インターフェースは白雪姫に憧れるIII

 質問は山ほどあったのだが、当分は黙って座っているしかなさそうだった。七〇八号室を訪れると、黒っぽいノースリーブのワンピースと白いブラウスに着替え、その上にエプロンをつけた新鮮な姿で出迎えてくれた長門は、座って待ってて、と告げて朝倉と共にキッチンへ引っ込んでしまっていた。
 いつ来てもシンプル極まりない部屋にはいまだに時計はなく、かといって携帯電話で確認する気にもならず、取りとめもない無数の疑問を頭の中でぐるぐる攪拌していたので、正確には分からないが、二三十分もしたころ美味そうな匂いが漂ってきた。
 和食らしい。少なくともカレーの匂いはしない。不安にキリキリしていた胃も結局は育ち盛りらしい正直さを発揮し、食事を期待して蠕動運動を始めている。空腹は最高のスパイスだ、などというと流石に二人に対して失礼だろうか。長門は料理が上手いらしいし、朝倉のおでんも味は覚えていないが不味かったという記憶はない。
「おまたせ!」
 やがて二人がにこやかに登場した。悪意など全く感じられないのに、違う意味で二人とも心臓に悪い。
 テーブルの上に広げられたのは、銀ダラの煮付けに、レンコンとニンジンのきんぴら、カブと油揚げの味噌汁という、今までを思えば実に家庭的なメニューだった。正直にいえば大変美味そうである。ついでにいうと大鉢に盛られたおでんもあった。大根に味がしみるような時間は経っていないと思っていたのだが。俺は浦島太郎か。
「あ、これね。待たせちゃ悪いと思ってちょっとズルしちゃった」
 俺の瞬間的に泳いだ目から察したらしく、うちの妹がよくやるように「てへっ」とやる朝倉である。安心しろ、俺はこの一年余りの間に気になっても余計なことには触れないスキルを身につけたんだ。
「わたしはゴマを買ってきてって頼んだだけだったんだけどね」
 そういって長門はきんぴらを指差した。白ゴマが振ってある。エプロンを外して俺の向かいに腰を下すと、眼鏡を直した。この光景だけ切り取れば去年の五月の再現であるが、長門は私服だし穏やかに微笑んでいるし、斜め前には朝倉が座っているのである。
「おかずがもう一品あったらいいかなと思って。さ、いただきましょ?」
 更にいえばこれは十二月の再現でもあるわけだ。どちらかといえばそちらの方が共通点が多い。眼鏡、微笑、おでん、朝倉。違うのは針のむしろで砂を噛んでいるような事態にはならず、油断ならないと第六感が告げることからくる不安に似たわだかまりが、若干俺を落ち着かなくさせていることくらいで、それなりに楽しく二人の料理を味わうことができた。
「このお魚美味しい。何か変ったもの入れた?」
「気づいた? 何だと思う?」
「そうねえ、微かに果物みたいな酸味があるんだけど……キョンくん分かる?」
「梅干か?」
「正解! よく分かったね。お母さんも使ってた?」
「そんなような気がする」
「この煮汁ご飯にかけると美味しいのよねえ。おかわりしちゃおうかな」
「ダイエット中じゃなかったの?」
「う、それは……」
 会話だけ拾ってみると何とも和やかな食事風景なのだが、実際のところ水面下で張りつめた緊張が今にも破裂しそうというわけでもなく、事実和やかな食事風景だったから、困りものである。
 いや別段困るわけではないのだが、たった三日間のこの設定は全く安全なもので、何も気にせずイフの世界を楽しんでいいといわれても、そこかしこに言い知れぬ違和感を覚えてうずたかく蓄積した疑問を腹に抱えた俺は、この束の間の団欒にどうにも収まりの悪さを感じてならないのであって、詰まるところ素直に楽しめないから困っているわけだ。
 さきほどから質問のチャンスを窺っているのだが、いつまで経っても切り出せないでいる。長門が説明してくれさえすれば、黒が白だといわれたならともかく、黒が灰色くらいなら四の五のいわずに信じ込めるのだが。
 食事は大体済んで(今更気づいたが二人とも常人の一食分しか食べていなかった)、ご馳走になったから食器を洗おうと申し出たのだが、お客さんだからと断られ、また一人リビングに置いてけぼりになってしまった。出されたお茶を啜りながら、お盆の上に置かれた急須と伏せられた二つの湯呑を眺めると、食事中の二人の明るい笑い声が思い起こされた。見た目が似ているわけではないのだが、俺には楽しげに談笑する長門と朝倉の姿がまるで仲の良い姉妹のように見えた。「あのとき」も朝倉は長門を気遣っていたが、これもまた長門の望んだシナリオなのだろうか。あるいは消えてしまう前の朝倉も、長門のために食事を作ったりしていたのだろうか。
 食器を洗う音と時折漏れてくるクスクス笑いをBGMにして物思いにふけっていると、朝倉が出てきて、それに長門がエプロンで手を拭きながら続いた。
「じゃあ、私は帰るから。お邪魔しちゃってごめんね。ごゆっくりどうぞ」
 朝倉はにっこり笑って、じゃあね、と出ていった。
「さて」
 長門は俺の向かいに座った。
「何から話そうか」
「えーと」
 質問すべきことが沢山あるはずなのだが、どれから切り出していいやら。何かがノドに刺さった魚の骨のように引っかかっている。ああ。
 やっと今になって思い至ったが、今朝の長門には若干説明不足なところがあった(それでも「以前」に比べれば想像を絶するくらい話してくれはしたのだが)。それは、何のために「実験」が行われているかということについてだ。まさか長門がそうなりたいからという理由でこんなことをするはずがあるまい。何かの会社で単に自分がやりたいからという目的で企画を持ってきた奴がいたとして、俺がそいつの上司だったらまず受けつけない。多分長門の上司もそうであろうから、こいつの「変化」は目的ではなく手段であるはずだ。
 長門、引いては情報統合思念体の目的はハルヒを通して自律進化の可能性を探ることなのだから、目的はやはりハルヒの反応を観測するために行われるのだろうか?
