こよみフラワー
03
どこから話したものだろう。 とりあえず言えることは、こうして今語っている僕は、家庭内に何ら懸念を抱えていないということだ。全くと言ってしまっては疑念を抱かれる向きもあるだろうが、家庭内に限った話であれば、完全に平穏無事である。文句なしの安寧を享受していると言っていいだろう。 家族仲は良好、二女の成績も優良だし、長男の学業も飛躍的とまではいえないものの回復の兆しを見せはじめている。 兄妹仲ももちろん申し分ない。下の二人は元からべったりだし、三人合わせて考えても以前よりよくなったくらいである。 全くもって円満である。 平和が一番。 普通って最高。 家の外で長女と次女が、ファイアーシスターズだとか直江津の火薬庫だとかクラスター爆弾だとかのきな臭い通り名で呼ばれている事実は、この際除外してもいい。 少なくとも阿良々木家は平和そのものなのだから。 そんなことは瑣末時であると言えよう。 何より、世間様にかけた迷惑は「迷惑」と呼べる範囲内であれば、謝って済ませられることも多いけれど。 謝って済まないような問題、というか、誰にも謝りようがない問題だってあるのだ。 謝る相手がいなければ、許してくれる相手もいない。 ただでは済まない。 ただただ済みようがない。 それは少なくとも、一つの終息を見た。 そんな状況は、一部だけでも解決することができた。 今後そんな状況に陥ることはないという約束を、僕と火憐は結んだ。 秘密は秘密。 過ちは過ち。 過ちとは過ぎたこと。 だから、延々と続いてはいけない。 ゆえに、もう永遠に始まってはならない。 短い夏休みが終わる前に、正確を期すならば、戦場ヶ原ひたぎの帰省が終わるまでに、僕たちの間違いは訂正されていた。 例えるなら自己採点した回答用紙、真赤なレ点の横に、上書きされた正答。 修正ではなく訂正。 更生したのである。 しかも、概ねとはいえ独力で解決できたのは、不幸中の幸いだった。 誰にも知られてはいない。 唯一忍を除いては。 忍に関してはそもそも、今回のことのみならず全てが筒抜けになっているのだから、今更とやかくあげつらうことでもないし、そこに僅かに羞恥を感じなくもないが、存在自体を僕自身に依存し常に僕の影の中に溶け込んでいる忍は、最早切り離せない僕のB面、もといCDのカップリング曲のような両A面(暦c/w忍)なのであって、完全に第三者とは見做せないのだ。 僕自身がそう望まない限り忍から秘密が漏れる心配はない。 だから概ね。 人知れず、既に終わったこととして僕達の胸に仕舞っておけば済む。 その後の僕と火憐の関係はといえば、まあちょっと仲がよすぎるかな、という程度で落ち着いていた。最盛期の火憐と月火のべったり具合には、少々及ばないくらい。世間並みのブラコンシスコンとして、ときどき月火に気色悪がられているレベルに留まっている。 時折微妙な雰囲気にならなくもないけれど、そこから先に進むことはない。 それはもう、二度と。 今後再度のステップアップを検討するような事態になったとすれば、それはきっと二人を残して人類が滅亡するとか、銀河の果ての流刑星に流されて帰還は絶望的な場合とかに限られるだろう。 まあまず、ありえない。 だから、大丈夫。 * 夕方頃羽川と別れ、ママチャリを漕ぐ帰り道。 冷房の効いた図書館と外気との温度差に、早くも身体はじっとりと汗ばみはじめていた。夏休みも後半だというのに、中々暑さは衰えない。この間などは忍を呼び出したらぐったりベッドに平らになったまま暫く起き上がらなかったほどだ。身体が平らだから蒲団と一体化してしまったかと思った。鬼太郎みたいに。 伸ばしっぱなしだった髪こそ、先日火憐に引っ張られ月火に蹴飛ばされてようやっと梳きに行ったので、長さはキープしたまま多少はさっぱりしていたものの。 量が変わっても長さが変わらないと、暑苦しさには余り変化はないようで。 