パーソナル・スペースV

 不機嫌だったりブルーだったり苛ついていたりするハルヒは何度も見てきた。だが何か考えてるんだか何も考えていないんだかよく分からない表情でぼんやりしている姿は初めて見たかもしれない。何だかよく分からないが俺が悪いのか? どうしていいか分からず、俺は鞄も置かずに暫く立ち尽くしていた。
 どうしてくれよう。何かしら地雷を踏んでしまったのは確からしいが、どれが地雷だったか分からないのでフォローしようがない。朝比奈さんも気まずそうな目で俺を見ているし、居心地が悪いったらない。
 そんな状況を打破し、ハルヒを現実に引き戻したのは我らが長門だった。
 実をいうと長門も俺のことを暗黒星雲みたいな目で見ていたのだが、滅多にしない瞬きを一回すると茶汲み人形のように動き出して、自分の鞄を探りはじめた。
「……これを」
 取り出したのは弁当箱だった。今朝家を出るときにお袋が長門の――いや「有希ちゃん」の分も用意しておいて持たせてくれたものだ。
「おお、忘れてたよ。あんなんで足りたか?」
 長門は弁当箱を差し出して頷いた。
「とても美味しかったとお礼をいっておいてほしい」
「えっ……と、ちょっと待って」
 ここでハルヒが活動を再開する。おかえりハルヒ。
「なんで有希がキョンにお弁当箱返すわけ!?」
「それは……」
「それはだな!」
 疚しいことなど何もないとはいえ(若干妙なことは考えたのは認めるが、内面の自由の許された国だ、それくらい許してくれ)長門を泊めただなんてバレたら何をいわれるか分かったもんじゃない。長門も自覚がないのか同じベッドを使ったことまで普通に喋っちまいそうだし、先手を打つしかない。
「いや、今朝お袋が間違えて、出張してる親父の分まで弁当を作ってしまってな! ほら、長門は一人暮らしだろ? もしかしたら昼飯を用意してないかと思って電話してみたら幸い、用意してないということで、その弁当を食ってもらったってわけだ」
 ハルヒは疑わしげに俺を見ている。いいわけっぽかっただろうか。まあ真実は長門が一人暮らしということだけで後はでまかせなのだが。
「有希、ほんと?」
 長門! 頼む空気を読んでくれ!
「…………本当」
「なんか間があったわね……でも有希が嘘つくわけないか」
 すまん長門。いやどちらかといえば長門が原因なのか――いやいやそんなことはないさ、長門には変な気持ちなんかないんだろうから、ここでハルヒにバレて困るのは俺だけの都合なのだ。嘘なんかつかせて申しわけない。そして話を合わせてくれてありがとう。命がつながったぜ。
 しかしどうして俺はこんな必死にいいわけせねばならんのだ? 長門と俺がどうなろうとハルヒには何にも関係ないじゃないか。万が一どうにかなったとしたらそれは間違いなく長門との合意の上で(長門が本気で嫌がったら人類が相手になるわけないだろ?)行われることであって、ハルヒに口を差し挟まれる筋合いはない。幾ら自分が恋愛を精神病だとか思っているからといって、二人の恋路を邪魔する権利はないはずだろ? まああくまで例え話で、勿論そんな事実はないんだが。
 もしかして妬いてるのかね。まさかハルヒに限ってそれはないだろう。
 ハルヒは頬杖で長門と俺を見比べていたが、やがてまた立ち上がった。
「今日はもう解散」
 さっきも帰ろうとしていたようだったが、今度は鞄を掴むなりさっさと出て行ってしまった。まあ普段のSOS団の活動といってもハルヒが妙ちきりんなことを思いつかない限りは、文芸部室を占拠してめいめい暇を潰しているに過ぎないわけで、それを始めたハルヒが帰るっていうんなら別に否やはないけどな。栄えあるSOS団雑用係に任命される前のように、帰宅部然と帰るだけさ。朝比奈さんのお茶が飲めなかったのが心残りではあるが。
 その朝比奈さんも困り顔で長門とアイコンタクト? を行い、
「着替えるので先に帰っててください」
 とおっしゃるので、結果的に長門と帰ることになった。そういえば古泉は無事だろうか。明日来ていたら苦労話くらい聞いてやるか。
 長門と二人だと大抵会話はない。出会った当初は沈黙が気詰まりで何とか間を持たせようと頑張っていたのだが、今では長門の無口にすっかり慣れてしまっていた。そういえば、俺はいいがハルヒたちが長門と二人っきりになったらどうしてるんだろうね。ハルヒと古泉はそれぞれ違う理由で平気そうだから、思い浮かべてみて心配になるのは朝比奈さんだけか。他にはそうだな、六組の担任なんかはどうやって長門とコミュニケーションを取ってるんだろうね。うちの岡部以上に苦労が偲ばれるぜ。
 考えごとをしていると長い帰り道もあっという間だ。分かれ道に差しかかった。
「じゃ、またな長門」
 そういって振り返ると、長門は俺のブレザーの裾を軽く引っ張った。余り気にしていなかったがどうも学校からずっと掴んでいたようだ。足音も気配もしないがついてきてるのは分かってるぞ?
