抱擁II

 小学校の理科を思い出してほしい。物質の形状は三種類ある。即ち、液体、気体、固体である。そして我々が一般的に「空気」と総称する窒素と酸素とアルゴンと二酸化炭素とppm単位で含まれる微量成分の集まったものも、生身の人間が認識しうる限りでは気体であろう。
 誰か文系の俺にも分かりやすく解説してほしい。今この瞬間文芸部室の「空気」が固体化しているように感じられるのだが、これはまた涼宮ハルヒの変態パワーが物理法則を捻じ曲げてしまったのだろうか?
「…………」
 状況を至極簡潔に説明しよう。部室内で長門に抱き締められた俺、そして飛び込んできたハルヒ。以上。
「……キョン?」
 ナンデスカ。
「ずーいぶん有希と仲良くなったのねえー?」
 背中を冷たいものが撫でた。誰かこれから間違いなく起こる惨劇を回避する方法を、一般人の俺にもわかりやすく解説してほしい。俺のためだけではなく、どこに居るか知らんが現在携帯電話に着信を受けているとみてほぼ間違いない古泉のためにも!
「あー……これはだな……」
 部室に一歩踏み込んだままの姿勢で止まったハルヒは、地獄の大鍋が煮え滾っているような目で俺を見据えていた。口元は笑っているように見えなくもないが、総合的に見てとても直視できない。マズイ。この状況は怒鳴られたり殴られたり泣かれたりするよりマズイ。もしかしたら、と脳裏をナイフをちらつかせる朝倉の姿が過ぎった。
 じり、と暗黒オーラを噴出させたハルヒが一歩近づく。俺は必死に言いわけを組み立てていた。オーマイブレイン! 普段休みまくっている分ここぞとばかりに働いてくれ! との祈りも虚しく、休み過ぎて錆ついてしまったらしい脳は何の解答も導き出してくれない。というか俺としては何一つ疚しいところなどないのだが、本当のことを話しても俺実は超能力者だったんだっていうくらい信じてもらえないんじゃないだろうか。
 どうする俺ッ!
「これは調査」
「え?」
「は?」
 長門はおもむろに俺から離れると、ハルヒに向きなおった。どうやら長門が代弁してくれるらしい。何やら厭な予感がするんだが、こいつに任せて大丈夫なのだろうか。
「何の調査よ!?」
 気勢を削がれた様子のハルヒは、仁王立ちで腕を組むお決まりのポーズで質した。
「抱き枕」
 長門はボソッといって、ハルヒはあんぐり口を開けた。貴重なショットだ。カメラを用意しておけばよかった。とはいえ俺も同じような顔をしている可能性は否めないが。
「ここ数日間わたしはとても寝つきが悪く、充分な睡眠がとれていない。一般的に抱き枕を使用すると安心感から精神状態が安定し、安眠がもたらされると考えられていることから、わたしも抱き枕の購入を検討している。しかし、わたしは一度も抱き枕を見たことがないため単一店舗での比較調査は時間的な理由から不可能と判断。そこで事前に調査を行うことにした。抱き枕は元々人間の形を模したものであるから、比較のためのサンプルには人間を選択するのが適切。そこで彼に協力を要請した」
 よくもまあこんな口から出まかせを。俺は半ば呆然と長門の後頭部とハルヒのぽかんとした顔を見比べた。もしかして信じたのか?
「……あんた珍しく喋ったと思ったら、変わった喋り方すんのね」
 ハルヒ大魔神は完全に毒気を抜かれてしまったらしい。万能とは思っていたがあいつを煙に巻いてしまうとは。益々頼りにしてしまいそうだぞ長門。余計に気をつけておくよ。
 聞こえないように溜息をついたつもりだったのだが、デヴィルイヤーに引っかかってしまったらしくハルヒがこっちを見た。さっき以上の動悸を感じたが、その顔は怒っているというより呆れているようだった。取り敢えず危機は脱したらしい。すまん長門。帰りに何か奢らせてくれ。
「で、キョンの抱き心地はどうだったの? 貧弱だからあんまりよくなさそうだけど、調査とやらの参考にはなったのかしら?」
 この野郎。今さらっと失礼なことをいっただろう。
「……個人的にはとてもよかったといえる。しかしサンプルが一種類だけでは比較の参考にはならない。不十分」
 逆にさらっと褒めた(んだよな?)長門は、つうっと音もなくハルヒに近づいていき、むぎゅっと抱き締めた。
「ふえっ!?」
 寧ろ朝比奈さんが発しそうな可愛らしい声を出した我らが団長の顔が、見る間に紅潮していった。自分からはあっても人から抱きつかれるのには慣れていないらしい。
 なんだこの構図は。日頃の苦労に天が報いてくれているのだろうか。貴重なワンショットを前にして思わず顔が緩んでしまったらしく、
「バカ! 見てるんじゃないわよ変態!」
 とか酷いいわれようだったが、身動きが取れないハルヒなんぞ恐くないね。
「へえ、もしかして照れてるのか?」
「うるさい!」
 俺にしていたよりは半分くらいの時間で、ハルヒの拘束は解かれた。長門に喝采を送ってやりたい。普段朝比奈さんにしてきたセクハラの報いさ。かえって役得だったんじゃないか?
「協力に感謝する。サンプルを比較した結果理想的な抱き枕の特徴を導き出すことができた」
 ほう、その心は?
 長門は俺を振り返ると小さな口を開いた。
「柔らかすぎず硬すぎず」
 見事に中庸だ。長門、結構なお手前だったぞ。
「そう」
 何だか満足げな長門を尻目にハルヒを窺うと、早くも動揺から立ち直ったらしく、いつも
の爛々たる目つきに戻っていた。一瞬俺を睨みつけたので、目を逸らしておく。
「よし、いいでしょう!」
 ハルヒはでっかい声でいった。
「何がだよ」
 ニヤリと笑って長門を指差す。
「有希の抱き枕を買いに行くわよ!」

2007/11/26