インターフェースは白雪姫に憧れるII

 詳しくは後で、と目配せする長門と別れ、何の話をしていたのかというハルヒの追求に適当な言いわけを塀のごとく並べ立てながら教室に入ると、俺はまたしても信じがたいものを目撃することとなった。
 辛うじて表情を押さえ込むことに成功する。やるじゃん俺。わけの分からない状況に対してどれだけ耐性がついてきたかがよく分かった。一瞬驚くものの、「またかよ」と某ハリウッド映画に出てくる頭の薄いスーパー刑事のような慨嘆が漏れ、すぐに諦観めいた落ち着きが帰ってくる。そんな自分が逆に恐い。
 果たして、振り返った朝倉涼子がニッコリ笑って手を振っている。反対の手に持っていたシャープペンがナイフに見えた。重ね重ねぞっとしない。
「なあ、朝倉って風邪で休んでなかったっけ?」
「何いってんの? 一年のときから皆勤で有名じゃない」
 ちょっとはぐらかした質疑応答から察するに、朝倉は去年突然カナダに引っ越したりせずにずっと同じクラスに居るという設定らしい。今回は事前に予備知識もあることだし、ずれた言動で周囲に妙な目で見られたりしないように気をつけよう。鶴屋さんに捻り上げられるような真似はもうしたくないからな。
 ただ朝倉に関しては長門からの説明が何もなかったのが気になるところだ。さっきは途中でハルヒに会ったので話しそこねたと見るべきなのだろうか。仮に長門が関知していなかったとしても、こんなところでいきなり刺されたりはするまいが、念のためあいつと二人きりになるような状況は避けるべきだろう。それに長門は一般人ではなく高性能アンドロイドのままだし、長門に頼るのは不本意だがいざとなれば何とかしてくれるだろう。流石に宇宙人の襲来までは堂々たる一般人には対処しようがない。
 授業中、ハルヒは相変わらず俺の背中をシャープペンの先で突っついてきたりと、色々ちょっかいを出してきたが、「元の」ハルヒより何となく力がこもっていないというか、いわば猫が甘噛みしてくる程度のものでしかなかった。
 ハルヒには悪いが、不気味だった。背中をつうっと指でなぞられたときなどはどうしてくれようかと思った。危害を加えられるのには慣れているのだが、こういうのは何か裏があるようで空恐ろしいものを感じる。取調べ中に強面の刑事から優しげな刑事に交代したような、そんな胡乱さである。様子を窺うと窓に映ったハルヒと目が合って――微笑まれた。
 今朝がた長門は何といっていた? 勝負は平等な方がいい? 一体何の勝負か、ということは、日頃からいかに鈍い鈍いといわれる俺でも何となくは分かるのだが。分かるのだが分かりたくないというか。この世界は期間限定の設定のはずだが、これは現実逃避に当たるのだろうか。
 そもそも長門は、ハルヒは何も変わっていないといっていたように思ったのだが。こんなハルヒは俺の知っているハルヒではないぞ。後できちんと説明してもらいたい。
 昼休みになると早速、長門に説明の続きを聞きにいこうと思ったのだが、
「どこに行くのよ?」
 とハルヒにとっ捕まり、一緒に弁当を食うことになってしまった。泣く子とハルヒには勝てないというが(いうよな?)、今まではネクタイやら首根っこやらを掴んで強制してきたところを、このハルヒ様は俺の袖を軽く引っ張って口を尖らせてみせるのである。この敗北は俺の責任ではない。と思う。
 正直なところ、不穏な企み笑いでなく、輝かんばかりの屈託ない笑顔を見るのは悪い気分ではなかったのだが。
 放課後になっても、トイレに行くとき以外は四六時中ハルヒが側を離れなかったため、長門に質問する機会には恵まれず、ハルヒが席を立った隙にようやく、解散後にマンションを訪問する旨を伝えられたのみであった。古泉や朝比奈さんにもこのことを相談すべきだろうか。特に危機的な状況とはいえないのだが、一応その可能性も胸に留めておこう。
