抱擁III

 この世界には人類の手で制御できるものとできないものがある。
 前者は例えば、室内の気温を調節するとか食糧を安定して生産するとかいうミクロなことが含まれる。希望的観測からいえば温暖化を止めることだって前者に含まれてもいいはずだ。
 そして台風を消滅させるとか地球の自転を止めるとかいうマクロなことが後者である。
 そして、まことに遺憾ながら涼宮ハルヒもまた後者に含まれるということは、今更いうまでもないよな?
「ない」
 というわけでハルヒはホワイトボードに「本日自主休団」と書きなぐるなり、俺と長門を引っ張ってあっという間にホームセンターまで来ていた。勿論長門の抱き枕を買いに、である。誤解のないようにいっておくと、長門の、というのは長門が使う抱き枕、という意味であって長門の形をした抱き枕という若干特殊な購買層を持った代物のことを指しているのではない。あっても買わない。
 少なくともハルヒの前では。
「そういったものは存在しない」
 いや冗談だよ。答える俺に長門は更に何かいおうとしたが、ハルヒの近所迷惑な声がそれを遮った。
「意外と種類が豊富なのね! あたしも一つ買って帰ろうかしら!」
 と、買いに来たはずの当人を差し置いて勝手にはしゃいでいる。でも気のせいか今一瞬俺を見たような気がしたんだが。まあこいつが退屈しないでいるうちは世界も平和で古泉のバイトも減って俺は身の危険にさらされることもないわけで。それに不機嫌な仏頂面より、楽しそうに笑ってる顔の方が断然いいしな。いいっていうのは世界が平和になって素晴らしいという意味であって他意はないんだからな?
 それにしてもさっきはどうなることかと思ったぜ。ありがとな、長門。
「いい」
 そういうと長門は例のフワフワした足取りで、各種抱き枕を陳列したラックの方へ歩いていった。もしかして本当に欲しかったのだろうか。或いは嘘から出た真というか。
 さっきの長門の言によれば抱き枕の形状は人間の身体を模したものらしい、ということはある意味ここはモルグなのでは、などと不吉な妄想を浮かべつつ、手持ち無沙汰なので俺も一つ遺……いや抱き枕を手に取ってみた。確かに波型だったりボウリングのピンみたいな形をしていたりと、形も素材も色々あるようだ。買うつもりはないが値段を確認してみると、ホームセンター価格でそれなりのものから意外にリーズナブルなものまでピンキリだった。ああそうか、本気で買うつもりだったら長門に買ってやってもいいかな。
 こっそり財布の中身を確認していると、
「あらキョン、あんたも買うの?」
 と目ざとく見つけたハルヒが手にした抱き枕で俺を小突いてきた。こらこら、売り物で遊ぶんじゃありません。子供じゃないんだから。
「いいのよ、これはあたしが買うんだから」
 買うのか。一瞬それを抱き締めて眠るハルヒの寝姿を想像しかけ、多分顔に出たのだろう。足を踏まれた。
「何かやらしいこと想像したでしょ変態。そんなことよりこれ低反発素材なのよ。いっぱいあってちょっと迷ったけどこれ買うことにしたわ。だってこれNASAが開発したのよNASA! 明らかに宇宙的な力を感じるわね!」
 嬉しそうなところに水を差すようだが、NASAが開発したウレタンフォームを元に作ったっていうアレは英語の寺みたいな名前の会社のブランド品のことだし、開発の意図もシャトル発射時に加わるGの負担を減らそうっていう至って実際的なもので、別にエイリアンの意志とか国家の陰謀とか諸々の不思議マテリアルは感じられないと思うぞ。
「うるさいわね! いいじゃない使ってみて気持ちよければ!」
 それ自分の発言まで否定してないか。ハルヒは俺のツッコミをスルーして、「ねえ有希?」と長門に同意を求めている。そうだ長門、俺が今まで何回こいつにツッコミを入れたかカウントしてみてくれないか。
 やれやれとばかりにハルヒを見ると、なんか固まっている。その視線の先を辿ると、宇宙レヴェルでの危険物があった。大変だ、これは全宇宙のため俺が犠牲になって、優しく運んでそっと自分の部屋に保管しておかねば。
 それというのはつまりハルヒのと同じ低反発素材の抱き枕を抱え、もきゅっとばかりにそのすべすべな(と思われる)頬を枕に埋める白皙の美少女のことだ。けしからん。よく見ると周りの客やら店員やらも微笑ましげにちらちら眺めているではないか。大変けしからん。
「ねえキョン、今幾ら持ってる?」
 危うく長門を抱えてどこかへお持ち帰りしそうになったところで、ハルヒが肩を叩いた。

