長門有希の頭髪

 ちらりと窺ってすぐに目を背ける。
 いかん。自然の欲求として間違っているとはいわないが、シチュエーション的に間違っている。しかし、座布団の上で丸くなっている猫を見て頭をナデナデしたくならない猫好きが存在するだろうか。いいや居るまい。シャミセンのふかふかした冬毛もいいものであるが、今反語表現を使って説明しているのは猫の話ではないのだ。
 あれは朝から目に毒だった。いや色々なところに毒だった。

 今朝俺がげっそりした顔で登校という名のハイキングを満喫していると、背後から元気な足音が迫ってきて、聞き覚えがあるなと思っていたら半径二十メートルくらいに響きわたる声が、
「おっはよーうっ!」
 とドップラー効果めいて聞こえ、視界が身体ごとぐりんと回って三半規管が悲鳴を上げた。同じく登校中の北高生徒らの注目を集めながらその場で一回転半して止まり、やっとリアクションをとる余裕が生まれる。
「つ、鶴屋さん……朝から元気ですね」
「めがっさ元気っさっ! キョン君はうんざり顔だねーっ。だめだぞいい若いもんが!」
 このお方はこのお方でエクスクラメーションマークがめがっさ付き纏っていらっしゃる。そしてなぜだかその輝かんばかりの笑顔は妙に近くにあって、それはなぜかというと首の後ろに両手を回されているせいだった。ついでにいうと黒々美しいおぐしが弧を描くようにさらさらと俺の頬に触れている。ホワイ? なぜ?
「それじゃっ、お姉さんは元気が有り余っちゃってるから先に行くよっ! キョン君も早く行ってハルにゃんに元気を分けてもらえばいいさっ! じゃねっ!」
 嵐のような先輩だ。その姿はあっという間に坂の上で小さくなってしまった。
 時間差気味に今起こったことが頭に入ってきた。凄い勢いで走ってきた鶴屋さんはやや斜め方向から俺の首っ玉に飛びつき、それを支柱に遠心力で見事な一回転半を決めたのだ。いきおい髪の毛も絡みつくってもんだ。
 それにしても凄い運動神経だ。もし鶴屋家が破産したら雑技団に入るといい。しかし俺よく支えきれたな。
 朝だから頭が働いていないのか、咄嗟のことにまだ事態が掴めていないのか、種々の情報がソニックブームのように次々追突してくる。絹のように滑らかな髪の毛の感触とか、ふんわり香った甘い匂いとか。男のサガで朝っぱらから変なところに血が集まりそうだ。いや正確にいえば朝にはどこかに血液が集中してはいるのであるが、まあさて置く。健康的にいい換えれば、魅力的な女性陣に囲まれてると色々困っちまうよな、ということで――谷口辺りに石を投げられそうだな。
 どうも呆然として暫く突っ立っていたらしい。俺を追い越していく生徒たちの視線に気づき、慌てて登山を再開する。そして学校に着くまでの間も着いてからも授業を受けている間も、どうにも頬に触れた感触が忘れられないわけで、後ろでグースカ寝ているハルヒのさらさらの髪すら気になってしまうわけで。
 端的にいえば、髪を撫でたり触ったりしたくて仕方がない。
 一応弁解しておくがいやらしい気持ちなんてこれっぽっちもないんだ。ただ純粋に誰かの髪の毛を触ってみたいだけなんだ。かといって男のは真っ平と考えている辺り、スケベ心皆無とはいい切れないのが悲しいところだが。ダメだ俺。
 実際問題異性の髪の毛を触るなんて余程親密な間柄、つまり夫婦や恋人か、血縁の若輩者の頭を撫でるくらいしか機会はないし世間的にも許されないだろう。その辺の女の子の髪の毛を突然触ったらまず間違いなく手が後ろに回る。
 ではこの如何ともしがたい欲求を俺は一体どうやって処理すればいいのか?
 昼休みになり、悶々たる気分で砂を噛むように弁当を飲み込むと(母さんごめん。息子は汚れてしまいました)、俺はそそくさと教室を後にした。このままだと国木田の頭を撫でたりしかねない。そんなことしたら俺の素敵なサムシングたちが終わりを告げてしまう。
 といって足が向くところといえばやっぱり文芸部室なのである。

