パーソナル・スペースIV

 夜中に不意に目が覚めた。寝苦しかったとかそういうわけではなく、寝心地が何かいつもと違ったからだ。蒲団の中に何かが居る、というか何かに抱きつかれている。一瞬妹がもぐりこんできたのかとも思ったが、頭にぼんやりと寝る前の光景が浮かび上がってきて、その正体が長門であることを思い出す。
 すうすうと聞こえる寝息に既視感を覚えた。覚えるも何も半日も前のことではないのだが、あのときはいつの間にか添い寝されており、今回は俺の方から長門の居る蒲団に入ったのだった。長門が俺が寝入ってから侵入してきたのに対し、俺は長門に引っ張り込まれたのが異なる点なのだが。
 勿論この同衾は辞書で引いたところの最初に出てくる意味そのままであって、ベッドを共有する以上の意味はない。だからこそ俺は、満員電車で痴漢に間違われないために両手を目に見える位置に配置しておくのと同様、ベッドの端っこで長門に背を向けて寝たつもりだった。
 で、今はどうなっているかというと長門は俺の左腕を枕にして、背中にがっちり腕を回している。完全に抱き枕である。そして俺の二の腕が長門の首の下にあり、長門がこっちを向いている以上、その愛くるしいおかんばせは殆ど俺の顔とくっつかんばかりの位置にあるわけであり、あっという間に心拍数が上がっていくのも自然ななりゆきなのである。
 神はなんだって俺に試練ばかり与えたもうのか? 恨みでもあるのか?
 一度意識しだすともう止まらない。長門の匂いだとか体温だとか、布を隔てて感じる控えめだが柔らかな二つの何かだとかが頭の中を占拠してぐるぐる踊りだす。長門よ、お前はどうしてこう無防備なのか。俺を信頼しきっているのか、それとも棒っきれか何かだとでも思ってるんじゃなかろうな。少なくとも俺が一人の健康な男子高校生だということはさっぱり念頭にないだろう。俺自身は今嫌っていうほど認識しているんだがな。
 もぞもぞと腰を引く。男の身体は正直でかつ必ずしも自分の意志を反映してくれるとは限らないのだ。いつまでも長門にこんなものを押しつけているわけにはいかない。罪悪感と情けなさが同時に襲ってくる。まずありえないが妹に欲情してしまったらこんな気分になるのではなかろうか。
 しかし理想がどうあれ、薄闇の中で腕の中の長門を見ていると正直堪らなくなってくるのもまた事実だった。どう堪らないかというと可愛くて堪らないのだ。抱きしめてしまいたい(いや既にそんな姿勢か)。勿論普段から可愛いとは思っていたのだが、寝顔となるとその可愛さは犯罪級だった。シチュエーションも考慮に入れると、目の毒さ加減では朝比奈さんの生着替えにも匹敵することだろう。泊まるために「従姉妹」ということにしてあるといっていたが、もしも本当だったら血のつながりのない親戚に決まっている。妹も可愛くないわけではないが、俺と血縁だったらこんなに可愛いのが生まれるわけがない。実際ないのだから当然だが。
 俺は理性の箍が緩みはじめているのを感じていた。元よりこんな体勢だし、頭を撫でるくらいなら許されるだろうと、起こさないようにそっと髪を手で梳く。長門は猫みたいに身体をすり寄せてくる。何だか余計に堪らなくなったが、こうなると徐々にではあるが「そっち」の方は落ち着いてきて、別種の感情が湧き上がってきた。どう表現したらいいか分からないが多分慈しみの心のようなものだろう。
 その感情をどうにか形にしてみたくて、散々迷って思い至った末に十分くらいためらってから、俺は長門の額に口づけた。あんまり恥ずかしくなって一時間ばかり寝つけなかったのは内緒だ。
 眠りに落ちてからは熟睡だったのだろう、二度目の目覚めは案外にすっきりと訪れた。姿勢はさっき目覚めたときと変わらず、至近距離にある長門の顔のせいで昨夜のことが思い出され、赤面する。
「長門、朝だぞ」
 照れ隠しに長門を起こすと、最初から寝ていなかったかのようにぱっちり目を開けた。
「……起きていいか?」
 なぜわざわざ確認したのかというと、胴体に絡みついた細い腕のせいで身動きが取れなかったからだ。
 長門は無機質な眼差しでたっぷり三分は俺を見つめていたが、おもむろに腕の力を緩めた。何か渋々やっているという感じがする。
「まだ眠いか?」
「……離れたくない」
 そうかそうか。朝に蒲団から出たくない気持ちはよく分かるぞ。まさかお前もそうだとは思わなかったが。長門ならスイッチを切り替えるみたいに起きられそうだからな。
 ベッドの端に座って伸びをしていると、起き上がってきた長門が背中にコテンと寄りかかってきた。
「長門……まさかとは思うが他の奴にはこんなことしてないだろうな?」
 思いのほか強靭な理性を持ち、長門の正体を知る俺だけにならともかく、誰に対しても無防備だとしたらそれは大きな問題である。間違いなく誤解させてしまうだろう。長門に心配はないが、万が一誤解の果てに狼藉を働かんものなら相手の身が心配だ。
「しない。あなたにだけ」
 だったらいいんだが。

