インターフェースは白雪姫に憧れるI
いつもどおりの朝が、実はその後襲いくるノンストップなる常識外れの非日常の幕開けだった――そんなことはごくごく平凡な一般人たる俺には起こりうるはずはないし、今までもなかったし、これからもない、フィクションの世界でのみ発生する夢物語に過ぎない。一年前まで俺はそう思っていた。 高校に入学しそれなりの日々をそれなりに楽しむはずだった俺は、どういうわけか(当時知るすべはなかったが)無意識下で自分の思いどおりに環境を改変してしまう、などというトンデモパワーを持った涼宮ハルヒに出会い、どういうわけか一緒にSOS団なる怪しげな団体を作ってしまい、その後立てつづけに実は宇宙人、未来人、超能力者であったという団員に正体を明かされ、それぞれ証拠すら見せつけられ、あまつさえ殺されかかり、過去に戻ったり夏休みを一万五千回ほど繰り返したりと盛り沢山な常識外れな非日常のフルコースを腹十二分目まで、フォアグラにされるガチョウがチューブでエサを無理矢理流し込まれるみたいに経験することとなってしまった。 フォアグラと唯一違うのは、俺が差し出されたチューブを自ら銜えてしまったということだ。何のかのと諦観気味な溜息をもらしたところで、俺もハルヒのように非日常の世界へ足を突っ込みたくて堪らなかったということなのだろう。それが望みどおりの形ではなかったとはいえ。 そして、未だ記憶に新しい、おそらく一生忘れることのできない事件が、去年の十二月に起きた。 朝起きたらハルヒが消え、世界から、こっそり存在する「常識外れの非日常」もまた跡形もなく消えてしまった。それはエラーの蓄積によって異常動作を起こした有機ヒューマノイド・インターフェース長門有希が、ハルヒの世界改変能力を利用して作り変えてしまった世界だった。その世界では長門自身もまた、ただの内気な文学少女に変わってしまっていた。 長門が異常動作を起こす寸前に俺に残した脱出プログラムによって、何とか元の世界を取り戻すことができたのだったが、その事件は俺に、自分の中のハルヒという存在の大きさと、万能と勘違いし長門に頼ってばかりいた俺の愚かしさをまざまざと見せつけてくれた。 もう絶対にあんなことは起こさせない。そう誓った。 「キョンくんおーきてー!」 目覚まし時計の存在を記憶の片隅から蹴り飛ばしたころに、妹がベッドに、というか身体の上に飛び乗ってくる。頼むからもう少し優しく起こしてくれないか。まあその場合はきっと俺は学校に遅刻すること必至だから、折衷案を模索してみようじゃないか。 明け方近くに見ていた夢が原因なのか、頭がはっきりしないまま支度を済ませて玄関に立つ。夢の内容は、夕日に照らされた朝倉の笑顔とか、血まみれの長門とか、ブレザーを着たハルヒの仏頂面だとか、一年ぶりに出会った佐々木だとか。殆ど去年のおさらいだった。ハルヒを中心にして台風のように過ぎ去った一年だった。 眼鏡をかけた長門の、はにかんだ微笑が過ぎり、腹に何か熱いものがこみ上げてくるのを感じた。効果を期待せずかぶりを振ると、期せずして無感情な、それでいて強い意志を感じさせる眼差しが現れてそれを追い立てた。 今更何が起こったって驚かないだろうが、あんな世界だけは二度とごめんこうむりたいね。 玄関を出ると、そこに見慣れた姿があった。半端にシャギーの入った後頭部の、ほっそりした後姿が、玄関の前に立っていた。珍しいこともあるもんだ。 あるいはまた怪しい事件でも起きつつあるのだろうか。声をかけようとすると、俺の気配に気づいてそいつが振り返った。 「おはよう。キョンくん」 そういって、眼鏡をかけた長門有希が俺に微笑んだ。 『インターフェースは白雪姫に憧れる』 どうもぼんやりしていると思ったが、まだ夢の続きだったのだろうか。あのとき感じた眩暈がまたしても俺を襲う。ここは定石どおり頬の辺りをつねってみるべきだろう。 「何やってるの?」 痛かった。 「長門……お前」 いうべき言葉が見つからない。語彙はそこそこに広いつもりだったが、今のこの感情は動揺だとか困惑だとか、そんなありきたりな熟語では到底語りつくせなかった。まさかこれはあの十二月の再現なのか。春の空気はもう暖まりつつあるというのに、薄ら寒い思いに駆られた。心臓がズキンと痛む。 