それは諦めざるをえないのだけれど。 自転車で風を受けている分には、幾分か涼しい。 失態を演じたのはそのときだった。 ちょうどそこは曲がり角。ややスピードを緩めながらハンドルを切った。 民家の塀の向こうに、その姿が見えた。 見えたと思ったら通りすぎていた。 「あっ」 ブレーキ音のあと、二人分の声が重なった。 やってしまった。 やったといっても、別に轢いたり撥ねたりしたわけではない。 「トゥララ木さん」 「僕の名前はそんなギャル服ブランドみたいな名前じゃない」 自転車を降りつつ振り返ると、そこには彷徨える小学生・八九寺真宵の姿があった。 「僕の名前は阿良々木だ」 「失礼、噛みました」 「嘘をつけ。わざとだろう」 「はさみました。むぎゅ!」 「どこで何を!?」 「阿良々木さんに聞かれるとなんだかいやらしいことをしているような気分になります」 「それは別に僕のせいじゃない」 「いいえ阿良々木さんの性です」 「そんな漢字を使うな!」 「サガと読んでください」 「僕の性はさもいやらしいことをしているように捉えられるような質問をすることだったのか!?」 「そのとおりです。とんだ変質者ですね」 ふふん、と八九寺は腰に手を宛てた。 「しかし阿良々木さん、珍しいですね。阿良々木さんともあろうお方が、私のようなロリロリ美少女に気づかず、剰え素通りしてしまうとは」 「ロリロリ美少女って。言ってて恥ずかしくならないか?」 「恥ずかしいのは阿良々木さんの性癖です」 「恥ずかしくない性癖などあるか! 自分の性癖を恥ずかしげもなく喧伝できるのは神原だけだ!」 「私も恥ずかしくありませんから、お教えしてもいいですよ」 「え、マジで。是非聞きたい」 「嘘です。鼻息を荒くしないでください」 八九寺は僕を避けるように一歩下がり、ジトッとした目で僕を睨んだ。 小学生にジト目で見られた。 そのことに対する心の動揺を解説するとイメージが悪くなるので、ここでは控える。 既に地に墜ちている僕のイメージなんて、今更墜ちたところでどうということもないと思われる向きもあるだろうが、案外二番底なるものも存在しかねないので、慎重にいきたいのだ。 まあ、話せばイメージが悪くなるようなことを感じていると述べた時点で、遅きに失している感は否めないけれども。 「分かった、分かったよ八九寺」 「何が分かったのですか? 阿良々木さん」 僕は自転車のスタンドを立て、八九寺が下がった分一歩踏み出した。 「何か違和感があると思ったら、出だしが悪かったんだ。今日はお前にこっそり忍び寄って背後から抱きしめたり頬擦りしたり匂いを嗅いだりといった一連のルーチンワークを一切行っていないからな、そりゃあ調子も出ないってものさ」 「流れ作業感覚で私にセクハラを働かないでください!」 「嘘だよ。毎回マンネリにならないように工夫を凝らしているよ」 「それはそれで嫌ですっ!」 「さて、今日はどうしてやろうかな」 両手の指をわきわきさせながら八九寺に迫る僕。 夕陽をバックにしているので、八九寺に向かって僕の影が長く伸びている。 防犯ポスターみたいな光景だった。 八九寺は背後の電柱にぶつかった。 「ひいっ! 割と本気で怖いですっ! 阿良々木さん! 逆光です!」 「そうだよな。正面から相対すると不意打ちとはまた違った怖さがあるよな」 勢いとかもあるし。今の自分の姿を想像すると、正直ぞっとしない。 引くわー。 「しかし困ったな、八九寺にセクハラできないとなると、僕はこの違和感をどうやって払拭すればいいんだろう」 「あ、分かりましたよ、阿良々木さん」 「何が分かったんだ。八九寺」 「今回は私が阿良々木さんにセクハラ行為を働くことにしましょう」 「えっ」 得たりとばかりに手を打った八九寺は、僕のズボンのベルトに手をかけた。 寸分も迷いのない動きだった。 