 数分後、一メートルほどの抱き枕を二つ抱える俺の姿があった。俺と半分ずつ出して長門に抱き枕を買ってやったハルヒは、満足げに長門の頭を撫でたり頬を突ついたりしながら前を歩いている。なんという平和。
 それはさて置き今の俺の姿は「往来で抱き枕を抱えた制服の高校生」という珍妙な伝聞としてこの辺り一帯の七不思議の一つくらいには数えられそうなほど不思議だと思うんだが。なあハルヒ、灯台下暗しとはよくいったものだ。微妙な不思議がお前のあとをダルそうについてきてるぞ。
 駅前に着いたあたりで本日は解散、と思ったのだが、
「こんなでっかいもの女の子に持たせてあんたそれでも男!?」
 というハルヒ様のお達しにより、俺は長門の部屋までの運搬係を仰せつかった。ハルヒの方はあいつが自分で担いで帰った。なぜか走って。自分はカウントしないとは珍しい。確かにお前は馬鹿力だが長門はSOS団全員を片手でひょいと持ち上げられるほどパワフルなんだぞ。それとも雪山の一件で長門をひ弱な文学少女とでも思っているのだろうか。
「珍しいといや、お前と俺を二人っきりにして何もいわないとは、あいつもちょっとは俺を信用してくれてるってことかね。『有希に何かしたらタダじゃおかないわよ!』くらいいいそうなもんだが」
 長門は気に入ったのか俺の持った抱き枕の端をにぎにぎしていたが、ちらっと俺を見上げていった。
「涼宮ハルヒは排尿を催していた」
 ……なんだそりゃ。
「走り出した時点で限界水位。彼女はあの十二秒後に駅のトイレに駆け込み、およそ三一五CCの」
「いやいうなよ」
 お前たちの観察っていうのはそんな情報まで必要なのか?
「…………」
 あれ、目を逸らした。お前なんかやっただろ。膀胱を圧迫したとか。
「……一時的に新陳代謝率を高めただけ」
 どおりでなんかモジモジしてると思ったよ。なんでそんなことを? お蔭でギャアギャアいわれずに済んだんだが。
「禁則事項」
 そうかい。まあ元々何の恩もないハルヒなんかから事前に何の説明もなく振ったり回されたりしているしな。大恩ある長門にだったら説明なしに振り回されたって本望さ。
 相も変わらず無言の道程を終え、七〇八号室にお邪魔する。
「ここに置いていいか?」
 長門の頷くのを見て、買ってきた抱き枕を床に置く。前にもこんな状況に遭遇したような気がするのだが。すぐに帰るべきなんじゃなかろうか。この先の展開次第で千々に乱れかねない精神的安定を確保するために。
「帰る?」
「いや全然」
 ハッ! 反射的についいってしまった。今のはちょっと厚かましい物言いに聞こえたかもしれないが、言葉少なな長門の意図を補足するに、この「帰る?」は「帰って『しまう』の?」を言外に含んでいたものと思われるのだ。
 ふと改変された世界でのことが脳裏に蘇り、軽い眩暈を覚えた。ここ最近徐々にではあるが感情らしきものを窺わせるようになった長門の無表情に見える顔に、ほんの僅かな感情の片鱗があったとすれば、まさしくそれは「あのとき」の表情だった。
 そんな顔されたら帰れるわけないだろ。
「……まあ、なんだ。ちょっとひと休みさせてくれ」
「どうぞ」
 幸いいつかみたいに着替えてくるつもりはないようで、それではてっきり少しばかり薄いお茶でも淹れてくれるのかと思ったのだが、長門は直立のまま俺を見ていた。お前も座らないか。俺だけ座っていると視界になんというかとある甘美な曲線を描いた二本のものがチラついてしょうがないんだ。ところでうちの高校スカート短いよな。
「……立って」
 すまん、やっぱ帰った方がいいか。
「違う」
 長門は俺の後ろに置いてあった抱き枕を見た。人間の身体をデフォルメした三つの膨らみを持ったそれ――つまりインゲンマメみたいな形は、まだ包装されたままだった。そういえば運んできたとき抱えたが、ビニール越しだとよく質感が分からなかったな。ちょっと開けてみていいか? ハルヒが衝動買いするくらいだから相当いいんだろう。是非直に触ってみたい。なんだったらちょっと抱き締めてみたい。
「それは後でいい」
 何の後だ? と訊ねるより早く、立ち上がった俺は九十度方向転換させられた。即ち長門の方に。長門は腕を広げて待っていた。
 さっき感じた既視感はこっちだったか。
「調査の続行を希望する。許可を」

おわり

2007/11/26