俺はまた長門を追いつめてしまったのか……? 余程変な顔をしていたのだろう、「そいつ」は「あのとき」の長門ですら見せなかった、小鳥のような笑いを漏らした。 「大丈夫だよ。あのときとは違うから」 長門はそういっていたずらっぽく笑い、俺の脳はぐらぐら揺れる。 「違うって……! 長門、お前はどの長門なんだ!? 俺の、俺たちの世界の長門なのか、それともまさか……」 「驚かせちゃってごめんね。でも安心して。わたしはこの銀河を統括する情報統合思念体によって作られた、対有機生命体コンタクト用ヒューマノイド・インターフェース……あなたの知ってる長門有希に間違いないから」 まるで悪ふざけが成功した子供のようにクスクス笑いながら、長門は俺の手を取った。 「詳しくは歩きながら。学校に遅れちゃうからね。そんな顔しないで、今までみたいに説明不足のまま振りまわしたりはしないから」 暫くの間は、と長門は苦笑いみたいな顔でつけ加えた。俺はといえば口を開いても出てくるのは空気ばかりで、何もいえずに促されるまま歩きはじめた。 「この改変は限定的なものなの。時間の上でも範囲の上でもね」 横を歩く長門をまじまじと見る。無遠慮だとかそういう気遣いは頭から消し飛んでいた。こいつが本当に、俺の知っている、あの長門なのか? 「改変といっても、涼宮ハルヒの力を使っているわけじゃないし、極めて小規模な情報改竄なの。涼宮ハルヒは改変能力を持ったまま北高に在籍して、あなたと一緒にSOS団を作っているし、そこには勿論朝比奈みくるも古泉一樹も居る。ほぼあなたの記憶どおりの世界と地続きと思ってもらっていいよ」 「……じゃあ一体、何が変わってしまったんだ? お前は勿論……そうだが」 話しながら時折俺に微笑を向けるこいつが、俺の知ってる長門と同一人物だとはにわかには信じがたい。かといって「あのとき」の長門のような、極端に引っ込み思案な少女とも違う。キャラクター的には寧ろ、朝倉涼子に近い。 「端的にいえば、『変えた』のはわたしだけ。あとは長門有希を知っている人間たちの記憶を、今現在のこのわたしの情報に上書きしただけ。細かいところまでいえば、写真なんかの情報も改竄されてるけどね」 孤島や雪山での写真のことだろうか。家にもあるはずだが。こんな事態は想定の範囲外だったので確認などしているはずがない。無表情に写った長門が、こいつみたいに屈託ない微笑に変わっているのだろうか。 段々動揺から冷めつつあるが、このときばかりは妙に不思議慣れしてしまった自分に感謝する。考えてもみてくれ。突然世界が自分の見知らぬものに変わってしまったら。前と似ているのに少しずつずれている、いつも一緒に居た奴が居ない、居ないはずの奴が居る、この一年近くの体験がなかったことにされている。不思議体験の経験値がまっさらな状態でそんなところへ放り出されたら、普通は発狂しかねない。事実かなりの不思議経験値を獲得していた俺ですら、「あのとき」はそうなりかけたのだ。 隣を歩く長門の格好をした少女の言葉を信じるなら、他は何も変わりなく、長門と長門にまつわる記憶や記録だけが変わってしまっているのだという。それならば十二月よりは少しはマシな状況だが。 燻っていた疑問を投げかける。 「どうして、長門、お前だけそんな風になっちまったんだ?」 まさか情報ナントカ体の勝手な思惑なんじゃあるまいな。病室での会話が思い起こされた。処分する代わりに、勝手に長門を変えてしまったのか? だとしたら俺は……。 長門は立ち止まり、俺の目をまっすぐ見ていった。 「わたしがそれを望んだから」 「なんだって?」 我知らず聞き返す。長門は躊躇うような様子を見せたあと、やはり微笑んだ。 「あなたは、あのときいってくれたよね。どうしてわたしを、朝倉涼子のように社交的な明るい性格にしないで、今までのわたし(ここで長門は目を伏せて自嘲気味に笑った)みたいな、暗くて無感動な人物に作ったのかって」 長門は再び歩きだした。俺もそれに続く。心地好い風が髪を揺らし、これまでの分を取り戻そうとするかのように饒舌な有機アンドロイドは前髪を押さえた。 「……自分のことのように怒ってくれるのが、嬉しかった。でもこれは仕方のないことなの。詳しいことは、今は上手く言語化することができないけど、わたしがああいう風に作られたのにはちゃんと理由がある。