「ちょ、ちょ、ちょ、ちょっとちょっと、いや、まずいよ、明らかに問題だよ、なあ絵的にやばいって、思いとどまれ八九寺、今なら間に合う。どうどう」 「なぜ止めるんですか? 阿良々木さんは受けだと小耳に挟みましたが」 「ロクでもねえこと挟んでんじゃねえ!」 「それともあれですか、羽川さんの仰っていたように、阿良々木さんはチキンなんですね」 「知らないところで色々評されてるーっ!?」 むろんチキンなる評価に関しては僕の知るところでもあるけれど。というか、一部の行動に関しては残念ながら自認せざるをえない。 「阿良々木さんに関する噂は色々と取り沙汰されていますよ、主に女子中高生の間で」 「一瞬喜ぶところだったが、何だか凄く不名誉な理由で噂されているような気がする」 「専らその発信源は神原さん、千石さんのようですが」 「いずれにしても僕のイメージは誇張されて伝わっているな……」 「何より阿良々木さんご本人より、ファイヤーシスターズでしたっけ? 阿良々木さんの妹さんたちとか、羽川さんとか、阿良々木さんの周りにいる方々が元々有名な方ばかりでしたからね、逆に有名人の周辺に見え隠れする謎の男として、様々な憶測とともに噂されているようです」 「次にお前が言いたいことは分かったぞ。僕には友達が少ないから、僕に関する情報が出回っていないんだとか言って蔑むつもりなんだろう」 「何でも阿良々木さんは身長一八〇センチでマッチョのイケメンで、女性は阿良々木さんの半径二メートル以内に近づいただけで妊娠してしまうという脅威のセックスモンスターらしいです」 「何だよ! 蔑まねえのかよ!」 「突っ込みどころはそこですか……現実の阿良々木さんの方がよほど危険かもしれません」 「何を言うか。この国で僕ほど人畜無害な男なんてそうそういないんだぜ?」 「そうでした、阿良々木さんは人畜さんでしたね」 「あるときは人、そしてまたあるときは獣。それが僕、阿良々木暦だ」 「日本語は難しいです……」 それで、と八九寺は切り替えた。 「ときに、阿良々木さんはどこからかのお帰りですか?」 「ああ、夏休みに入ってから、大学受験に向けて羽川に勉強を見てもらっているんだよ。その帰り」 「なるほど、プライバシー・レッスンというわけですね」 「僕の今までの成績に関してはプライバシー権を行使したいけれど」 「それではこの時間までお勉強だったのですね。お疲れさまです」 「まあ、今までの分を取り戻さなきゃいけないから、そうそう大変なんて言っていられないけどな」 「そうでしたか。でも頑張るものよいですが、何事もほどほどが一番ですよ。阿良々木さん、かなりお疲れなんじゃないですか?」 「そうかな? 頬がこけて顔が土気色をしているかい?」 「そこまでとは言いませんけれど、何となく精彩を欠くというか、普段のありゃりゃ木さんと比べると少し元気がないようにお見受けしたもので……すみません、今のはナチュラルに噛みました」 「え、わざとだろ?」 「借りました」 「返しなさい」 「では先日お借りしたナプキンを」 「貸してねえよ!」 そんなものに一生用はねえ! 「そういえば話は変わりますが」 「ああ、どんどん変えてくれ」 「最近阿良々木さんが背の高い女性と一緒にいるところをしばしば拝見するのですが、察するにあの方は」 「ああ、あれは」 「阿良々木さんのお母さんですか?」 「妹だよ! あれか、背が高いからか? 背が高いからなのか? 男子高校生なんて大概母親の背なんて抜かしてるよ!」 「それはそれは、失礼しました。いえ、殿方が恋人以外の女性と仲睦まじく腕を組んで歩いていらっしゃるということは、これはご家族の方であろうかと思いまして」 その推測もどうかと思う。 どうかと思うけれども、的を射てはいる。 かと言って八九寺が考えうる限りの――つまり男性が恋人以外の女性と腕を組んで歩くという状況の――パターンから、適切なものを選択したのかといえば、怪しいところだった。 