長門有希の気配

 早朝、不意に目が覚める経験をしたことはないだろうか。それも目覚ましの鳴る一時間以内に収まる程度の時間に。
 或いは、睡眠中に自分が眠っていることは認識できない(明晰夢って奴だったら可能なのかもしれん)のだから、その程度の時間なら今までの眠りから無意識に継続するより、極めて甘美な二度寝ワールドでまどろむ方が、どちらかといえば得をしているのかもしれない。
 でもやっぱり、心情的には損した気分になっちまうものなのさ。
「うーん……何時だ……今……?」
「現在時刻は午前六時三十七分五十一秒」
「六時半か……ちくしょう半端な時間に……」

「いや待て!」
 俺は飛び起きた。目覚まし時計は七時前辺りを指している。当然だが部屋の中には誰もいなかった。変だな、ちょっと前に誰かと会話した気がするんだが。何だったんだろう。夢か。聞き覚えのある声だったような。
 まあ夢というのは記憶の整理らしいから、その中に出演するのも現実に聞いたことのある声になるんだろうが。
 可能な限り思い出してみる――確か目覚ましが鳴る前に起きて、独り言で時間を問うたら返事が返ってきて、そのまま寝た。
 なんだ。
 喋り方に特徴があったような気もするが。思い出せないな。気になるじゃねえか。妙に目が冴えてしまって、いつもなら妹が起こしに来るまで絶対に放さない蒲団から出た。窓を開けて冷たい空気を入れると、頭がしゃっきりしてきた。ああ、そういえば紙の擦れるような音も聞こえたような……?
 俺は眉をひそめた。何だか厭な予感がする。水面下で何かが起こっているかのような。こういうときは大概ハルヒ絡みで何か不穏な事態になっているのだ。俺の予感は意外によく当たるからな。
 残念ながら特殊能力皆無の一般人たる俺には予感の正体までは突き止められん。また頼ることになってしまうが、あとで長門に訊いてみよう。
 三度寝の誘惑を振り切った俺は、早めに登校して隣のクラスへ向かった。ドアから覗くと長門は自分の席で本を読んでいて、斜め前の席の女生徒に少し困ったような顔をして何やら話しかけられていた。一応頷いたりしているようだったが、そんな微妙な動きじゃ認識できるのは多分俺くらいだと思うぞ。
 声をかけようとすると、ショートカットの頭がこっちを向いた。手を上げて挨拶にし、そのまま手招きする。話しかけていた女生徒は長門の視線を辿って俺を見つけると、何ともいえない表情をした。それは思春期真っ盛りの自分の息子が女の子と歩いている姿を目撃した母親の顔に似ていたようだったが、気のせいに違いない。
 本を閉じた長門が立ち上がると、教室に居た生徒の全員がはっとしたように長門を見て、俺を見て、それからしたり顔を見合わせたり頷いたりしだした。長門よ、お前動物園のパンダが珍しく動いたときみたいに注目を集めてるぞ。ベクトルの違うハルヒみたいな(美人で成績優秀だが変人という意味で)扱いを受けてクラスで孤立しているのではないかと内心心配してたんだが、少なくとも長門に向けられる視線は(生温かいが)好意の感じられるものだったので、ひとまず安心した。
「なに」
 音もなくやってきた長門を廊下に連れ出す。入口を塞いでちゃ迷惑だからな。俺たちの姿が見えなくなると途端に教室内が大騒ぎになったのだが、これも気のせいだと思いたい。
 俺は長門に来意を伝えた。
「なにも」
 という三音節が長門の答えだった。どうやら俺の知らぬ間に宇宙的(以下略)な超常の事件は起こっていないらしい。ほっとしたよ。
「そうか。気にしすぎだったみたいだ。悪いな、こんなことで呼び出して」
「いい」
 長門は黒水晶みたいな瞳で俺を見ていたが、
「それだけ?」
 と小さく首を傾いだ。ああ、すまん。読書の邪魔だったか。それだけだ。もう帰るよ。
「そう」
 その顔がどこか残念そうに見えたのは、変な時間に起きちまって調子が狂っているからだろう。またあとでな。クラスの奴らと仲良くしろよ。
 長門と別れて六組に戻ると、ハルヒが頬杖でこっちを睨んでいた。不機嫌そうだ。今朝の厭な予感はこれだったのか?