これはテストなの」 「テスト? 何のテストだよ?」 「実験といった方がこの共同体の言語として適切かもね。それをいったら統合思念体の行いの全てが実験といえるかもしれないけど。朝倉涼子の行動も、実験と呼べなくはない」 厭なことをいうようになったね。 「ごめんね。……そしてあのあとわたしは、統合思念体にパーソナルデータの変更、特に性格的パラメータの変更を申請した。その許可が昨日になってようやく下りたの。あくまで限定的な実験としてね。ちょっと違和感があるでしょ? 実はわたしのパーソナリティ情報に朝倉涼子のパーソナリティ情報を転写しただけだから」 確かに、その笑い方は誰かに似ているような気もしていた。 長門は俺の手を握ると、強い意志を感じさせる表情でいった。 「不安かもしれないから一応いっておくけど、あなたに危害を加えるようなことは絶対にないから。たとえ主流派が意見を変えたとしても……そんなことは世界を再び改変してでもさせない」 最初こそ疑ってかかってしまったものの、どんなカタチであれ長門の言葉は心強かった。こいつはやっぱり、俺の知ってる長門なのだろう。そんな過激なことをいうと、また処分の検討とかいいだしかねんぞ。気持ちだけで充分さ。 「わたしは本気」 言葉どおり、長門の目は真剣だった。 「ありがとな。だが一つ教えてくれ。一体……一体またどうしてそんな、性格を変えてしまうようなことを……?」 前に向き直った長門は、なぜだか少し恥ずかしそうに俯いて、俺と反対側へ顔を向けてから、戻ってきて俺を見た。 「いいたいことは分かってる。あなたは、あのわたしを……元のわたしを選んでくれたんだものね。でもね」 さっきから繋いでいた手に力が篭った。 「わたしも、なってみたかったの、明るくて、誰とでも仲良くなれる、社交的な……それこそ朝倉涼子のような、『女の子』に……」 「……長門……」 それはある意味ではショックで、ある意味では――つまり感情的な意味ではすとんと腑に落ちる告白だった。他人の心は分からないが、誰しもが望んで孤独であったり、非社交的であったりするわけではあるまいと思っていたからだ。長門もその例に漏れなかったというわけか。 長門の無感情だった顔の下には、ちゃんと感情が、普通の女の子になりたいというような感情が隠れていることに、傍目からは分からずとも俺は多少なりとも気づいている、と思っていたのだが、まだまだ認識不足だったようだ。しかし長門が望んでしたことなのだとしたら、否やはない。時間的にも限定されている、とかいっていたようだったが。 「うん。この実験は、この惑星の時間に換算して七十二時間だけ。だからあとたったの六十三時間しかないの」 「三日間限定の魔法っていうわけか」 そろそろ北高へ続く坂道へ差しかかったきた。 「そういうこと。だからこれは夢みたいなもの。よかったらあなたも、わたしの夢に付き合って。この状況を楽しんでみて?」 「他ならぬ長門のいうことだ、いつまでだって付き合うさ」 長門に笑いかけたところで、 「あーっ! キョンーっ! 有希ーっ!」 騒々しく誰かが後ろから走ってきた。いうまでもなくハルヒである。長門のいうとおりこいつは変わってないらしい。俺たちのところまで走ってくると、長門の握っている手(そういえば繋ぎっぱなしだった。北高生徒衆人環視のもとで、なんてこっぱずかしいことを)と反対の手を掴んだ。 「え?」 「途中で一緒になったの? ……まさか有希、迎えに行ったりなんかしてないでしょうね!?」 「そうだっていったら?」 俺は目を見張った。長門が見たこともない顔をしている。悪意のない笑いを堪えて、茶目っ気たっぷりにハルヒを横目で見ている。ハルヒは、もう! と一声。牛か。 「抜け駆けはダメだっていったでしょ! 有希ばっかりずるいわよ!」 おい長門、これは一体何事だ。何なんだこの愉快な状況は。 両側から手を掴まれた俺は、小声で訊ねた。長門はいたずらっぽく笑う。 「勝負は平等な方が楽しいでしょ?」 ちょっと待て。 |
2007/12/01
フォアグラにするのは×アヒル⇒○ガチョウ。アヒル(カモ)でも作るらしいですが。
放置してましたがご指摘があったので直しました(08/01/29)