パーソナル・スペースII

 肩やら腕やらが痛かったり重たかったりして目が覚めた。体温で温まっていて冷たくはないのだが、フローリングの上に直に寝るのはもうやめた方がよさそうだ。肉づきのいい方ではないから骨が当たる。
 長門に渡された本を読んでいるうちに眠ってしまったらしい。図書館のときといい、どうも居心地のいい場所で本を読んでいると眠くなる性分のようだ。世の中には読み始めると寝食も忘れてしまうような人もいるらしいが、俺がそこに属していないのは全く明らかだね。
 部屋の主も別な本を持ってきて読んでいたようだったが、親しい仲とはいえ花も恥らう女子高生の家に男が用もなく上がりこんで昼寝とは、迷惑も甚だしい。
 そういえばどうして暗いのだろうか。カーテンも閉めていないらしく、外から月明かりが差し込んできている。長門なら猫みたいにほんのわずかな光でも読書が続けられるのかもしれないが、余り想像したくない光景なので却下させてもらう。長門だって最近は実利主義一辺倒というわけでもないし、例えできたって電気くらい点けるだろう。
 様子を確かめようと起き上がりかけて、右腕の重みに気づいた。小さくて温かいものが腕に乗っかっていて、その延長が俺の身体に沿って一緒にコタツの中に続いている。寝ていると蒲団の中にシャミセンがもぐりこんでくるが、ここにシャミセンが居るわけがないので、その正体は必然的に、
「……長門?」
 暗さに目が慣れてくると、右腕に乗っているものが俺に背を向けた長門の頭であることが確認できた。すやすやと静かな寝息が聞こえる。
 状況を推測すると、俺が眠ってしまったあとそれこそ猫よろしく腕の中にもぐりこんできて一緒に眠ってしまったということだろうか。
 もしかしたら長門は猫だったのかもしれんな、ははは。
 現実逃避はこの辺でやめておこう。時間差で心臓が陽気なビートを刻みだす。こんな状況で平静で居られるのは古泉くらいのものだろう。おお、あのニヤケ面を思い出したら冷静になってきたぞ。コンフューズでなくエキサイトの方だったら素数よりも効くかもしれない。授業中に意味もなく某所が充血してしまったときにでも試してみよう。サンキュー古泉。
 とはいえ、ここで俺が色々と考えを巡らせたところで、現実に長門有希が腕の中で寝息を立てているのは動かしがたい事実なのであって、近頃自分の理解の及ばない出来事は考えてもより混乱して事態を悪化させてしまう場合があることを悟っていた俺は、人の頭の中のことなどという、到底関知できない問題は置いておくことにした。訊いたって「したかったから」とか答えるに決まってるんだ。当座は問題を長門を起こすか起こさないかの二択に絞ることにしよう。
 ともかくもこの状況を何とかしないと、俺にぴったり沿ったしなやかな肢体のせいで理性さんがサボタージュを始めかねない。起こそう。
「長門、起きてくれ」
 自由な方の手で肩を揺すると、長門はもぞもぞ動き出してこちらへ向きなおった。
「すまん、起きたか?」
「…………」
 もしかしたら俺は事態を悪化させてしまったのだろうか。長門の頭は俺の二の腕辺りに乗っていたので、向かい合うと顔が触れ合わんばかりの距離になってしまうのである。どうやら目覚めはしたらしい。十センチくらい先にある二つの漆黒が見つめてくるので、俺はできる限り首を反らした。
「その……だな、寝ちまって悪かったな。ところでその……何やってるんだ?」
 動揺が帰ってきたらしく無意味な質問をしてしまった。対する長門も簡潔に、
「腕枕」
 とひと言。
「あるいは、抱き枕」
 背中に腕が回される。そういえばお前こないだ抱き枕買ったなあ。やっぱり悪化してるよなあコレ。いや、それ自体が悪いことではなく寧ろイイのだが、色々すっ飛ばしたこの状況はこの上なくまずいだろう。
 ところで唐突だがヴィーナスの蝿取り器という罠をご存知だろうか。落とし穴の上に櫛様の鉤爪が両側から互い違いになるように設置してあり、抜こうとすればより食い込むという凶悪な罠である。ネーミングはいささか意味不明であるが、恐ろしい効果を持っていることは間違いない。
 どうしてこんな話をしだしたかというと、一瞬だが何をしても無駄なのかなあという無気力な考えが頭を過ぎったからである。危うく呑み込まれるところだった。
 リラックスしているところ申し訳ないが、ここは心を鬼にせねばならないところだ。ある意味では長門のためでもある。
「悪い、腕が痺れてきたからどいてもらえないか?」
 事実痺れてはいるのである。長門は不承不承といった様子ではあったものの、
「そう」
 と身体を起こしてくれた。俺も起き上がる。やれやれ。どれくらい寝てしまったのだろうか。携帯電話を取り出すと、長門が電気を点けてカーテンを閉めた。何ともう夜七時であった。コタツの魔力は恐ろしい。硬いフローリングの上で五時間も寝てしまったようだ。
「ごめんなさい」
 気づくと長門が傍らに立っていた。何のことだ?
「腕」
 ああ、別にこれくらい平気だぞ。気にするな。
 長門は俺の右腕に手を伸ばした。痺れたところを触られるあの名状しがたい感覚を思い出し、反射的に避けようと身をよじったのだが、反応速度で敵うはずがなく、あえなく捕まった。しかしビリビリとはこない。長門が手を添えた場所を中心にして右腕の痺れが取れていく。血行を促進させるか何かして治してくれたらしい。
「おお、ありがとな」
「いい。わたしの不手際」
 さて、こんな時間だし腹も減ってきたし、そろそろ帰るよ。突然来て悪かったな。
「そういや長門、夕飯はどうするんだ?」
「特に決めてない」
 出来合いのものでも買ってくるつもりだったのだろうか。レトルトカレーの缶詰でもストックしてあるのかもしれない。毎度毎度気持ちいいくらいの健啖っぷりを見せてくれる長門だが、より美味いものを食べようとかいう気持ちはないのだろうか。料理は上手なのだというし、レトルト食品よりも自炊した方が遥かに美味いし栄養も勝っているだろうに。
「……単独での栄養補給には関心を持てない」
 翻訳すると一人で食べるのは寂しいということだろうか。確かに俺ももし一人暮らしを始めたとして、自分一人のために料理する気にはなれないかもしれない。今だって両親が留守にしているときなどは、妹が居れば何かしら簡単なものでも作るが、一人だったらカップラーメンで済ませてしまうだろう。
「よかったら家に食べに来ないか? 今親に訊いてみるからさ」
 頷いたようだった。家に電話して確認すると、一人分くらいだったら大丈夫とのことで、二人して帰路についた。

2007/12/18