 その日の部活――団活は、これといって特別なこともない日常の一ページといった感じだった。ただ長門だけが違っていた。基本的に本を読んでいることは変わらないのだが、時々ハルヒに呼ばれてパソコンを見にいったり、俺に代わって古泉とオセロをしたり、朝比奈さんとお茶の話で盛り上がったりと、「元の」長門に比べれば信じられないくらい活発だった。
 そして何より、よく笑っていた。朝倉の性格を転写したといっていたが、確かに誰とでもそつなく仲良くしているところを見ていると、消えてしまう前の朝倉を彷彿とさせる部分がある。だがそんな姿が心から楽しそうにしているように見えるのは、俺の欲目なのだろうか。それに上手く説明できないが、全く朝倉と同じというわけではなく、言動の端々に長門らしさとでも呼ぶべきものが顔を覗かせていたように、俺には思えた。
 しかし俺はそんな長門を見てなぜか、居た堪れないものを感じていた。

 皆と別れたあと、少し遠回りして長門の部屋へ向かっていると、携帯電話にメールの着信があった。長門からだった。どうやら携帯電話も持っている設定のようだ。内容はといえば、長門が夕食を作るから家に要らないと連絡しておくように、というものだった。長門に気を遣われるとは、やはり落ち着かない。
 家に電話をかけたあと、もうすぐ長門のマンションというところで俺はぎょっとして立ち止まった。
 長い髪のシルエット。朝倉涼子である。手には、無骨なアーミーナイフの代わりにスーパーの買い物袋がぶら下がっていた。
「こんばんは。キョンくん」
 知らない者が見ればころっと参ってしまいそうな魅力たっぷりの笑みも、俺には剣呑な光を湛えているようにしか見えない。二度まで自分を殺そうとした奴を信じろという方が無理な話だ。何より今もこいつに関してはまだ長門から何の説明も受けてないし、まさかとは思うが長門が朝倉の復活を関知していない可能性だって否定できないのだから。
「……よう。お前も長門と同じマンションだったっけ?」
 黙っていても「設定」いかんによっては不審に思われるかもしれないし、答えないわけにはいかないので、俺は至極普通に返した。しかし拭いきれない不信感が知らず知らず顔に現れてしまっていたらしい。
 朝倉はくすくす笑った。
「恐い顔。別にもう刺したりなんかしないよ? 折角戻ってきたのに一日目で消されちゃうなんてごめんだもの」
「つまりお前は……お前なんだな?」
 変なトートロジーを使ってしまったが、「設定」は狭められたようだ。こいつは去年の春に長門に消された方の朝倉涼子であるらしい。
「そうだよ。それに信じてくれないかもしれないけど、あれは仕事で仕方なくやったんだから。私自身はあなたが死のうが生きようが、それほど興味はないの。まあ、強いてどちらか選ぶなら、生きてるあなたの方が興味あるかな? だって有機生命体は肉体が消滅したら、存在自体が消滅してしまうんでしょう? 観測できないなんて無意味だもの」
「そりゃあどうも」
 しかもどうやら、俺の前でクラスの人気者を演じるつもりはないようだ。隠されるよりは率直な方が助かるが、実に不穏だ。朝倉はまたにっこり笑った。
「信用できないって顔ね? 別にいいけど。さっきのは冗談よ?」
「何がだよ」
「刺したりしない……ってこと」
 血の気の引いていく音が聞こえる気がした。俺は思わずあとずさった。逃げるべきだろうか。無駄な抵抗かもしれないが、三度目はもう嫌だ。
「っく、プッ、その顔!」
 朝倉はニヤニヤ笑っていたかと思うと、突然噴き出した。
「ふふ……何か勘違いしてない? まあ、わざと勘違いさせるような言いかたしたんだけどね! やっぱりあなたって、面白い」
「何なんだよ!」
 自分の知らないことでバカにされているようで何だか腹が立った。朝倉は暫くの間ヒイヒイいいながら腹を抱えていたが、やがて涙を拭って顔を上げた。
