屋上施錠劇場

 サウナで我慢の限界を強いられるような気分で午後の授業を受け終わった俺は、どこかへ飛び出していったハルヒを追うように教室を飛び出した。どうしてこの俺がこんなにまで欲望に突き動かされているのだろうか。健康的な男子高校生の一種には違いないからそれっぽいアレもそれなりに持っているのではあるが、元来欲に欠けるタチであるからして、なぜここまで必死になってしまうのか分からない。
 きっかけは挙動の読めない先輩のよく分からない挙動のせいに違いないのだが。まったく罪なお人だ。
 飛び出していったとはいえ、そこはそれ、平凡無難をモットーにしている俺が自分から突飛な行動に走るわけでもなく、いつぞやのような早足ではあるのだが、とにもかくにも誰よりも早いと思われる時間には部室に着いた。
 誰よりも、というのは普通長門は除外される。毎日理由を訊く気が失せるほど早くきているものな。ドアを開ければ長門が座って本を読んでいるのは最早SOS団的規定事項となっているのだ。そして今俺の心は性急に長門を求めているのである。勿論性的な隠喩ではなく、単に必要としている、という意味で。それが下心と切り離せるのかと問われれば、さあどうだろうと答えるほかないのだが。
 着くなりドアを開けると、「ひあっ」とどっかのお姫様の乗る馬車についた鈴を転がしたような可憐な声がして、俺は慌てて半ば開きかけたドアを閉めた。
「失礼!」
 朝比奈さんがもう来ているとは想定外だった。放課後はいつでも必ずノックすべきだな。焦りすぎて失敗した。
「なんだキョンくんかあ……びっくりした。慌ててどうしたの?」
 衣擦れの音と共に朝比奈さんが問う。いやあ、何ででしょうねえ。俺にもよく分からんのですよ。
「ふふっ、変なキョンくん」
 そう、変なんですよ。
 壁に寄りかかって着替えを待っていると、「長門さん?」とか「まだ着替え終わって……」とか不穏な会話(但し一方通行)が聞こえ、ドアの開く音がした。朝比奈さんの着替え中にドアを開けるだと? こればかりは人として見たくても見てはいけない。
 必死に顔を背けていると、袖をくいっと引かれた。俺がこれに弱いのを知ってるのだろうか。長門である。いつだったか読んでいた白い表紙の文庫本を持っている。
「長門? どうした?」
 袖を掴んだ長門の小さな手が滑り降りてきて、俺の手を掴んだ。これは貴重な光景だ。長門が俺の手を引っ張って先を歩いている。
 連れていかれた先は屋上だった。確かここ鍵かかってなかったか? 俺の疑問をすっ飛ばして長門は何事もなかったかのようにドアを開けた。
 俺が屋上に出ると、背後でカチャン、と明らかに鍵の閉まる音がした。確かめたことはないが、あっても無意味であろうから屋上のドアの鍵は普通内側にしかないと思われる。開いたときと同様の宇宙的な力で閉まったのだろう。
「なあ何で鍵を」
「ここ」
 長門はドアの横の壁を示した。
「座って」
 いわれるがままに座って壁に寄りかかる。北高の屋上は柵がないから、寄りかかる場所が他にない。ここが寄りかかって座りやすいということは分かったが、何をする気だ長門。最初に朝比奈さんがハルヒに連行されてきたときの気持ちが分かるような気がする。背後で鍵を閉められるとちょっと恐い。色々変わったように思っていたが、長門の説明不足は相変わらずだ。
「そろそろ説明してくれてもいいんじゃないか?」
 長門は俺の正面に立ったまま暫く何もないところを見ていたが、やがて踝を返した。スカートが翻る。あの、目の前に素敵なものが。
「おお?」
 すとん、と胡坐の中に長門が納まった。
「さっきの続きを」
 振り返らずにいい、少し脚を伸ばした体育座りで本を開いた。どうやら昼休みの「おあずけ」はちゃんと繋がっていたらしい。つまり俺は長門の頭を思う存分撫でまわす権利を得たというわけだ。
「じゃあ、いいか?」
「どうぞ」
 変な会話だ。しかもいかがわしい方向で変だ。人の頭を撫でるときにする質問ではない。月曜日に六日後だと思っていた日曜日がいきなり火曜日に前倒しになったような気分というか。我ながら妙な例えだが。要するに何事につけ改まると手を出しづらいのさ。