「有希と何の話?」
 そっちかよ。さっきの姿を見られていたようだ。
 全く疚しいところがないのにこいつには説明できないのが困りものだ。何ていって誤魔化そうか。逆にからかって煙に巻いてしまうのも手かもな。
「ちょっと愛の告白をな」
 さらっといってやった。こうかはばつぐんだ! と思ったが、どうもやり過ぎたらしい。硬直して真っ青な顔になってしまった。谷口のそれに比べ信頼度一五〇パーセントの俺の経験則から鑑みるに、ここは硬直が解ける前にフォローしておかないと本気にされて血を見ることになっちまいそうだ。古泉が。
「アホか。冗談だよ」
「は? ……そ、そうよね! 当たり前じゃない! あんたにそんな度胸あるわけないわ! 別に最初っから信じたりなんかしてないわよ! 冗談ならもっとマシなことをいいなさい! 面白くも何ともないでしょ!」
 嘘つけ。どうしてこいつは、他のことだったら俺の話なんかハナから疑ってかかる癖に、この手の話はころっと信じちまうんだろう。今までにどんな事例があったかというと――話すと長くなりそうなのでそれはまたの機会にしておこう。
 俺に色恋沙汰だなんてどう見たって冗談だろうが。生憎とお前みたいに見栄えもよくないし、そんなチャンス巡ってこないんだよ。人生に三度はあるといわれる「モテ期」とやらも未だにいらっしゃってくれないしな。
「……それで、ほんとは何の話?」
 歩行者用信号みたいに青くなったり赤くなったりしていたハルヒは、動揺した割に当初の質問を忘れていなかった。煙に巻きそこねた。
「借りてた本を返したんだよ」
「そんなの放課後でいいじゃない」
「最近夜が冷えるから風邪に注意しろよ、というような注意を喚起に」
「そんなんでわざわざ呼び出したりしないわ」
「混迷化する世界情勢についてだな」
「脈絡がなさすぎる」
「分からんぞ、お前の知らないところで俺たちが世界の趨勢を握るようになってしまった可能性も」
「ないわ」
 ハルヒは俺じっと睨めつけ、へーっとオヤジ臭い溜息をついた。
「いいわよもう、話したくないなら」
 だったら最初から訊くなよ、とは流石にいえない。ハルヒは例のアヒル口とはまた違う、スネたような表情をしている。なんだ、そんな顔もできるんじゃないか。中々新鮮だぞ。今後時々やってくれ。
 しかしこのまま放置して置くと古泉に早退させることになるかもしれないので、尤もらしく、
「今日の数学で当てられそうなところを教えてもらってたんだよ。お前に訊きたかったんだが、まだ来てなかったからな」
 といってみた。ハルヒは一瞬きょとんとした顔で俺を見たが、すぐに頬を染めて目を逸らした。照れている顔は存外に可愛い。
「そ、そう……」
 お前が頼られたり感謝されたりするのに弱いのはお見通しだぜ。長門有希表情判別検定一級に加えて、涼宮ハルヒ取扱免許三級くらいなら名乗れるくらいにはなったかもしれん。気持ちを弄んだようで少々胸が痛むが、世界の存亡がかかってるんだ。これくらいは許されるだろう。
 ハルヒの機嫌がちょっとよかった他は、いつもとさして変わらぬ一日を過ごし、今日も今日とて長門が本を閉じる音で解散の運びとなった。

 帰宅後。
 夕飯も風呂も済ませてあとは寝るだけだ。その前に少し本でも読むかとベッドに座ると、ドアをカリカリ引っ掻く音が聞こえた。シャミセンが開けろといっているのだ。もしシャミセンでなかったら、それはちょっとした恐怖である。ハルヒが俺の部屋のドアを引っ掻いている姿を想像してしまった。恐い。
 ドアを開けるとするりと三毛猫が滑り込んできた。寒くなってくると蒲団に潜りこんでくる猫というのは、正に生ける湯たんぽだ。俺に世話が押しつけられたときには若干迷惑に感じたものだが、こんな役得があるのだったら全然構わない。何にせよ懐かれるっていうのは気持ちのいいもんだ。
