抱擁I
ノックに返事はない。つまり今部室の中には長門が居るか誰も居ないかの二つのパターンがあるわけだ。量子力学ふうに考えると知らぬ間に魔窟と化したこの文芸部室の中には長門が半分居て半分居ないということになるのだろうか。いやあれの観測対象は生死の別だったか。じゃあ壷の中の仏舎利ということか。まあ蓋を開けてみなければ分からないということさ。 果たして壷の中の長門は窓際で本を読んでいた。 「よう」 長門はタイトルが長くて背表紙で二行になっている白い表紙の文庫本から目を上げ、普通の人間だったら単に誤差のうちに入る程度の動きで、多分会釈を返した。 「まだお前だけか?」 柔らかそうな髪が僅かに揺れた。頷いたんだか風に揺れたんだか。もしかして俺なら分かると思って横着してるんじゃなかろうな? 「…………」 止まりかけの扇風機みたいな動きで長門はこっちを見た。いや、いいんだぞ別に。分かるからさ。 長門はきっかり五秒俺を見つめてから、三たび活字の海へ没入した。 俺はパイプ椅子を引いて、鞄から長門に借りた本を出した。 長門に借りたSF小説は架空の新興宗教をテーマにしたもので、長門の言葉を借りればなんとも「ユニーク」な代物だった。足の裏を合わせると心が通い合う? どれだけ特殊な趣味なんだ。ためしにやってみるか長門。 「あれ」 見ると窓際から長門が消えていた。読んでいた本は椅子の上に置かれている。 慌てて部屋の中を見渡すと、いつぞや本を貸しつけてきたときのように何の気配もなく背後に立つ白皙の文学少女の姿。 幸か不幸か、様々な宇宙的未来的(略)なトラブルに度々巻き込まれつづけてきたおかげで、それくらいじゃ驚かなくなった俺がいる。長門よ、なんか不満そうだな。 「べつに」 まだ帰るような時間でもないが、どうかしたのか? 長門はたっぷり三十秒ほどブラックホールみたいな瞳で俺を見つめてから、いった。 「立って」 はいよ。俺は読みかけの本を長机に置いて立ち上がった。別にいいんだがな、なるべく先に理由をいってもらえるとありがたいね。 華奢な手がブレザーの袖を掴み、自分と向かい合わせになるよう俺を直らせた。 さてお次はどうする? あれ何だろうあったかいな。 「なっ……!」 いやいや、何を驚くことがあろう。俺はお決まりの文句で問いただしかけて踏みとどまった。長門が時々脈絡を無視した突拍子もないことをするのは今に始まったことじゃあないだろ。落ち着け俺、素数を数えるんだ。 「心拍数の増加、及び表皮温度の上昇を確認」 「いややっぱりちょっと待て長門ー!」 「待つ、とは?」 と上目遣いの長門は、迂遠ないい方をすれば俺の背中に手を回していた。 簡単にいえば抱きついていた。 いや、この場合ツッコミ用語としての「待つ」というのは前から常々いっていると思うんだが何かしてから待つんじゃなくてその動作を行うのを待てという意味であって。一、三、五、七、十一、十三……。 「安心した」 「何がっ!?」 あの胸に顔を押しつけたままもぞもぞされるとなんつうかたまらないんですけどね。 「……以前のあなたは朝比奈みくるの場合と同様、わたしとの相対距離の接近や身体的接触によって心拍数の増加が確認ができた。しかしわたしに対するその反応は時間の経過と反比例して漸減しつつあった」 お前の場合単に予想の範疇外の行動をするからびっくりしていただけだと思うぞ。 「…………」 あ、苦しい。ごめんなさいごめんなさい。違うんだよ、決してお前を異性として見ていないとかいうわけではなくって、普段はどちらかというとお前と居ると落ち着いちゃうんだよ。でもこんなことされてる今はちゃんとドキドキしてるだろ? 長門は疑わしげな(俺にはそう見えた)目つきで俺を凝視していたが、納得したのか腕を緩めてくれた。今のドキドキの半分は身の危険を覚えたからなんだが。口には出すまい。 しかし俺を動揺させてこいつに何か宇宙的なメリットがあるのだろうか。母のぬくもりにでも飢えているのだろうか。いやまさかな、多分観測活動の一環か、ひょっとしたら健康診断でもしてくれているのかもしれない。だが心臓の拍動数の絶対量は決まってると聞いたんだが、寿命縮めてないか? それに長門を眺めるのは何だか落ち着くし目の保養にもなるんだが、美少女に抱きすくめられるというのはある意味精神衛生上よろしくない気がするんだがね。抱き締めかえしたいところだが、何となく気まずいので頭を撫でておいた。 「……で、それをチェックするために俺は抱き締められてるのか?」 「それだけではない」 薄っすらと喜色。 「有機生命体の暦で表すと昨年の五月、あなたとわたしは最初の比較的広範囲に渡る身体的接触を行った」 誤解を招きそうないい方はよしてくれ。既に誤解されてるんだから。 「しかしそれ以来末端器官による接触以上の規模の身体的接触は一度も行われてこなかった。また最初の身体的接触時には最大規模のエラーの発生を確認、身体機能にも解析不能の誤作動が生じた。即ち心拍数の増大と表皮温度の上昇。それはしばしばあなたとの相対距離の接近時に確認された誤作動に類似」 俺と居ると心臓に悪いってことか? 「…………。原因解析のためにはより大規模の身体的接触によって当時の状況を再現することが必要と判断。現在そのシークエンスを実行中」 長門はまた頭を上げた。 「……迷惑?」 「いや全然」 どんな形であれ長門の役に立てるのなら否やはないさ。「エラー」の原因解明だったら尚更だ。 それと白状すると実は抱きつかれて嬉しくないわけじゃあなかった。 動揺してて気づかなかったが、長門からは何か甘い匂いがした。シャンプーの匂いだろうか――おい俺、どうして長門の背中に手を回そうとしてるんだ。 「遅くなったわ!」 破れそうな勢いでドアが開いた。 ええと、ハルヒ、元気か? |
2007/11/26