パーソナル・スペースIII
どうも俺は長門に対し妹にするのと似たように接していたらしい。だからそこに混乱が生じてしまったのだ。長門有希は殆どあらゆる面において現生人類を超えた能力を持っているが、人生経験が三年ちょっとしかないせいかどこか行動に予想外のあどけなさを垣間見せるときがあって――オセロのマグネットに驚いていたことなどがいい例だ――人の兄としての習性か、ついつい世話を焼きたくなってしまったり、抱きつかれたりしても他意のないものと解釈したりしていたのだ。 ところがそれは長門の正体を知らない第三者からは、真意とは異なる、いわゆる谷口的誤解を生じかねない行為をしているように見えるらしいのである。男女間の友情は成立すると信じかつ中学時代にはそれを実証していた俺には理解しかねるのだが、世の中には二人の男女が一緒に歩いていたり、異性に対し好意的な言動を見せることなどを即座に恋愛感情と結びつけてしまうような輩も相当数存在するようなのだ。まったく短絡的といわざるをえない。 あいつなりに団員たちを大切に思っているらしいハルヒの目にも、どうやら俺は内気で無口な文学少女にちょっかいをかける悪い虫のように映ってしまっているらしいが、前述のとおり俺には下心など毛頭ない。それは今までに何度かあった長門との際どいシチュエーション(つまり異性として意識せざるをえない状況)において、鉄の自制心を発揮して「その場の勢い」などという不埒な欲望からの陥落を免れつづけてきたことからも分かるとおりである。そもそも長門からすれば人類の力など芥子粒のようなもので、あいつが本気で嫌がることができる人間など存在しないはずなのだ。 だからこそ無防備な姿を見せ、黙って世話を焼かれているというのは、長門が俺に心を許してくれているという証左であって、二人の間には固い信頼関係が結ばれていると俺は信じているのだが。 ときに、パーソナル・スペースという言葉をご存知だろうか。簡単にいえば縄張りのようなもので、他人が侵入すると不快に感じる空間の範囲のことだ。一般的には本人を中心にした前後に長い楕円をしているらしいが、社交的な人物ほどその範囲は狭く、逆に内向的な人物は広いらしい。 ところが贔屓目に見てもとても社交的とはいえない長門は、家への道程をずっと俺の上着の袖をつまんだままという、ゼロ距離でくっついてきたわけで。勿論掴まっていなくてははぐれてしまうほどの人ごみを歩いているわけでもなく、これは俺への親愛の証と取るべきなのだろうか。妹が無意味にベタベタしてくるようなもので。 しかし、現実に長門は妹ではなく同年代(の容姿をもった)の異性なのであって、人にこんな姿を見られたらあらぬ誤解を招いてしまうのではなかろうか? 「誤解って?」 「いや、付き合ってるだのそういう類のだよ」 長門はちょっと俺に目を向けた。 「別に構わない」 おいおい、それは余りにも頓着しなさすぎなんじゃないか。そういえば谷口に誤解されたときも、そっちのいいわけより朝倉が居なくなった説明を気にしていたっけ。こいつはそういうことに興味がないのだろうか。冬休みにあった中河の件では、ちょっとは残念がっていたように思ったのだが。 そうこうしているうちに我が家へ到着した。顔を出した妹が、 「キョンくんおかえりー……あ、有希だあ!」 と長門に飛びつき、その騒ぎを聞いてお袋も出てきた。 「あらいらっしゃい。お腹空いたでしょう。ご飯の用意できてるわよ」 「……お邪魔します」 何と長門が敬語を使った。確かに他にいいようがない場面ではあるが、貴重なものを見させてもらった。しかも脱いだ靴まで揃えている。これだけで元を取れたどころではなく、遥かにアイスの価値を超えたといっていい。 感心しているとお袋が耳打ちしてきた。 「あんたは女の子ばっかり連れてくるわねえ」 偶然でございますお母様。そういえばこのあいだしれっと泊まりにきたときは親に何て説明したのだろう。お得意の情報操作だろうとは思うが、変な誤解をされても困る。一応いっておくが、長門は友達だからな? 「はいはい」 予想はできるが、何を考えているのやら。やれやれだ。 夕食は、すわカレーかと思いきやハヤシライスだった。長門もカレーに見えたらしく、一口目を食べたときの顔といったらなかった。俺が笑いを堪えていると、妹が「キョンくんどうしたの?」と訊ねてきたので、どうも俺にしか分からない程度のリアクションであったらしい。これでは俺だけ変な人じゃないか。 ちなみに長門は遠慮したのかお代わりは四回だけだったが、いつもながら惚れ惚れするほどの食いっぷりで、お袋もよく食べるのねと驚きつつも嬉しそうにしていた。そりゃあこれだけ気持ちよく食べてくれれば料理する側も作り甲斐があるだろう。 食後は妹を交えてテレビゲームなどをして過ごしたのだが、妹は長門に子犬みたいに懐ききっていて、鬱陶しいくらいじゃれついていたものの、長門の方も割合満更でもなさそうだった。毎日こんなに和やかだったらいいのに。 しかし楽しい時間はあっという間に過ぎるもので、気づくともう九時を回り、妹もうとうとしはじめていた。一人暮らしとはいえ、そろそろ帰らなくていいのか? 「えー、泊まっていかないのー?」 妹がごねる。無茶なことをいうんじゃありません。一般的な学生は明日は学校で、更に俺たちは無駄に体力を消耗するSOS団的日常が待っているんだ。