 などと考えているとなぜか長門を思い出した。今でも割と懐かれている方だとは思うが、細っこいナリにしてはよく食べるから、餌付けでもしたらより懐きそうだ。
 今のは長門に失礼だったかと思いつつベッドに戻ると、シャミセンがこっちを見て硬直しているのが見えた。
「フーッ!」
 おいおい威嚇するなんて、そりゃあないぜ。毎日カリカリを用意して水を換えてやってトイレを掃除してるのは誰だと思ってるんだ。普段はおっとりのんびりのシャミセンが体を硬くして全身の毛を逆立てている。外敵に対し身体を大きく見せる意図なのだろうが、ただでさえモッサリした体型なんだから、デブ猫に見えるぞ。
 飼い犬に手を咬まれたかのような傷心を禁じえない、と思ったら、よく見るとシャミセンは俺に向かってではなくベッドの下の方に向かって威嚇しているようだった。
 勘弁してくれ。猫が何もない天井の隅とかを見つめているのはよくあるらしいが、そういうのは洒落にならんぞ。まさか斧を持った男ならぬナイフを持った女でもいるんじゃなかろうな。都市伝説になるなんてごめんだぞ。
 恐る恐るベッドの縁に近づくと、ベッドの下から白い手が現れて蒲団を掴んだ。
「うおっ!?」
 俺は缶詰を開けた音ですっ飛んでくるシャミセンみたいに――いやこの例えは平和過ぎるな。訂正する。俺はクラスメイトにナイフで斬りつけられたかのように慌てて飛びすさった。背中を強く壁にぶつける。痛かったがそんなこといっている場合ではなかった。
 白い手はゆっくりと伸びてきて、その先の部分が段々と姿を表す。袖は黄緑のチェック。その柄に覚えがあるような……。
 半端にシャギーの入った頭がひょっこり出てきた。
「おい」
「なに」
 いいながら、パジャマ姿の長門がベッドの下からずるずると出てきた。それはこっちの台詞だ、何してやがっていらっしゃるんだお前は。
「あなたの部屋に居る」
 立ち上がった長門は標本みたいに壁に張りつけられた俺を興味深そうに見ている。シャミセンはというと暫く固まっていたが、やがて疑わしげに長門の匂いを嗅ぎにきて、納得したのか驚いたのを誤魔化そうとしているのか、毛繕いを始めた。
「今現在何しているかは見りゃ分かるよ。そうじゃなくって……何か用か?」
 力が抜けるぜ。こんな状況ですぐに落ち着きを取り戻す俺に対しても。
 俺は壁から離れてベッドに座りなおした。
「べつに」
 べつにってあんた。じゃあなんで来たんだ。
「来たかったから」
 そういうと長門は小さく首を傾げ、
「迷惑?」
 と。だからそれは反則だって。そんな言い方されたら勘違いしちまうぞ、他の奴だったら。そもそもそんなしどけない格好で健康な男子高校生の前に現れるのはやめていただきたい。二人っきりのときは特に。性……いや情熱を持て余すから。いやその前に、家族に見られたらどう説明すればいいんだこの状況。
「大丈夫。情報ブロックは完璧。この部屋には完全な防音処理を施した」
 そうのたまう有機インターフェースの表情はどこか得意げですらある。特に事件が起きたわけでもなく、家族にバレる心配がないのだったら一定の心配は不必要になるのだが、お前一体どこから入ってきたんだ? ああ、いやいわなくていい。どうせ理解できないからな。
 あれ。いや待て待て、更に待て。今気づいたがベッドの下に人が入れる隙間なんてないじゃないか。何かもう何もいえん。
「あなたにも理解可能な次元での行動。玄関の扉を開けて入ってきた」
 マジか。
「マジ。鍵は開いていた」
 こんな時間に無用心だな。戸締りはしっかりしておかないと。
「…………」
 いやそんな悲しそうな顔するなよ。これからはチャイムを鳴らしてくれ。お前だったらいつでも歓迎するからさ。取り敢えず座ったらどうだ。何か飲み物でも用意しようか?