「簡単にいえば、そう」
「だが『主流派』ってのはただ静観しているんじゃなかったのか? だからこそ直接介入してまで変化を起こそうとした朝倉が消されちまって……まあ結果的に俺が助かったんだが」
 俺は朝倉が出ていった玄関の方向に目をやった。
「あれは……ううん」
 つられたように同じ方を見た長門は、何かいいよどんで首を振った。
「……確かに『主流派』の意図は静観の立場を保つことにある。それは今も変ってない。けれどここ最近涼宮ハルヒの環境改変が漸減傾向にあるのも事実で、閉鎖空間の発生率も目に見えて減少してる。もしかしたら四年前に見られたような大規模な情報フレアは二度と観測できず……涼宮ハルヒからその力が失われるのではないかと統合思念体は危惧しているの。そうすれば彼女から自律進化の道を模索することはできなくなるから」
 長門のいうとおり、佐々木たちとの一件以来、ハルヒはまた大人しくなりつつあるし、かといって何か不満を溜めこんでいるようにも見えず、古泉が急にアルバイトに駆り出されることも大分減ってきたようだ。
「ハルヒが現状に満足しつつあるってことか?」
「そう……変化を望むのは現状に不満があるからこそでしょう? あるいは外的要因によって変化の必要に迫られたとき。戦争が起こると技術が進歩するっていう話を聞いたことない?」
 インターネットも元は軍事用だったと聞くしな。
「だから統合思念体も、可能性の消滅を黙って見過ごすくらいなら、彼女に少々の『揺さぶり』をかけてもいいと考えた。つまり彼女に戦争――いえ競争をさせる。ただし慎重を期して制限つきで、だけど」
 急須に残った冷めたお茶を一口飲んだ長門の顔には、まさに茶飲み話でもしているかのような気楽さがあった。ジリ貧だのどうのいっていた朝倉も同じように何でもない顔をしていたが。しかし競争とは?
「その揺さぶりとやらが、お前なのか?」
「そういうこと。わたしは涼宮ハルヒの競争相手になることにしたの」
 例え話が生きるか死ぬかだっただけに一抹の不安があったのだが、長門が相手になるのだというのだから、どうやら生存競争の類ではないようだ。
「で、何の競争相手なんだ?」
「それを教えたらたぶん、あなたが持っているはずのもう一つの疑問の答えにもなると思うけど」
 長門はおどけた仕草で肩をすくませた。
 もう一つ? 疑問は一つどころではないのだが、今の質問に関連しそうなことで俺が当然疑問に抱くようなことといったら、何だろうか。朝倉は余り関係なさそうだし、眼鏡をかけている理由なんて全く埒外だろう。
「ああ、質問の途中だが、疑問といえば長門、『変った』のはお前だけだと今朝いっていたが、ここのハルヒはどうなってるんだ? 正直状況がよく掴めないんだが」
 長門は眉根を寄せた。
「あそこまでされて、本当に分からない?」
 呆れたような声である。いや、すまん。何となく分かりかけてはいるのだがどうにも信じがたいというか……。
「分かってるんだったら、何を賭けての競争かも分かると思うんだけどなあ」
 その心は?