「……寄っていく?」
「ん? お前の家にか?」
 他に立ち寄れるようなところもないか。団活も早めに終わったことだし、帰っても晩飯までやることもないしな。別に構わないぞ。昨日行ったばっかりだが。
「そう」
 そのままなぜか俺は長門に引っ張られて部屋へお邪魔した。離しても逃げないって。
 長門はコタツの電源を点けてキッチンへ行った。お茶でも淹れてくれるのだろうか。別に構わなくていいんだがな。気を遣わせてしまっただろうか。でも招いたのは長門か。そんなに暇だったのかね。
 コタツに入ってるとまたうたた寝してしまいそうだ。全然疲れていない休日でさえそうだったんだから、フルで授業を受けてきた月曜の夕方なんて尚更寝そうになる。昨日借してもらった本がコタツ机に置きっぱなしにしてあったので、どこまで読んだかとページをめくった。昨日は読んでる途中で寝てしまって、気づいたら長門が……ダメだ、内容が頭に入ってこない。
 同じセンテンスを何度も往復していると長門が急須を載せたお盆を持って戻ってきた。懐かしのほうじ茶だった。あの時はうんざりするくらい飲まされたが、今だったら俺の淹れたお茶の百万倍の価値は認めるね。
 その後二時間ばかりお茶を片手に二人で本を読んで過ごした。部室で朝比奈さんのお茶を啜るのも至極のリラックスタイムだが、昔のイタリア製手榴弾のようなハルヒがいつ何をいいだすか分かったもんじゃないから完全に気を抜けるわけではない。それに比べてこの空間の平和なこと! 緩みきってしまうのも無理ないだろ? 入り浸ってしまいそうだ。
 ガクンと首が落ちる。いかん。寝る。
「長門、そろそろ帰るよ。長居しちまって悪かったな」
「いい。誘ったのはわたし」
 帰り支度をしていると、昨日長門を夕食に招いたことを思い出した。そういえば昨日から授業中以外ずっと一緒に居るということは、長門には買い物をする時間がなかったのではないか。つまり昨晩と同じく食事は「特に考えていない」ままのはずだ。もしや俺のせいで食事の用意ができなかったんじゃないか?
「よかったらまた家で晩飯食べるか?」
 なんだ昨日と同じじゃないか。

 その日は流石に部屋まで送り帰したが、その後長門はたびたび俺の家に晩飯を食べにやってくるようになった。時々泊まっていくこともあったが、何度も繰り返しているうちに俺も慣れてきて、しまいには独り寝に若干の寂しさを覚えるまでになってしまった。どんな高校生だよ、俺。
 また休みの日などには昼間でも遊びにくるようになったし、俺の方から長門の部屋に行くことも増えた。学校帰りにもたまに寄って、本を読んだりしてのんびりするのである。心休まらぬ高校生活に極上のリラックスタイムを得たってわけだ。
 話は翌週の土曜日に飛ぶ。恒例の市内探索に駆り出された俺たちは、いつものことながらグループ分けのクジ引きをするために喫茶店に入った。色つきの楊枝を引いたのは俺と長門だった。また図書館でも行くか。
 すると向かいに座っていたハルヒが不機嫌そうに口を開いた。
「ねえキョン、あんた最近有希に馴れ馴れしくない?」
 はてね。まあ確かに他の団員より一緒に居る時間が増えたから、前より仲は良くなったようには思うが。馴れ馴れしいっていうのはハルヒの文脈から察するに遠慮がなさ過ぎるとか、要は親しくない人に対して失礼に感じられた場合使う方の意味だろう。実際親しい俺たちが親しげにしてたって問題なかろうが。
 長門はというと、全然気づかなかったが俺の手首の血管をふにふにして遊んでいた。何やってんだ。
「別に前と変わったつもりはないぞ。仮にそうだったとしても俺が一方的にしてるわけでもないんじゃないか?」
「じゃあ何でそんなベッタリくっついて座ってんのよ?」
「奥の席に詰めて座ってる俺の方からくっつけるわけないだろ……いやそういえばそうだな、長門、空いてんだからもう少し離れてもいいんじゃないか?」
「いい」
 いいのか。何だそれは。いわれてみれば余りに日常的過ぎて、一緒に歩いてるとき袖を掴まれていたり、今みたいに勝手に手を取られていてもさほど気に留めなくなった気がする。立場が逆な気もするがガードが緩くなっているのか? 大した問題ではないとは思うが。
「有希、前から思ってたけど、あなた自分に頓着がなさ過ぎるわ! ちょっとは自分ってもんを大事にしなさいよ! 有希はかなり可愛いんだから、あんまりガードが甘いとバカな男が勘違いするわよ? こいつみたいに!」
 ハルヒが吼え、ビシッと俺に指を突きつける。今のはカチンときた。
「おいハルヒ! そりゃ幾らなんでも――」
「問題ない」
 俺が抗議しようと腰を浮かしかけると、長門がぽつんと答えた。
「他の人にはしない」
 それは多分地雷だと思うんだが……ほら、古泉が青くなって朝比奈さんが赤くなっている。ハルヒは何色だ?