 そこで冒頭の場面を思い出していただきたい。俺は部室に居て、ちらちらと誰かを窺っている。昼休みに色々なものを無視して誰より早く文芸部室に居るのが誰かと問われれば、勿論決まっているから、俺が見ているのもその人を置いて他に存在しないわけである。
 長門は今日もまた鈍器にしか見えない本を読んでいる。……ペクト……ペヒエ……ハカザヒ……すまん、読めん。英語のアルファベットではないようだ。作者の名前らしき金文字の頭は、よく一部のインターネットで使われている顔文字の口の部分に使われている文字と同じだが。何語だったかは思い出せん。
 本から視線を上げる。ところどころハネた柔らかそうな髪の毛の頭が、小さな肩と細い首の上に乗っている(一部に注目していても他の部分が視界に入ってしまうのは仕方のないことだよな?)。通った鼻筋の下についた物言わぬ小さな桜色。表情を感じさせない眉毛。やや伏した目はかなりの速度で横文字を追っていて、時折長い睫毛が震えるように動いていた。
 無表情の中に微かに浮かぶ表情を読みとろうとして注視することはあっても、こうして細かな造作までじっくり観察したことは、翌々考えると今までなかったように思う。
 やばいな。すごく可愛い。
 忘れかけていた衝動がおもむろに鎌首をもたげはじめ、どうしようか、頼めば撫でさせてくれるかな、その場合一体なんて頼めばいいんだろうなと考えだしたところで、
「どうかした?」
 慌てて目を逸らす。いつの間にか長門は本から顔を上げて俺を見ていた。
「……なんのことかな?」
 我ながらわざとらしすぎた。可愛くて見とれてたとか、あまつさえ髪の毛を触りたいと思っていただなんて口が裂けてもいえんし、いうくらいなら口を裂いたほうがマシだ。
「そう」といって読書に戻ってくれるのではないかとも期待したが、そうは問屋が卸さない。この問屋というのはきっと情報統合思念体のことだ。
「あなたは椅子に座ってから現在まで約十分間断続的にわたしを視姦している」
「どこでそんな言葉覚えたんだ」
 長門は顔を正面からずらし、やや横目になった。また新しいのを覚えたな、何だかそれは非難されているように感じるんだが。気のせいか?
「わたしを見るあなたの目は獣欲に塗れ爛々と輝いていた。まるで獣のような目だった。そうあなたは正に一匹のオスと化し」
「ま、待てよ、俺ほんとにそんな目をしてたか……? ……あ」
 いったときにはもう遅い。誘導尋問とは恐れ入った。それはいいがお前いつの間にそんな表現を覚えたんだ。官能小説でも読んだのか?
「よくない。わたしの質問に答える方が先」
 参りました。勘弁してください。
 何というか、目の保養みたいなもんだよ。
「その比喩表現は既知……わたしの外的形状はあなたに精神的充足をもたらす……?」
 そうだな、そういってもいいかもしれん。だが外見だけじゃないぞ。お前との沈黙は他の人とのそれとは違って心地いいし、お前がそこでいつも通り本を読んでるっていうだけで気分が落ち着くのさ。
「そう」
「それが聞きたかったよ」
 何だか本当に、さっきまで感じていた落ち着かない気持ちも治まってしまったようだったが、無表情ながら俺の主観的観測からみるに少しだけ嬉しそうな顔をしている長門にだったら、あのことを頼んでみても大丈夫かもしれない。
「なあ長門、頭撫でてもいいか?」
 長門は僅かに視線を上下させると、まっすぐ俺を見つめ返して「いい」といった。あんまりじっと見られると照れるぞ。もしかして長門も同じ気持ちだったのかもな。
 俺は立ち上がって向かいに座った長門の横に回った。妙にハネていると思ったら、こいつ旋毛が二つあるぞ。
 撫でられるのを待っているのか、さっきからページが進まない。待ち構えられてるのもそうだが、改めて撫でんがために撫でようとすると緊張するな。思わず唾を呑み込む。さあ俺、四時間近く持て余しつづけた欲求に終止符を打つときがやってきたぜ。触り心地のよさそうな猫っ毛がすぐ目の前だ。シャミセンなんかに比べれば長門の髪はきっと純血のロシアン・ブルーかってとこだ。
 いざ、と手を伸ばしたところで、予鈴が鳴った。
「…………」
 長門は本を閉じて立ち上がった。砂漠で乾涸びかけているところへ一杯の水が差し出され、そのまま零された気分だ。その悪魔の姿はなぜかハルヒの顔をしていた。
 がっくりきている俺を尻目に、長門はドアへ向かったが、ドアノブに手をかけて振り返った。
「おあずけ」

おしまい

鶴屋さんにうっかり意味不明なことをさせてしまった。
2007/11/27