 負けじとばかりに眉を八の字にした俺に対し、頬杖をついた長門はまたいたずらっぽく口元を歪ませた。俺は目を合わせられない。
「あなたを賭けて」
「……マジか」
「マジ」
 今俺がどんな表情をしているかは鏡がないから何ともいえないのだが、少なくともそれが一笑に値するものであることは、長門の表情からも見てとれる。年末の隠し芸はこれにしておけばよかった。
「お前確か、変わったのは自分だけだったいってたよな?」
「『変えた』のはね」
「じゃああのハルヒは一体どうなってるんだ?」
 そうだ、あれではまるで。
「どうって?」
「……あれじゃあ、あんな様子だと……あいつ俺のことが好きみたいじゃないか」
 抜け駆けだとか手を握られたりだとかの不穏な言動からおおよそ察しはついていたのだが。ああいった諸々は「元の」ハルヒだったら絶対にしない、それはつまり情報改竄があいつにまで及んでいるということではないのか?
「冗談でいってるわけじゃ……ないんだろうねえ?」
 長門は「あなたという人は」と呆れ声を出すときの古泉と同じような顔でため息をついた。俺は何だか悪いことでもしているような気分になる。
「鈍感だとは思ってたけど、まさかほんとに気づいてなかったんだ」
「ちょっと待て何の話だ」
「じゃああの閉鎖空間でのことは? どうして『SLEEPING BEAUTY』が脱出のキーワードになったんだと思ったの?」
 だからあれは思い出したくないんだって。
「いや、単にそういうお約束なのかと……おい待て、するとアレか?」
「アレだね」
 その代名詞が表すものはつまり、今までの色々な局面における種々様々な意味合いが変わってきてしまう重大な事実なのだが。
「涼宮ハルヒは『元から』あなたことが好きだった」
 絶句という言葉は極めて端的に今の状況を表している。数々の素晴らしい熟語を遺してくれた先人たちに感謝したい。以前何人もの人間から宣告された無自覚の「ハルヒの鍵」という俺の役割はそういう意味だったのだろうか。俺があいつに「選ばれた」というのも? いやまさか? だがしかし? 一時期誰とも没交渉的だったハルヒは俺との会話にだけは応じたし、そのせいであいつの部活作りに協力させられて――そのことを指して「選ばれた」と称せられるに至ったのかと思っていたのだが。そうすると何度席替えしても必ず前後で一緒になるのもあいつが望んだからなのだろうか。しかし話しやすい奴が近くの席になればいいというのは大概の人間が思うだろうことであって、それをいったら谷口だって五年目の同じクラスを迎えているくらいだから席替えのそれだって偶然の範疇から抜け出しえないのではなかろうか。それくらいのことであいつが俺にそんな感情を抱いているなどという……。
 だめだ、考えがまとまらない。
「……その件は保留にしておくというのは可能だろうか」
「何の解決にもならないと思うけど?」
 まあ期限もあることだしな。
「いや、いや。一万歩譲ってそのとおりだとしよう。そのとおりだとして、どうしてこっちのハルヒはソレを大っぴらにしてるんだ?」
「それは勿論、わたしが宣戦布告したから」
 つまりさっきの話に戻ってくるということか。
 長門は頷いた。
「彼女自身は何も変わっていない。ただわたしが挑発しただけ。そのあとは意外と素直だった。あんなに意地っ張りだったのにね。それだけわたしが脅威に思えたなら光栄だけど」
 相手が俺だというのはさておき、どこかのバカがAマイナーだとかいっていたものの、確かに長門なら外見的なことのみならず充分ハルヒの競争相手たりえるだろう。その上に今の長門は「誰にでも好かれる朝倉の性格」まで備えているのだ。ちゃんと良い面も知っている俺たちならともかく、自身の世間的な評価を――「見た目だけなら」などという不届きな評価をよく理解しているハルヒにはさぞ脅威に思えたに違いない。
 しかしここで更なる疑問が浮上して、俺は顔をしかめた。
「まあそのことは置いといて(ものを横にどけるジェスチャー)、長門よ、その場合お前の気持ちはどうなるんだ? 与えられた任務だからって、そんなの納得できるのか?」
 まっとうな疑問だと思ったのだが、いい終わらぬうちに長門はお手上げだというように天を仰いだ。視線が約四秒の遊覧飛行を終えて俺に帰ってきた。
「……今更驚かないけどね」
 それは俺の持ちネタだ。
「わたしこそ自分の感情に素直になっただけだよ」
 これも抜け駆けに入っちゃうのかな、と長門は目を細めた。
「……聞いてるとお前も元から俺のことが好きで、かつ俺が空前絶後の鈍感だったために全然気づかなかった、という風にとれるんだが」
「なんだ、分かってるじゃない」
 俺にモラトリアムはないのか。記憶にある限り人生初の告白を受けたわけだが、体育館の裏に呼び出されるとか分かりやすいシチュエーションでなら予想がつく分心の準備ができるだろうが、別にそんな雰囲気になったわけでもなく単に異常事態なのでその道のスペシャリストに状況説明を聞きにいったら愛の告白である。何事だ。
 長門は目を伏せて、上げて、はにかんで、笑った。
「ずっと好きだった」

2007/12/18