「おかまいなく。既に風呂とバスタオルを借用させてもらった。このような時間にこれ以上迷惑をかけては心苦しい」
 しれっと何をいってらっしゃるんですか。いつ風呂に入った。というかまさかうちの親はお前が来たことを知ってるんじゃないだろうな。
 そしてよく見ると柔らかそうな髪の毛がまだ少ししっとりしているパジャマ姿の女の子が同じベッドの上に居るというのは、色々な意味で危険な状況なのではなかろうか。椅子に移動した方がいいかもしれない。
「あなたが入る前。そしてこの家に入ってからあなた以外の人間には認識されていない」
「……そうかい」
 俺は力なく答えた。何かもう深く考えない方がいいような気がしてきた。さしあたって色んなところが色んな意味で暴走する可能性以外の懸案事項はなくなったわけだが。
 長門をちらっと窺うと、膝に上ってきたシャミセンの背中をぎこちない手つきで撫でていた。残る問題はこいつをどうするべきかってことだ。
 ベッドから降りようとすると、パジャマ代わりのスウェットの裾に小さな抵抗を感じた。
 ゆっくり振り返ると、ベッドに足を開いた正座(女の子座りとかアヒル座りとか色々呼び名のあるアレだ)で座った長門が、スウェットの裾摘んで俺を見上げている。
 なあ長門、狙ってやってるんだろこれ。
「狙うとは?」
「いや……いい」
 仕方なくそのまま長門の隣に腰を下ろす。さて。別に用もなく来たかったから来て勝手に風呂に入ってパジャマに着替えてベッドの下に隠れていた長門さんは、このあと一体どうする気なんでしょうね?
 既に午後十一時を回っているし、こんな時間に帰すわけにもいかない。帰るなら勿論送っていくのはやぶさかではないが、湯冷めして風邪でも引いたら俺がハルヒに殺される。そもそも何もしてなくても俺の部屋でパジャマの長門と二人っきりというだけで殺されかねない。理不尽な話だ。
 気が進まないが訊かないと展開も進まないのだ。長門の沈黙は別に気まずくはないが、このまま二人して黙って座っているわけにもいくまい。
 ……待てよ。帰らないということは訊くまでもなく泊まっていくってことじゃないのか。
「あー……長門よ。一つ問題がある」
「なに」
「この部屋にはベッドが一つしかない。且つお前を部屋から出すわけには行かないが、客用の蒲団を持ってくるにしても俺が別の部屋で寝るにしても不自然な行動になっちまうぞ」
 流石にここまでいえば分かるよな?
「なにが問題?」
「いや、いいんだ。俺が床で寝れば済む話だ」
 説得を放棄した俺が再びベッドを降りようとすると、再びスウェットが引っ張られる。
「この季節にカーペットが敷設されているとはいえ床の上で寝ると、ウイルス感染による上気道の炎症、通俗的な用語で風邪と総称される疾患を発症する可能性がある。ベッドで寝るべき。また、あなたが床で寝なければならない理由は存在しない」
「……一応訊くが、お前もベッドで寝るんだよな?」
 長門はちょっと考えるように一回だけ瞬きをした。
「許可を」

 その夜はいつもより温かく眠ることができたというか、背中に小柄な人間サイズの温かくて柔らかいものがぴったり寄り添っていたというか、悶々として眠れまいと思っていたのにいつの間にか眠ってしまったというか、ともかくそんなような感じだった。詳細はご想像にお任せする。
 翌朝目覚まし時計と妹に起こされたときには、既に長門はいなくなっていた。居たら困るのだが。
 その日の夜も一応ベッドの下を確認したが、幸か不幸か長門は居なかったし、そもそも人が入れる隙間なんてやっぱりなかった。そうそう一般人のベッドの下に美少女が潜んでいたりして堪るか。
「やれやれ」
 寝転がって本を読んでいると、玄関のチャイムが鳴る音がして、お袋がインターフォンで対応する声が聞こえた。こんな時間に誰だろう、と思っていると、妙にニヤニヤしたお袋がドアを開けた。俺は本を顔の上に落としてしまった。文庫本でよかった。
「……何をしてらっしゃるんでしょうか」
 俺は枕を抱えた制服姿の長門に問うた。
「いわれたとおりに」

おしまい

2007/11/26