 手を目の前にある長門の頭に、と思ったら、しまった、抱き締めてしまった。
「……!」
 ページをめくる手が中途に止まった。さしもの長門といえど驚いたらしい。
「すまん、つい」
 回した腕を放そうとすると、遠慮がちな右手がそれを押さえた。
「このまま」
 使い古された表現だが心臓が早鐘を打っている。除夜の鐘だったら年明け前に一〇八つ打ち終わってしまいそうなくらい早く、大げさにいえばドラムロールに近い。
 つまり頭の中がお祭状態だ。寧ろ陽気な南米のカーニバルだ。例の大胆な衣装の女性が派手な音楽をバックにサンバを踊っている。ダンサーたちに顔をつけるのは差し障りがありそうだからぼかしをかけておこう。
 端的にいえばドッキドキバックバクしていると、長門が寄りかかってきた。ショートカットの小さな頭が右肩にもたれる。読んでいる本の内容がちらっと見えた。「本当だよ、知らなかったんだ、まだ若木だったなんて!」。何のことだ。ああ、動揺したり緊張したりするとつい無関係なことを考えてしまうのだが、ある意味一触即発なこの状況、現実逃避している場合ではない。
 先ほどは一瞬制御不能に陥った右手を長門の頭に載せ、優しく撫でる。細い髪の毛は指どおりが滑らかで、柔らかかった。やっぱり高級な猫みたいなさわり心地だ。ロシアン・ブルーというよりもっと長毛の猫。目を細めた長門は今にも咽喉をゴロゴロ鳴らしそうだった。
 困ったことになった。さっきから長門の華奢でしなやかな身体と密着していたせいか……いやこれ以上はいわないが。とにかく困ったことになっている。俺はいつだって理性を保っていられる自信があるが、これだけぴったりくっついていると、長門にはもう分かっているのではなかろうか。いや、口に出さないだけで離れてたって体調の変化くらい分かってしまうのかもしれない。しかし当たっているのは、何とも、ああ。何ともいえない。色々すまん。
「いい。正常な反応。健康な証拠……わたしはむしろ嬉しい」
 やっぱり気づかれている。顔が熱い。きっと真っ赤になっていることだろう。それに嬉しいってどういうことだ? そんなに俺の健康状態を心配していてくれてたのか。確かにこの若さでアレがアレだったらアレかもしれないが。
 代名詞ばかりで申しわけない。
「いや……だが。何というかお前の信頼を裏切ってしまったようで……とにかくすまない。できれば気にしないでくれ」
 あの長門がこんな風に無防備な姿を見せてくれるのは、ひとえに俺が妙なマネをしないと信頼してくれているからに違いないのにさ。自分が不甲斐ない。
「べつに構わない」
 長門は身体の向きを変えて、横抱きにされる姿勢になった。左手に本を持ったまま右手を俺の襟元に添え、俺は右手で肩を抱く姿勢である。顔が見える分恥ずかしさも倍増だ。しかも腕の中の美少女はそのブラックオニキスのような目で俺の泳ぎっぱなしの目を覗きこんでいる。
「こうすれば当たらない」
 そういうことか。助かったよ。一時はどうなるかと思った。この体勢はこれはこれで危険な気もするのだが。顔が見えてると、さっきとはまた別なあらぬ考えも起こしかねないじゃないか。その証拠に手持ち無沙汰だった左手で側頭部辺りを撫でだしたら、ちょっと引き寄せただけで唇と唇が、などと考えてしまう。しかし顔近いな。
 いかん。変に意識してしまっただけに、その形のよい唇が気になって仕方なくなってきた。視線を空にやり、照れ隠しに髪を梳いたり撫でつけたりする。
「……その本、前も読んでたよな。面白いのか?」
「…………シュール」
 いつもより語調が緩い。横目に様子を窺うと、長門は目を閉じている。桜色の唇がフラッシュバックする。ちょっと待て、そういうことなのか、まさかそういうことなのか? 待てというか既に待ってるってことか? いやまさか、落ち着け俺。素数を数えて、いやいや深呼吸しようか。
 ひと昔前のロボットみたいな動きで俺は首を回した。
 長門は、すうすう寝息を立てていた。

おしまい。

2007/12/01