないらしい。
 身体を浸けると、みくるに向き直った。
「人に見られるのは、嫌?」
「……あんまり好きじゃないです」
 みくるはすれ違う人々の視線を思い返して、少しうつむく。もう慣れっこになってはいたものの、単純な驚きのそれも幾らか混じっているとはいえ、見知らぬ人間たちの好奇の目にさらされるのは好ましいこととはいえなかった。握り締めたスポンジから泡が溢れる。
「どの部位に関しても?」
「……主に胸ですけど……いやらしい目で見られるのは……あまり」
「誰でも?」
「え?」
 浴槽の中に正座しているらしい有希は、どこか形容しがたい色を湛えた瞳をまっすぐみくるに向けていた。
「……彼に見られることも?」
「彼……って、キョンくん、ですか?」
 有希は瞬き一つしない。
「キョンくん……だったら、それほどでもない……かも」
「どうして?」
「ええっと、そのぅ……なるべく見ないようにしてくれてるし、誠意が伝わってくるというか……?」
 誤魔化すような笑いが浮かんだが、有希の直線的な視線にぶつかってすぐに引っ込む。
「つまり?」
 みくるは何と答えるべきか迷う。有希が自分から何を聞きだしたいのか分からないのだ。
「ええ……あぁ……それは……自分が好きな人だったら平気、というか……」
「…………彼のことが好き?」
「えっ!? あ!! そ、そういう意味じゃないですっ、一般的な意味でというか、あの、あの、お友達として……」
 有希の声が僅かにトーンを下げたように思えて、みくるはまたスポンジを握りつぶした。
「わたしは」
 表面上何の変化も読み取れない白皙が、角度にして二度ほど傾いだ。
「……わたしは、彼に見られることを喜びと感じる」
 零れた泡が腿に落ちて、みくるは思い出したように身体をこすりだした。スポンジには余り泡が残っていなかった。
「……これは、『好き』に該当すること?」
 また手が止まり、みくるは有希に視線を戻した。その表情は普段と何ら変わらないようにしか見えなかったが、なぜかいつもより幼いものにも見えた。忘れがちなことだが、幾ら高性能で誰よりキョンに頼りにされているとはいえ、この有機ヒューマノイド・インターフェースは外見においても実年齢においてもみくるより年下には違いないのだ。
 このような思いを抱くのは見当違いかもしれなかったが、そのときみくるは有希を、我が子を慈しむような気持ちで「可愛い」と感じた。この「子」の心はまだ恋を理解できないほど幼いのかもしれないと。反面、情報統合思念体がちっぽけな有機生命体の感情を理解できていないだけという可能性も念頭にありはしたのだったが。
 少なくとも有希の双眸は誰より無垢であった。
「そうですよ」
 みくるは今度は、嘘偽りのない笑顔を浮かべることができた。
「長門さんはキョンくんが好きなんですよ」
 二人は随分と長い間見つめあっていたが、やがて有希の方が目を落とし、そう、と呟いた。みくるは明るい表情で身体を洗うのを再開する。浴室には沈黙が帰ってきたが、みくるは初めてそれが心休まるものに感じられた。
 ――長門さんとは、きっともっと分かり合えるんだ――
 みくるが頭を流していると、有希が何かいったように聞こえた。慌ててシャワーを止める。
「なんですか?」
「……どうしたら胸は大きくなる?」

 風呂から上がったみくるは、入る前よりもずっと増した疲労感に圧し掛かられて、泥のように眠った。

おしまい

顔は洗顔フォーム使わんとヒフがつっぱりますよ。
2007/12/23