長門有希の婉曲

 日が暮れかけている。俺がそんな誰に問われたわけでもないのに、見れば分かるというか視力さえあれば一目瞭然な時間の経過というか規則的な天体の運動というか変わりゆく環境情報について思いを巡らせているのは、我が国の北西方向に位置する世界一の面積を誇る国の人々が年間で消費するアルコール度数の高い蒸留酒の量ほど大きな理由が、あるわけではない。
 端的にいえばヒマなのである。なぜかといえば先ほどからカップラーメンのできあがるくらいの時間、誰も居ない学校の生徒用玄関で一人間抜けた顔をしてぼんやりとしているからである。この時間をぜひとも明日の朝目覚ましを止めてから、妹の容赦ないフライングボディプレスが降りかかるまでの至福のまどろみタイムに繰り越したいものだ、などと詮ないことを脳内で循環させてしまうほどにぼんやりしている。垂れ流しの無意味な思考では読点の数も刻一刻と減少の一途を辿る地球上の生物種のように摩滅していくってもんだ。
 そしてまた修飾語が背脂たっぷりの豚骨ラーメンくらいくどくなるのは、ひとえにヒマなせいだ。許してくれ。
「……玄関で待ってて」
 というのは先ほど、本の閉じられる音を合図に部室をあとにしようとしたとき、俺のブレザーの裾をちょっと引っ張ってから長門が呟いた台詞である。
 どういう情報操作をしたのかは知らないが、その言葉は俺以外の誰にも、ほとんど口の中で発したに等しい俺のささやかなぼやきですら聞きつける、驚異のデヴィルイヤーを持った無自覚のビックリ人間ハルヒにさえ聞こえなかったらしい。
 まあさて置き。他ならぬ長門の頼みであれば例え火の中水の中閉鎖空間の中の俺は、普段なら皆で帰るところを、忘れ物をしただとかなんとか適当な言い訳をして玄関まで戻ってきたのだ。しかしできれば閉鎖空間は勘弁してほしいのが本音だが。
 当の長門はというと、「用事」と一言。玄関に向かう皆と離れて、フワフワした足取りでどこかへ行ってしまっていた。
 谷口のそれに比すれば信頼度一二〇パーセントの俺の経験則から判ずるに、あれは図書室へ向かったに違いない。長門が呼び出すからには何か緊急の用事かと思ったのだが、そうでもないらしい。気になるところだが、長門が自発的に何か宇宙的未来的超能力的でないことをするのは、とても望ましいことだと思う。それに、この一年間女性から呼び出しを受けてロクな目にあった験しがなく些か疑心暗鬼に陥りがちな俺でも(脇腹にひんやりとした感触が蘇る。ぞっとしないぜ)、魅力的な異性からの呼び出しにはつい余計な期待すら抱いてしまうバカな男の一種には変わりないわけである。
 いや、別に長門に対して疚しい気持ちを抱いているとかそういうわけではないんだぞ? そこのところは誤解のないようにしてもらいたい。
「……知っている。あなたは信頼に足る人間」
 そうそう、長門さんはよく分かっていらっしゃる。
「……って長門!」
 俺が驚いて仰け反ると、ぼんやりしていた俺の真横で長門がぼんやりと人のモノローグに参加していた。
「……しかし全くそういう感情を抱いていないのだとすれば、少し残念」
「来たんだったらもう少し気配をさせてくれよ……今何か言ったか?」
「なにも」
 そうかい。まあ今更そんなお前にまだ慣れていないといったら嘘になるがな。
「それで、どうかしたのか?」
 と問うと、長門はたっぷり三点リーダ五個分くらいの間をとってから俺に向き直った。銀河の煌きを湛えた漆黒が何かに逡巡するようにじっと俺を見つめている。いや、そんな目で見られても。もしかしてまた俺が何か忘れてるのか? 何か約束してたか? 何かの記念日? ヒントはもう出ている?
