長門有希の餌付

 ドアをノックすると、天使のようなお声が入室許可をくだすった。中に入ると俺以外の面子は既に顔を揃えていた。
「遅い! 平団員の分際で重役出勤とはいい度胸ね!」
 大概の台詞にエクスクラメーションマークのついている我らが団長の理不尽な発言もいつもどおりだ。最近は放課後になるといつの間にか文芸部室の前にやって来てしまう。ある種の帰巣本能みたいなものだろう。
「ちょっと何シカトしてんのよ!」
 ハルヒがずずいっと詰め寄ってくる。お前今パソコンの前に居た気がするんだが。長門に瞬間移動でも習ったのか。
「ああ、すまん。あんまりいつもどおりなもんだから聞き流しちまったよ」
「はあ!? 弛んでるわ! SOS団員たるもの団長の言葉は一字一句漏らさずに脳味噌に刻みつけなきゃダメでしょ! 罰として……そうね、購買で全員分のお菓子を買ってきなさい。三十秒以内!」
 へいへい。ハルヒの下から見たボーゲンみたいな逆八の字眉毛の下の表情が、不機嫌から何かよからぬことを思いついたときの不穏な笑顔に変わっていく様も、信じられないくらいいつもどおりだ。これがいつまでも続けばいいだなんて思ってしまうのだから、全く慣れというものは恐ろしいね。
「そ、そうだったんですかあ?」と横暴な団長訓示の前半部分に引っかかる朝比奈さん、爽やかスマイルで肩をすくめる古泉、読書に没頭する長門をそれぞれ視界に入れ、俺は鞄を置いて購買へ向かった。
 世界は今日も実に平和だ。

 適当に皆で分けられそうな菓子類を二三買って部室に戻ると、朝比奈さんがお茶を入れてくれ、古泉は一人でやっていた将棋の駒を初期位置に並べなおし、長門はページをめくり、ハルヒは俺の手からポテトチップスの袋を奪うと、勝手に食べはじめた。横暴なようでいて皆が食べやすいように接着面を全部剥がして開封してくれている辺り、根はいい奴なんだろうと改めて思う。
「さて、今日は俺から一局くらい奪ってみせろよ」
「お手柔らかにお願いします」
 ほどなくして、古泉は長考を始めた。やれやれ。どうしてこいつはボードゲームに弱いのかね。成績に関していえば天と地くらいの開きがあるっていうのに。脳の使い方がなっとらんのじゃなかろうか。それをいうなら俺もゲームばかり強くても仕方がないのだが。まさかとは思うがこいつわざと負けているんじゃなかろうな――いや、それはないか。そう思えるくらいの信頼は抱いてやってもいい。
 ポテチに手を伸ばすが、虚しく指が宙を掻いた。早いな。あらかた長門とハルヒの胃袋に収まったに違いない。長門はともかくハルヒのやつ、パソコンをいじっているが手はちゃんと拭いてるんだろうな。ベタベタなマウスは厭だぞ。
 俺は別に買ってきた赤い箱のチョコプレッツェルを開けた。袋を一つ開けると、朝比奈さん、古泉、ハルヒ、長門の順で差し出す。
 編み物をしていた朝比奈さんは可愛らしく「ありがとう」と、古泉は「どうも」と爽やかに、ハルヒは無言で開けてない方の袋ごと取った。おい。
 最後に振り返って長門に差し出すと、無表情な双眸を活字から引き上げ、およそ十三秒ほど俺をじっと見つめ、差し出されたプレッツェルを見た。早く取ってくれよ。さっきから身体が捩じれてて段々辛くなってきたんだが。もしかして後回しにしたのを怒ってるのか? こいつ意外に食い意地が張ってるからな。単に渡しやすい順番になっただけで他意はないんだぞ。長門は俺の真後ろだからな。
 何を思ったか長門は、滅多に開かれず開いたとしても一秒くらいしか開いていない小さな口を、ぱくっと開けた。
「…………」
 今の三点リーダが何人が発したものかは、各自で設定しておいてほしい。
 長門よ、意図は分かるんだが……なにぶん……あー、分かったよ。
 俺は身体の向きを変えると、一本取り出して長門の口に入れてやった。プレッツェルは活字の世界に戻った長門の口にもこもこ消えていく。飲み込んで唇についたチョコを舌で舐めると、今度は本を読んだまま口を開いた。仕方ないので自分でも食べながら口に入れてやる。食べ終わるとまた口を開く。おいおい。
 やっとのことで駒を進めた古泉は、俺と長門に気づくとさっと青ざめ、ハルヒに視線を走らせた。ハルヒは分捕ったひと袋を一人で食べていて、気づいていないようだったが、古泉は俺に向かって「参りましたね」というような困り顔で肩をすくめてみせた。朝比奈さんは口を押さえて真っ赤になっている。
 次が来ないのが不満なのか、長門は再び本から目を上げて俺を眺め、俺が眉を八の字にしているのを見てとると、音もなくパイプ椅子ごと俺の横に移動してきた。
 そして半開きの口で読書を再開する。本にヨダレ落ちるぞ。
 おいおい長門よ、どういうわけかこの世界ではこういうことをしてると俺と古泉の身に危険が迫る仕組になってるんだ。憐れな男どものために勘弁してやってくれないか。
「…………」
 長門はまた顔を上げ、俺と古泉を見比べてから一度口を閉じた。
「見えなければ、へいき」
 そしてまた口を開けて俺をじっと見つめる。ああダメだ。すまん古泉、俺はこの目に弱いんだよ。ほれ食え長門。
 俺は古泉に向かって肩をすくめてみせた。古泉は首を振ってから肩をすくめ返した。何かの動物みたいだぞ。俺たち。
 そういうわけで、チョコプレッツェルの一袋二十二本のうち十九本は俺の天才的ステルス・プレイによって長門の胃袋に消えた。
 ちなみに古泉との対局には惨敗した。まさかだろ?

おしまい

北高に購買があるのかどうかは知りません。
2007/11/27