「怒らないで。刺さないのが冗談、じゃなくてその話自体無理ってこと。あなたに危害を加えようとすれば、即時有機連結が解除されちゃうの。そもそもそんなことは思いつかないように『なってる』しね」
「今更信用できるかよ」
「そんなこといわないで。私悲しいわ」
 朝倉は首を振ると目に手を宛て、顔は笑ったまま泣き真似をした。こいつはこいつでどこか以前とは違っているようだ。感情が激しすぎる。人前ではセーブしていただけで、これが本来の性質なのかもしれないが。
「大丈夫、長門さんは私のことを知ってるわ。だって私をバックアップとして復活させたのは長門さんだもの」
「長門がか?」
「そう。ついでだからいっておくと、私は今は『急進派』には所属していないの。操り主は長門さんと同じ『主流派』だよ。だから『主流派』が意見を変えない限り、あなたに危害が及ぶことはまずないといっていい。まあどんなことがあっても、長門さんがそれを許しはしないだろうしね」
 統合思念体の思考の派閥というのはあくまで例え話と思っていたのだが、朝倉の話を信じるなら、会社の部署みたいに変更が利くようなものだったのだろうか。
「どういう意味だ?」
「言葉どおりの意味。分かりにくかった? そうね、コンピュータのプログラムに例えてみましょうか。例えば、あるプログラムをインターネット上のサーバからダウンロードしてきて、ある端末にインストールするとするでしょう? あのときの私は情報統合思念体というサーバから『急進派』というユーザの端末にダウンロードされたプログラムだったの。それを、長門さんに強制的にアンインストール……有機連結情報を解除されてしまったというわけ。
 一つの端末にあるプログラムを削除したとしても、それはコピーだから元のサーバにあるプログラム自体は消えないでしょ? そこで今度は別のユーザ……『主流派』が私をダウンロードしたの。意志があるのはプログラムではなくユーザだから、私のユーザが『主流派』である限りは私の行動は『主流派』の意志に完全に依存しているっていうこと。
 まあ細かいところは色々違うんだけど、簡単にいったらこんなところかな」
「つまり道具は使う人次第っていいたいのか」
「そういうこと……ふふ、ごめんね。肉体を持ったのなんて久しぶりだから、長く喋りすぎちゃったみたい。さ、長門さんが待ってるから、早く行きましょ」
 朝倉はそういってマンションの入口へ歩き出した。自分でいっておいて忘れていたが、そういえばこいつは長門と同じマンションだったっけ。同じエレベータに乗らなければならないのだろうか。もしくは、あまつさえ、買い物袋の中身はまさかおでんの具材で、まさか長門と一緒に作って振舞ってくれるとでもいうのか。危害が及ばないにしても、こいつと顔を合わせているのはどうにも精神衛生上よろしくないのだが。理性が納得したとしても、本能が拒絶するのである。
 均整のとれた後姿を見ていると、朝倉は振り返り、ついてこない俺の視線の推移に気づくと、買い物袋を持ち上げて示した。
「ああ、これ? 長門さんに頼まれてたものもあるけど……ひょっとして私に側に居られたくない?」
 有り体にいってしまえば、ないな。
「大丈夫、二人をお邪魔するつもりはないから。あなたが嫌だったらすぐに帰るけど……一人で食べるご飯って美味しくないんだけどなあ」
 ひょっとして俺はとんでもない女たらしなのではないだろうか。悲しそうな顔をして見つめられると、俺を二度も殺そうとした相手にすら何もいえなくなっている自分が居る。いや、今のは言葉が悪かった。無用な誤解を与えかねん。いい換えれば、俺はとんでもないお人よしなのだろう。大体の場合が誰に対しても押し切られがちだからな。
 七〇八号室で出迎えてくれた長門は、そわそわしている俺とニコニコしている朝倉を見比べ、ちょっと意地悪そうに笑った。

2007/12/09