 二時間目の前にトイレから帰ってくると、気のせいだろうか、何か空気が冷たくなっているように思えた。普段はガヤガヤと騒がしい休み時間にも係わらず、教室の中は水を打ったような静けさであった。ドアから一歩足を踏み入れて、俺はその原因に気づいた。
 俺の後ろの席に座っているそいつからは瘴気のようにどす黒いオーラが立ち昇っていた。邪気眼を持たぬ者には分かるまい。教室中の誰もがちらちらとそいつの様子を窺っていたが、俺が来たことに気づくと揃って救いを求めるような視線を俺に向かって投げかけてきた。俺はあいつの保護者じゃないんだぞ。
「何いってんだ。お前以外の誰が涼宮の面倒を見られると思ってるんだ?」
 谷口が囁いてきた。まあ入学当初に比べて丸くなってきたとはいえ、凍てつくような不機嫌オーラを纏ったハルヒに話しかけられる奴なんて、流石に俺を置いて他に居ないだろう。できれば俺も近づきたくないのだが、入学以来因縁のごとく俺の席はハルヒの前の特等席を占領しつづけているので、目の前に座った以上無視するわけにもいかないのが悲しい現実である。誰か代わってくれ。
 やれやれとばかりに肩を落として席に着き、覚悟を決めて振り返る。
「なんだどうかしたのか」
 予想以上の物凄い目で睨まれた。もしや俺が原因なのか? 心当たりは何もないぞ。
「あんた、今朝有希と手つないで学校に来たんですって?」
「え?」
 今朝の登校風景を思い起こす。そういえば家を出てからずっと長門の手が俺の袖をつまんでいたような気がするが、あれはつないでいたとはいわないだろう。
「そういう事実はないな」
「嘘おっしゃい!」
 ハルヒの手が獲物に迫るアミメニシキヘビのように伸びてきて俺のネクタイを掴んだ。ああこの野郎、今日は長門が結んでくれたプレーンノットがきっちり決まっていたのに。
「お前はなぜ一度で俺のいうことを信用せんのだ。人の言葉を否定する前に根拠を挙げろ」
「根拠ならあるわよ!」
 鋭く目を走らせる。
「さっき谷口が喋ってたもの。聞いたら生意気にも黙秘権なんか持ち出してきたけど、すぐに口を割ったわ!」
 見ると、頭を引っ込める谷口。あの野郎、自分が原因の癖に後始末を押しつけやがって。どういう風に口を割らされたか想像すると、少しは同情の余地もあるのかもしれないが。
「お前の中じゃ俺の言葉はあいつのより信憑性がないのか」
 ネクタイがぐいっと引かれる。顔が近いぞ。
「あのアホが嘘ついたって何の得もしないでしょ!」
「俺だって得はせんぞ」
 こいつの耳には反論は届かないのだった。ハルヒは大きく息を吸い込んだ。耳を塞いでおきたいところだ。
「有希に何してんのよっ!?」
 学校中に響き渡らんばかりの大音声である。朝から元気なことだ。こいつも長門みたいにスイッチの切り替えで寝起きしてるんじゃないのか。
「だからしてねえって。長門が俺の袖を掴んでたからそう見えただけだろ」
「はぁ? なんで有希がそんなことしなきゃいけないわけ?」
「長門に訊いてくれ」
 と、ここで二時間目の教師が入ってきて、教室の異様に張りつめた空気に怪訝そうな顔をしながらも授業を始めたので、俺は一時的に救われたのだったが、授業中ずっと背後から暗闇が迫ってくるような、または野獣の息遣いのような暗黒オーラを浴びせかけられつづけ、授業の内容はさっぱり頭に入ってこなかった。
 放課後は幸い掃除当番で、瘴気を噴出するハルヒと一緒に部室に行かずには済んだのだが、掃除が終わってからも一人部室に向かう足取りはヤンデレヒロインの愛情のごとく重たかった。今のは妄言だ。
 しかしハルヒをあそこまで不機嫌にさせる理由とは一体何なのだろうか。長門の身を慮ってというのは何となく分かるのだが、俺が長門に何をするというのだろう。無理強いして手をつながせたとでもいうのだろうか。普段の俺と長門を見ていれば互いに良好な信頼関係を築いているのが分かりそうなものだが。大体「〜に変なことしたら承知しないわよ!」などという台詞を今では決まり文句のようにいわれるが、俺には疑われるような覚えは何もない。それに古泉にはノータッチなのだから失礼な話である。そもそもそんなに信頼できない人物ならなぜ側に置いておくのか。嫌なら辞めさせればいいものを、理解に苦しむね。
 気が進まなくても遅れたら遅れたで文句をいわれるに違いないので、上履きの底をすり減らすように歩いていると、部室棟への渡り廊下に差しかかった辺りで急いだ様子の古泉と行き当たった。
「よう。もう帰るのか?」
 そういってから、古泉のハンサム顔に余裕がないのを見てとる。
「ええ、急なアルバイトが入りまして」
「皮肉をいえるだけの余裕はあるみたいだな?」
 気の毒なことだ。ハルヒが不機嫌になって一番大きな被害を受けるのは俺ではなく古泉なのだった。まあ朝比奈さんもとばっちりを食らうことが多いし、ハルヒの不機嫌の実害を被らないのは長門だけだ。そもそも今ハルヒは長門を心配する余りに機嫌を損ねているのだから当然ともいえるが。
 古泉は普段の二十パーセントくらいのニヤケ度で肩をすくめた。
「とんでもない、今回は想定外の展開になりまして、内心では戦々兢々としているところですよ」
「どういうことだ?」
「急ぎですのでかいつまんで説明しますと、涼宮さんと長門さんの間でちょっとしたトラブルがありまして。どうやら大本の原因はあなたにあるようですが」
 ちらっと行き先を窺う。
「……そりゃ言いがかりだ」
「そうですか? では僕は急ぎますから、これで失礼します。そちらはあなたの領分ですから、お任せしますよ。あなたの頑張り次第では、僕も早く仕事を切り上げられるかもしれません」
 古泉は部室の方を示すと、早歩きで行ってしまった。健闘を祈る。
 文芸部室の窓を見上げて、俺は深々と溜息をついた。困ったもんだ。
 階段を上り思い切ってドアを開けると、何とも嫌な空気が充満していた。以前古泉がこの部室は様々な要素がせめぎあって異空間化しているといっていたが、今日の部室はまさに異界の雰囲気を醸し出していた。古泉が居ないこと以外は表面的には見慣れた光景なのだが、半べその朝比奈さんが哀願するような眼差しを俺に向けてくるのは、非常事態の証である。こんなところに取り残されて生きた心地もしなかったに違いない。この俺が来たからには大船――とはいかないまでもスワンボートに乗ったくらいの気になっても大丈夫ですよ。
「…………」
 我らが団長の最も恐ろしいのは、怒鳴っているときよりも黙っているときである。長門との間に何があったのかは知らないが、この様子だと古泉の苦戦は免れないだろう。合掌。
「一体何があったんですか?」
 隅っこで縮こまっている朝比奈さんに訊ねると、蚊の鳴くような声で、
「それが、涼宮さんが長門さんに――」

