長門有希と運動

 世に読書の秋なる言葉がある。またはスポーツとか芸術とか食欲とか色々な秋があるが、要するに暑くも寒くもなく、年度はじめの春のように慌しくもないこの一種のモラトリアム的季節に、のんべんだらりと過ごすことなく文化的な諸活動やらをしたりエンゲル係数を上げてもらったりしてほしいどこかの誰かさんたちの思惑が生んだ言葉なんだろうが、年が明けても歳をとっても特に劇的な変化がないように、この十数回の秋を普段と何ら変わることなく過ごしてきた俺にとっては割合どうでもいいものだし、長門なんかは一年中読書家だし健啖家でいつづけることだろうさ。
 ただスポーツのそれに関しては、面倒臭そうにホームランを叩き出す長門の姿が浮かんできて、微笑ましいようなぞっとしないような珍妙な心持になってしまう。
 でもまあズルなしでだったら、たまにはインドアな遊びばかりじゃなく軽い運動をしたっていいかもしれない。キャッチボールとかさ。俺だってたまには、冷や汗じゃない汗も流してみたいんだよ。
 放課後、そういう珍しく健康的な気分で部室に行くと、折りよく長門が一人で読書中だった。
「よう」
 手を上げると、長門は目線だけこっちに寄越し、微妙に首を動かした。俺は鞄を置き、本棚の上に乗っかっていた段ボール箱を下ろした。
「お、あったあった」
 ハルヒがどっかからちょろまかしてきたグローブと、野球ボールである。それらの摩り減り具合、汚れ具合から見て、六月ごろ野球大会に出たときに野球部の備品を借りたそのままなのだろう。使わないんなら返せよ、と普段ならいうところだが、今日ばかりはカラスみたいに物を溜め込むハルヒの習性に感謝しておく。
「長門、キャッチボールしないか?」
 ボードゲームを取り出す古泉みたいな仕草でボールとグローブを掲げてみせると、長門は本から目を上げた。細い首を微妙に動かして俺をグローブを見比べる。
 キャッチボールは知ってるか?
「知ってる。二人以上の人間が向かい合い、野球ボールを相互に投げ渡す運動」
 長門は大体角度にして三度くらい頭を傾けた。
「しかし娯楽性に疑問。ただの反復運動」
 うーん。そうか。確かにどこがどう面白いのかと訊かれると答えづらい遊びかもしれない。特に何の誤差もない完璧な制球ができる長門には退屈かもな。勝負でもないし、速さを競うわけでもないから力をセーブしてどうにかなる問題じゃない。
 ある種コミュニケーションみたいなもんなんじゃないかな。俺は長門とやってみたかったんだが、お前を退屈させるようだったらやっても仕方がないか。
「……やる」
 長門は本を閉じた。
「そうか? 別に無理しなくていいんだぞ」
「そんなことはない。あなたと時間を共有しているとき、退屈を感じたことなどない」
 そりゃ嬉しいことをいってくれるね。

 俺たちは道具を持って中庭に出た。
「それじゃまあ、軽くいってみようか」
 グローブをはめた自分の手と二、三回ボールをやり取りすると、いつぞやのように直立不動の長門はコクリと頷いた。五メートルくらいの距離である。軽く振りかぶって投げる。ボールは放物線を描いて長門の胸の辺りへ落ちた。長門はそれを必要最小限の動きで取る。
 長門はボールを持ち、手を肩の辺りまで掲げ、手首のスナップだけでボールを投げた。イチローばりの送球を覚悟してグローブに手を沿え待ち構えていた俺に、綺麗な放物線を描いた白球が飛んでくる。俺は驚いて緩いボールを取り落としてしまった。長門が不思議そうにそれを見ていて、俺は顔を赤くした。
「すまん。速いのが来るのかと思っちまった」
 ボールを取れなかったことなどではなく、長門を信用していなかった自分自身が恥ずかしい。こいつは半年前や、ましてや三年前の長門とはもう、違うのだ。無感情なアンドロイドなどではない。無表情の中に僅かに覗かせる感情を見つけられる俺がこんなことでは、合わせる顔がない。本人の目の前だが。
 俺はボールを返した。
「速い方がいい?」
 長門はボールと俺を交互に見て、訊ねた。
「いや、このくらいが丁度いいさ」
「……そう」
 分度器みたいに綺麗な放物線と、少々不安定な弧が何度か往復する。長門の球は毎回俺の手元に落ちてきて、俺の球は大体長門の手元に落ちた。
 しばらくの間、中庭にはボールを受けたグローブの立てる乾いた音だけが響いていた。
「ちょっと早くしてみるか」
 ボールを捕ると、何メートルか下がってから少し強めに投げ返す。力んでしまい、ボールは長門の頭上へ抜けた。
「あー、すまん」
 しかし、まっすぐ伸ばされた腕がボールを正確に掴みとる。これまでと全く同じ投球フォームで投げ返された球は、俺が投げたものと大体同じ速さだったが、手元ではなく大きく右へ逸れていった。慌てて跳びつく。振ってきたのか? 長門を見ると、相変わらずグローブをしてなければキャッチボール中とは思えない直立不動ぶりで待っている。
 試しに強めのボールを長門のやや左を狙って投げる。長門は腕以外は微動だにせず捕球する。パシン! といい音。
 今度は頭上のかなりの高さへ返ってきて、ジャンプしてようやく届いた。やる気だな? 俺はニヤっと笑い、更に強いボールを投げる。スパン! 一ミリたりともその場を動かず、長門は右下へ際どく逸れた球を捕った。
「うおっ!?」
 返ってきたやや直線的なボールは、真正面に来ると思いきや鋭いカーブを描いて俺の足の間を抜けた。トンネルしたボールを走って取りにいき、戻ってくるとやはり長門はぼんやり直立している。無表情に見えるが、からかわれているような気分だ。だが悪い気はしない。
「よし長門、ルールを決めようぜ。お互い腕を伸ばして届く範囲に投げて、その場から動いた方が一点マイナス。先に五点取られた方が負けで……そうだな、買った方にジュースを奢るってのはどうだ?」
「あなたがよければ」

 結果はといえば、俺も粘ったのだが長門からは一点も取れずに負けた。まあ当然の結果なのだが。長門にサイダーと、自分用にスポーツドリンクを買って戻ってくると、二つのグローブを抱えた長門はさっきと同じ場所から動かずに待っていた。
「ほらよ」
 グローブを受け取って缶入りのサイダーを渡す。
 二人で中庭の木の下に座って咽喉を潤していると、チビチビとサイダーを飲んでいた長門がこっちを見ているのに気づいた。
「なんか俺ばっかり楽しんでたようだが。退屈じゃなかったか?」
 長門ははっきりと分かるくらいかぶりを振った。
「わたしも楽しかった」
「そうかい。そりゃよかった」
 頭を撫でると、長門は猫みたいに首をゆっくり傾けた。
 俺たちは涼しい風が葉を揺らすのを聴きながら暫くそこでぼんやりして過ごした。ハルヒがギャアギャアいって走ってくるまでな。こんなのも悪くないね。

おしまい

2007/11/30