ユー・アー・スター

 発声器官はその用をなさず、唇は開くことを知らない。膨大なエラーを蓄積させたまま、虚しくその有機生命体を見つめることしかできない。
 長門有希と呼称されるその「女性」型インターフェースが最初にその解析不能なエラーを認識したときの記録は、現在呼び出し不能とされている。彼女自身がそのデータを隔離したのである。そのデータは任務遂行の上で全く不必要なものと判断されたが、彼女には削除することができなかった。そのこと自体もまた彼女の中に解析不能なエラーとして蓄積され、次々と発生するエラーデータ群は適正な処理もなされず、また処理方法も不明なまま放置されつづけた。
 彼女は隔離したそのデータを彼女という個体にとってのみ重要なものだと認識する。
 エラーが発生するのは、決まって有機生命体の特定の一個体と接触を持ったときであった。「彼」は観測対象に選ばれた存在であり、観測対象に対する「鍵」と目されていたが、準観測対象であるはずの彼が彼女に対して及ぼす影響は、観測対象の及ぼすそれを遥かに凌駕していた。
 彼の外的形状を光学的に認識するだけで、内部エラーのみならず身体機能におけるエラーさえ発生した。血液の循環量が一時的に増大し、表皮温度が数値的には僅かに、しかし体感的には大幅に上昇するのである。
 単体での処理に限界を覚えた彼女は、彼女のバックアップに意見を要求した。バックアップは彼女には表現不可能な表情を形成し、
「それは彼のことが『好き』ってことなんじゃない?」
 と回答した。その言葉の意味を明確に理解することはできなかったが、そのあとバックアップが続けた、そのエラーの発生情報を彼に伝達すべきだという勧告は、彼女には有益なものと判断された。
 彼は彼女を前にすると、敵意なしと判断される類の「微笑」を浮かべた。有機生命体の作成した文字情報群から学習した情報によると、その顔面筋肉の運動が表すのは対象への「好意」であるらしかった。彼女にはその意味を理解することができず、その表情を認識することで内部エラーが発生することを確認したのみに留まった。
 彼女は言語を持たない情報統合思念体に代わり、有機生命体とコンタクトを行うために作出された存在であったが、彼女のバックアップを含めた他のインターフェースとは異なり、言語によるコミュニケーションを行うことが得意とはいえなかった。彼女はこの惑星上で使用される全言語の情報を記録していたが、実際に有機生命体とのコンタクトを開始すると、特定の分野に関する伝達を除けば、それぞれの場面でいかなるパターンの文章構成が適切であるか選択することができなくなるのである。伝えるべき情報は完全に理解しているが、それを適当に言語化することができず、結果として殆どの場合納得のいく文章よりも、短い文節や単語のみを用いて伝達を行ってきた。それが相手に対し正しく伝達されたか否かも疑わしかった。
 そして彼に対しては、何を伝達すべきかも理解しきれていない。彼女は、彼との接触によって自分の中に解析不能のエラーが発生することを彼に伝達したとして、果たしてそれが理解されるのだろうかと考えた。情報の内容が正確に伝達されるかどうかさえ疑わしいのである。舌は動かず、口は開かれない。彼に視覚の焦点を合わせているだけでエラーは蓄積されていく。しかし彼女という個体は彼を視覚的に認識しつづけることを希望していた。彼は「困惑」――状況が理解できず次の行動に移るのが困難な状態――を表す表情を作る。伝えるべき情報を言語化することは遂にできなかった。
「どうかしたか?」
 彼は何か脆い物体に対するような手つきで彼女の頭部に接触した。エラーが発生する。
「……なんでもない」
 言語化の失敗に備えあらかじめ準備していた言葉を発声する。この六音節からなる慣用表現は、多くの場合直前の行動に対する無目的性や異常のなさを相手に伝達することができた。
「そうか?」
 彼は「笑う」。伝達は概ね成功する。彼女は自己にとってその表情が有益なものであると判断する。それを利害の範疇に当てはめるのは適切な分類とは断じえなかったが、それ以外のカテゴリを考えつくことができない。
 彼女は思考する。今後いずれかの時間において、彼に伝達することができるのだろうか。自分には彼が、大気を通して観測する天体のような輝きを伴って認識されることを。また彼を原因として発生したエラーを、機能停止のそのときまで記録しておきたいと望んでいることを。

こないだ消失していたので思いつきました。
自分の文体で書くとこうなっちまいます。
長門がもどかしさを感じているのならこの文章のようにもどかしいのだと思います。
2007/12/22