「どういう意味よそれ!?」
 赤だ、真っ赤だ。赤い悪魔と(味方に)恐れられたあの手榴弾と一緒だ。
「……文字通りの意味」
 対する長門は月の海のごとき静けさである。その血管ふにふにをやめてくれないか。
 ハルヒはなぜだか知らないが烈火のごとく怒っている。長門と俺の仲がいいとどうしてこいつが困るんだ? まさか本当に妬いてるのだろうか。そんなバカな。
「…………あんたたち、あたしに何か隠しごとしてるでしょ?」
「してねえよ」
「嘘!」
「嘘じゃねえ」
「嘘よ!」
 今まで溜め込んでいたものを爆発させるかのような勢いで、ハルヒは両手でテーブルを叩いて立ち上がった。店内の視線がこちらへ集中する。ウエイトレスが不安げに様子を窺い、古泉は電話を受けて「失礼」などといいながら店の外へ。残された朝比奈さんは椅子の上で縮こまっている。
「あんたたち、あたしに隠れて付き合ってるんでしょ!?」
 何をいいだすんだ? 俺は開いた口が塞がらなかったが、驚くべきことにハルヒの目には涙が浮かんでいる。思い込みとはいえ隠しごとをされているのがそんなに嫌だったのだろうか。それだけ俺たちを信じていたということか? いずれにせよ誤解を解かねばならん。
「そんな事実はない。お前の勘違いだ。そうだろ長門」
「……そう」
 長門は俺をじっと見ている。そろそろ血管から手を離してくれないか。
「ハルヒ、お前恋愛は精神病の一種だとかいっておきながら、男女間の友情が成立しないなんて思ってるんじゃなかろうな? 確かに最近特に俺と長門は仲がいい、だがそれはお前が考えてるようないかがわしいものじゃない。俺たちはあくまで健全な友情を育んでいただけで、今や俺たちは信頼という絆で固く結ばれているんだ。いわば親友だ。心の友だ。そうだろ?」
 長門は俺をじっと見ている。
「……有希、そうなの?」
 ハルヒが震え声で問うた。長門は答えずに、ハルヒに目をやった。二人ともたっぷり一分間は凍りついたように見つめ合って動かず、静まり返った喫茶店は緊張に包まれていた。長門は首を回して俺を見た。何かいいたげである。ストレスが溜まるからいいたいことがあるならいった方がいいってハルヒもいってたぞ。
「……彼のいうとおり」
 長門はぼそぼそといった。何だか嫌そうに喋っているように見えたのは、長門の表情の専門家である俺の経験のなせるわざであろうか?
「ほれ見ろ。男と女が一緒に居るだけで何かと色恋沙汰に絡める連中がいるが、まさかお前は違うだろ? 谷口じゃあるまいし」
 今度はハルヒが穴でも穿たんばかりに俺を見つめてきた。俺は極めて真面目な顔である。嘘はついていないんだから堂々としていればいい。大体隠しごとっていったらハルヒ以外の全員が持ってるじゃないか。そっちに罪悪感を感じるならまだしも、勘違いのいいがかりに対して罪の意識なんぞ芽生えないね。そもそもハルヒが俺を信用しないのが原因じゃないのか?
 真っ赤だったハルヒの顔は段々青褪めてきて、それからまた赤くなってきた。
「……な、何よっ、もう! バカみたい! あたし帰る。今日は解散!」
 ハルヒはものすごい速さで店を飛び出していった。期待はしていないが謝罪の言葉もなしか。やれやれだ。そして勘定は俺が持つんだな?
「すいませんね、お騒がせしちゃって」
 同意を求めるように朝比奈さんを見ると、さっきまで泣き出しそうだった先輩は呆れたような――いや哀れむような目で俺を見返していた。なんですか? 先週もそんな目で見られた気がするんですがね。長門は小さな声で「どうして……」とか「まだチャンスは……」とかブツブツいっているし、つくづく変わった連中だ。
 まあ、嫌いじゃないんだがな。
「長門、そろそろ血管ふにふにはやめてくれ」


おしまい

ある意味才能。
2008/01/02