大体そうポンポンと年頃の女子を泊められるものか。 「どうしてー?」 「どーしてもだ。なあ長門?」 「わたしは問題ない」 え。 「やったあ! じゃあお母さんにいってくるね!」 止める間もなく飛び出していった。騒々しく階段を下りる音が響く。 「えーとだな、どうする気だ?」 「あなたの家に宿泊する」 長門は「それが?」とでもいいたげである。もしかしてこいつはハルヒと同じで男をジャガイモかなんかとしか思っていないのではなかろうか。俺もきっぱり断れればいいのだが、長門に見つめられるとどうにも弱いのだ。「したいから」といわれたら止めがたいし、「問題ない」といわれれば返す言葉もない。俺の方には問題があるのだが、そのわけは長門の信頼を裏切るようで何とも説明しがたいではないか。 いやしかし、今回ばかりは俺の勘繰り過ぎかもしれん。この流れならきっと長門は妹と寝るのであろう。それにうちの親だって高校生の息子と同じベッドで寝かせたりはすまい、例え付き合っていたとしてもな。ここはミヨキチが泊まりに来たようなもんだと割り切ってしまおう。 妹がバタバタ戻ってきた。 「泊まってもいいって! それから早くお風呂に入っちゃいなさいって。有希一緒に入ろー!」 関係を誤解されるのも困るのだが、逆に年頃の男女という属性を全く気にされないというのも困りものだ。なぜすんなりOKするのかお袋。もしや何か情報操作したのか? 「少しだけ」 長門はちょっと目を逸らした。 「まあ……今更何もいうまいが。明日学校だが荷物とか着替えはいいのか?」 泊まるのは長門も想定外だった証拠に、長門は手ぶらでやってきた。いつもより早起きして一旦マンションへ戻るというのも手間だろう。着替えはパジャマ程度ならいいだろうが、下着は流石に俺のも妹のも貸せまい。長門のことだから衣服が全く汚れない可能性も充分考えられるが。 すると長門は俺の背後を指差した。振り返ると、ベッドの上に長門のものと思しき通学鞄が乗っていた。いつの間に。鞄を開けるとパジャマが出てきた。いつぞや見た喜――黄緑のチェック柄のものだ。下着はパジャマの間にでも――いや余計な勘繰りだった。 それを持って長門は妹と階下へ消えた。 やることもないのでベッドでゴロゴロしていたところ、うとうとしてしまったらしく、誰かに優しく揺すられて目が覚めた。妹もこうやって起こしてくれればいいのに。 「風呂が空いた」 湯上りのホカホカ長門だった。上気して健康的な赤みの差した頬と半乾きの髪が何とも艶か――何か雑念が入った。さっさと風呂に行って色々なものを忘れてこよう。是非。 湯船に浸かっていると「このお湯は……」などと危険な思考に脳を支配されそうになったので、慌てて頭を切り替える。KOOLになれ俺。別のことを考えよう。たとえば長門のこととか――同じじゃねえか。いや、同じでも考えようはあるぞ。何で俺の家に泊まりにくるか、とか。消去法でいくと、朝比奈さんは長門が苦手みたいだし、古泉はより考えにくいし、ハルヒのところに行ったら心休まる暇もなさそうだし――それで結局俺に行き着くのか? 長門も俺もお互いが落ち着ける場所になっているということなのだろうか。だったら嬉しいが。勝手な憶測にしても少し照れくさいな。 さてそれ以前に外泊する理由はなんだろうね。まだまだ寒い季節だし、人恋しいのだろうか。 「あいつらはもう寝た?」 「有希ちゃんが来てはしゃいでたからね、上がってすぐ寝たみたいよ」 歯磨きをしながら訊ねると、そう返ってきた。『有希ちゃん』? いつの間にお袋まで下の名前で呼ぶようになったんだ? 確かに俺が長門を呼ぶより妹の方が有希有希いっていたようだが。まあ大事な友人が親に気に入られるのは悪い気はしない。特に無口で誤解されやすい長門なら尚更だ。 「……で、なんでお前が俺のベッドに居るんだ?」 自分の部屋に戻ると電気が消えており、鞄だけ残っていたのでてっきり長門は妹の部屋に行ったのだと思ったのだが、蒲団をめくるとファラオのミイラみたいな格好で横たわっていた。長門は何でもない顔で、 「睡眠をとるため」 「そりゃあそうだろうが……親も知ってるんだしここで寝るのは色々問題が発生するんじゃないか?」 「問題は発生しない」 「妹と一緒に寝ていることに『なってる』とかそういうことか?」 「違う」 長門は上体を起こした。納得のいく説明を要求するぞ。 「わたしはあなたの妹と同い年の従姉妹ということになっている」 まあ実年齢は四歳くらいだが。 「そりゃまた凝った設定だが……それなら尚更妹と一緒の方が自然だと思うが?」 「わたしは年上の従兄弟であるあなたに非常に懐いているということになっている。口語的に言い換えれば、キョンお兄ちゃんが大好き」 「こっ、口語的にしなくてよろしい!」 それでお袋まで「有希ちゃん」とか呼んでたのか。何がこいつを突き動かしているのだろう。全く謎である。長門はベッドの奥の方にずれて、空いたスペースを手のひらでポンと叩いた。 「だからあなたと一緒に睡眠をとるのは自然なこと。あなたの母親も許可している」 俺は何かいうべきことがあるような気がしたのだが、様々な質問を頭の中でシミュレートしたところ、ことごとく脳内有希ちゃんに論破されてしまい、言葉を失くした。 「降参だ。好きにしてくれ」 長門は早く来いとでもいうように、もう一度蒲団をポン、と叩いた。 |
2007/12/21