 Sleeping beauty? いやそれは困るぞ。
 スチール定規よりまっすぐな視線に耐え切れずに俺が目を逸らしかけたところで、長門の鞄を持っていない方の小さな白い手が不意に伸び、俺のネクタイを掴んで自分の方へ抗いがたい力で引き寄せた。二人の体重差を考えれば、そんな物凄い力を使った場合長門の方が俺にぶら下がる格好になりそうなものだったが、宇宙の神秘パワーが働いたのか引き寄せられたのは俺で、辛うじてバランスを保持した俺の間抜け面と長門の白皙との距離、凡そ五センチ。
「な、長門?」
 顔近ぇって! 悲痛な(心の)叫びも虚しく、物言わぬ瞳は触れそうなほど近くで俺を射抜いていた。ピントが合うか合わないかの限界の距離だ。微動だにしない長門からはこの近さでは絶対にかかりそうな吐息が感じられないが、こいつ呼吸してるのかね。
「あー、あの……長門さん?」
 白状すると冷静を装ってはいるが頭の中はハルヒの推定脳内より迷走まっしぐら状態だった。スマン、やっぱりありゃ嘘じゃなかったみたいだ。長門の脈絡は俺にはまだ理解不能だ。だからつまり何の脈絡もないようにしか見えん。
 なんだこのにらめっこは。誰かに見つかったらどうみてもマジでキスする五秒前な体勢をなんとか動かそうとするも、宇宙人製インターフェースの反則的な握力からはどうやっても抜け出せない。頼む、放してくれ。
「…………」
 ダメらしい。こいつ改めてみるとホントに綺麗だなとか、睫毛長いなとか通った鼻筋とか薄紅色の唇とかそういうことを考えはじめた辺りで、体温やら心拍やら諸々の増加を自覚しだした俺は、いい加減いたたまれなくなってきてじんわりと目を逸らした。
「目を逸らしたら負け」
「え?」
 今のはナシだろ! という叫びはやっぱり虚しくおなりになって、やっとこさ手を放してくれた長門はなぜか何かをやり遂げたような顔をしている。勿論長門有希表情判別検定一級を自称する俺にしか分からない程度の変化なんだが。
「あなたは負けた。罰ゲームを受けるべき」
 どこで覚えたこんな手管。いやいわなくても分かってる。ハルヒだろ。ハルヒなんだな? 悪い観測対象に毒されない!
「往生際が悪い」
「…………」
 ちなみに後の三点リーダは俺だ。そして結局ハルヒの横暴と朝比奈さんの可憐さと長門の視線には逆らえないのが、ヘチマほどの力もない一般人代表たる俺の悲劇である。
「……分かったよ。何をすればいいんだ?」
 嘆息すると、長門はすっと右手の鞄を差し出した。
「えーと、マンションまで持てってことか?」
 頷いてらっしゃる。意外と小学生が下校中にするみたいな罰ゲームだな。まあ長門のためだ、これくらいは軽い軽い。
 重い。
 部室を出たときより心なし膨らんだ鞄は予想外の重さだった。本か? いや別に持てない重さってわけじゃないんだ。ただ長門の羽毛でも持ち上げるがごとき手つきに油断しちまったのさ。百科事典でも借りたのか?
「いろいろ」
 そうかい。

 これといった会話もなく、さして急ぐわけでもない帰り道をのんびり歩き、俺たちは何事もなく七〇八号室に着いた。
「鞄はここでいいか?」
「いい」
 室内に上がって肩に掛けていた長門の鞄を置き、さてどうしたものかと殺風景な部屋を眺め、視線を一巡させたところに長門が居た。
 こっちをじっと見ている。何となく何かをいいあぐねているように見えた。俺としても鞄を置いてハイさようならでは座りが悪いし、まさか長門も用は済んだから帰れともいわないだろう。本当にそうだったら俺は孤独なアルメニア人ラボー・カラベキアンの絵画作品の抽象性くらいの激しさで凹むに違いない。
 体内時計でたっぷり一分ほどの間瞬きもせず俺を見つめていた長門は、
「座って」
 と告げると奥の部屋へ入っていった。今度具体的な説明の重要性を説いてやる必要がありそうだ。古泉を見習ってくれ。あいつは人が訊ねてもいないことをくどくどと懇切丁寧に説明してくれるぞ。
 饒舌な長門を思い浮かべようとして煩悶することしきりなのだが、座って待っていても長門が一向に出てこない。というかさっきから物音一つしないのだが大丈夫だろうか。ひょっとしてまた倒れたりとかしてないよな。
 心配になってきてドアに手をかけたところで、着替え中の朝比奈さんのびっくりした顔が頭を過ぎり、念のため手を翻してノックする。
「長門?」
 返事がない。おいおい「まさか」だよな。冷や汗を感じながら再びドアを開けようとしたところで、それは内側から開いた。
 無論開けたのは長門だ。
「…………」
 今度の三点リーダは二人分である。長門のそれはハナからデフォルトであるとして、俺の方は驚きの余り言葉もない、という風に飛び出したそれである。幾つか感嘆符をくっつけてやってもいいだろう。
 呆然とした胸中に、今度は朝比奈さんの、抗いがたい何者かの力によって焼きつけられてしまった下着姿が去来する。でも今ドアを開けたのは俺ではない。