空白 『有希、あんたキョンに何かされたの?』
『何も』
『じゃあどうして手なんかつなぐ必要があるわけ?』
『その表現は不適切。手で彼の上着の袖口を掴んでいただけ。それに必要があってしたわけじゃない』
『じゃあどうしてよ?』
『したかったから』 
『……いい、有希? ほんとに知らないみたいだからいっとくけど、そういうのはちっちゃい子供か、付き合ってる人としかしないものなの。キョンと付き合ってると思われちゃうわよ? それでもいいの』
『べつに』
『そ、それじゃ有希、まるでキョンが……』

 という二人のやり取りの一部始終を話してくれた。ハルヒはいいさしたまま黙り込んでしまい、直後に古泉の携帯電話が鳴ったのだそうな。
 マウスボタンを乱暴にバチバチ叩く音がして、ハルヒが立ち上がった。OSの終了音が聞こえて、朝比奈さんが一層身を縮める。見ると、唇を噛んで俺を睨みつけるハルヒの姿。展開が理解できずにうろたえる俺を射すくめること暫し。
「キョン、あんた好きな人居る?」
 なんだ藪から棒に。しかし難しい質問だな。憎からず思っているというのなら当てはまらないでもないが、質問の意図とは多分違うだろう。リアルタイムで誰かに熱烈に恋焦がれているかというと特に居ないと思う。
「別に居ないが?」
 朝比奈さんがビクッと小さな身体を震わせ、長門が活字から目を上げる。
 ハルヒは呆然としている。何ともいえない空気が流れた。
「……そ、そう……居ないの」
 尻餅をつくように椅子に戻ったハルヒは、手すさびしながらふわふわした視線をさまよわせ名状しがたい複雑怪奇なる表情の変移を見せてくれたが、さっきほどの険悪さはなくなって毒気を抜かれたような顔をしていたので、何とか危機を脱することはできたようだ。俺も座るべきだろうか。ハルヒは帰るつもりなのかと思ったのだが。
 どうも気になるのは、さっきから長門が俺を貫くような目つきで見つめているのと、朝比奈さんが駆け込み乗車して電車のドアに挟まれた人を見るような目で俺を見ていることだった。俺、何かやらかしましたか?

なんというフラクラ。
2007/12/28