 そこに居た長門は何というべきか、目のやり場に困るというか、全体的に白い部分の面積が多いというか、生まれたままの姿に近い――いや、長門のことだから北高の制服を着た姿で誕生した可能性も高いが、ともかくそんなような格好をしていた。
 簡単にいえば下着姿だ。何度もいうようだが俺は長門の表情は読めても長門の行動までは読めないようだ。というか読めてたら色々な局面で止めたり宥めたり賺したりできたことだろう。勿論今回だってそうだが、悲しむべきことに歴史に「もし」はなく、同様に長門に衣服はないのだ。
「すまん」
 ドアを閉めようとしたが、ぴくりとも動かない。ほっそりした手ががっちり押さえているからだった。
「あー、あの……長門さん?」
 視線を豪快なバタフライで泳がせながら本日二度目の台詞を口にする。有機インターフェース(下着姿)は微動だにせず俺を見ている。
 長門……俺この一年でお前のことちょっとは分かったような気になってたけど、どうやら自信過剰だったみたいだぜ。長門有希表情判別検定一級は返上するしかなさそうだ。だって俺にはお前が期待と不安の入り混じった複雑怪奇乙女チックな表情をしているようにしか見えないからさ。
 などと現実逃避している間も、なぜかさっきから身体の自由が利かなくて、唯一動く眼球を力いっぱい泳がせたところで、数十センチの距離で向かい合っている読書好きの寡黙な宇宙人(下着姿)はどうしても目に入ってしまうわけで、雪のように白い肌が対称的に黒い大人っぽい下着に包まれているという、視床下部が華麗なステップで踊りだしそうな視覚情報はどうしても脳に流れ込んでくるわけであって。
「……おかしい?」
 何だかえらく久しぶりに声を聞いた気がするよ長門。いや、勿論この状況はどう考えたっておかしいわけだが、灰色とはいえないまでも白一リットルに黒一ミリリットルのインクを垂らしたくらいの色はしている思われる脳細胞を、身体が硬くても一瞬なら前屈で手が地面につくのに似た瞬発力で稼動させたところによると、質問の意図は多分こっちだろう。
「……お、おかしくないぞ、いや寧ろ似合ってると思う……というか、なんだ、その」
 いやこんなことがいいたいのではなくて。何といえばいいのか。物事には順序があるということを小一時間ほど説明してやりたい。俺が顔を真っ赤にしている理由くらいもうこいつにだって理解できるだろう。よもや狙ってやっているのだろうか。俺の忍耐力でも試しているのか? 恐ろしい子!
 とここで俺はある一つの可能性に思い至る。
「もしかしてお前……これは下着について意見を求めてるのか?」
 長門はミリ単位で頷き、流石に説明不足を悟ったのか、珍しくこちらから訊ねる前に口を開いた。
「これは通俗的な用語で『勝負下着』と呼ばれるもの。私の所持する下着の種類と数量を知った涼宮ハルヒが昨日私を下着専門店に連れていき、購入させた」
 お前の口から勝負下着なんて言葉が飛び出すとは、プトレマイオスが地動説を信じる可能性くらいに思ってもみなかったよ。つうか長門になんてこと吹き込むんだあの野郎。
「まさかとは思うが、今が勝負のときだなんて思ってないよな?」
 長門は小さく首を傾げた。やめなさい可愛いから。そしていつの間にかまた身体が動くようになってるんだが。俺じゃなかったら襲ってるぞ間違いなく。まあまず未遂に終わるだろうけどな。
「……何の勝負?」
「知らないならいい」
 なあ長門、知らないってことは恐ろしいと思わないか?
「そう」
 そうさ。

 その後前言どおり説明の重要性と、日本古来の恥の文化と、伝統を守ることの大切さを懇々と説いたのだが(勿論、服を着せたあとに)、制服姿に戻った長門はどこか不満そうにそれを聞き、俺の原稿用紙十枚には及ぼうかという演説に対したった一言、「そう」とだけ答えて、お茶を淹れに台所へ引っ込んでしまった。
 俺は長々と嘆息した。とても湯が沸くとは思えない時間で戻ってきた長門は、なぜかコタツ机の四つの辺のうち俺と同じ辺に座っている。そして凄く近い。というか側面がぴったりくっついてるんですがね。
 それはさて置いて(ここに至って俺はようやく細かいところはスルーすることを覚えた。話が進まないからな)別の疑問を口にする。
「なあ、長門」
「なに」
「まさかあれを見せるためだけに連れてきたんじゃないよな?」
 そこ、黙らない。それが何か? って顔しない。
 ちょっと薄いお茶を啜って、もう一つ口から幸せを逃がした。どうか律儀に溜息をつくたびに逃げていかないでくれよ、俺の幸せ。
 色々突っ込みたいところが山ほどあるんだが、何というべきか。回りくどいぞ。そう思って長門を見ると、何もない天井の隅を見つめるシャミセンのような顔でお茶を啜っていた。よく考えると挙動の読めなさでは鶴屋さんを超えるのではなかろうか。
 まあ、いいか。視線に気づいたのかこっちに向きなおった頭を撫でる。長門はほんの少し目を細めてから、いった。
「勝負下着って、なに?」

2007/11/22