もっとも僕のごとき一介の男子高校生が起こしうる状況なんて高が知れていたけれど。 何だか嵌められた気分だ。 「そうですか、妹さんでしたか。しかし、阿良々木さん、以前伺ったところによると、確か阿良々木さんは妹さんたちと余り仲が宜しくないのではなかったですか? 少なくともお聞きする限りでは、仲良く腕を組んで歩くような間柄ではないと思っていましたが」 「ううん、なんだ、でっかい方とは最近はちょっと仲良くなったんだよ」 「左様ですか。何かきっかけでもあったのですか? 胸を揉んだとか」 「何で妹の胸を揉んで急に仲良くなれるんだよ」 「質問に質問で答えるということはつまり、答えるのに都合が悪い質問というわけですね。このような場合、阿良々木さん、あなたはかなりの確率で妹さんの胸を揉んでいます!」 ドーン!!! 名探偵みたいな追い詰め方をした割には、指を突きつける姿は笑ゥせぇるすまんみたいだった。 「ふふん、八九寺、お前一人っ子だから知らないだろうが、兄弟姉妹のいる家庭では、妹の胸を揉むなんて日常茶飯事なんだぜ。僕なんか胸で手を揉まれたこともあるくらいだからな」 「言葉の並びが何やら気持ち悪いです」 「そうだな」 即答する僕。 色々と差し支えある行状の中にも、差し支えない範囲で行われた兄妹間のスキンシップにおいて、必ずしも僕が受動的であったとは限らない。 月火が胸で僕の手を揉んできたこともあったけれど、僕が月火の胸を触ったことももちろんある。 当然ある。 兄として許されている侵すべからざる権利の中には、妹の胸は触り放題という項目が存在するのだ。 「ほら、八九寺、お前って僕の妹分的なキャラだから、僕にはお前の胸にも触っていい権利があるんだぜ」 「それは寡聞にして存じ上げませんでした……」 「そうか、だったら今後はよく覚えておき、妹分としての義務を実行するんだな」 「では阿良々木さん、ご存知ですか? 妹分には兄貴分に好きなだけ噛みついていい権利があるのです!」 カッ! と八九寺は口を開いた。 ジュラシックパークみたいな奴だ。 ワニワニパニックかも。 挟まれたときの痛みは比較にならないが。 あ、挟むってこのことか。 「オーケー八九寺、今日のところは僕は権利は行使しないことにするよ。だからお前の権利も遠慮してくれないか」 「なるほど、ギヴミーチョコレートというわけですね」 「戦後かよ」 等価交換というより冷戦って感じだけど。 「まあ、確かに私は一人っ子ですから、こと兄弟との付き合いに関してはご兄弟のおられる阿良々木さんの経験と知識に及ぶべくもありませんが。お話を聞いていると、阿良々木さん、やはり以前は妹さんと腕を組んで歩くようなご関係ではなかったようですけれど、急に仲良くなったということはやはり、何かご心境に変化でもあったのですか?」 「んん、変化といえば変化なんだが」 一転僕は腕組み。 別に噛まれないように手を隠したわけではない。 「まあ、お前になら話してもいいか」 「何ですか、随分と勿体振りますね」 「僕、実はシスコンなんだ」 と僕はキメ顔で言った。 「知ってます」 「いや、意外に思う気持ちは分かるよ。僕って結構ドライだし、家族との関係も、まあかなり淡白だし? 小うるさい妹らなんて鬱陶しい以外の何物でもないし? 実際喧嘩だってしょっちゅうだし、そんな僕がシスコンだなんてえー、えーっ、何で知ってんの!?」 「ノリ部分が長いです」 八九寺は冷たい目で答えた。 冷たいっていうか、冷めたっていうか。 埋めたいっていうか。 何、こいつ。キモいんですけど。埋めたい。 みたいな。 「そんなのお話を伺っていればすぐに分かります。私と初めて会ったときだって、妹さんたちと喧嘩してどえらく落ち込んでいらっしゃったじゃないですか。妹とちょっと口喧嘩したくらいでこの世の終わりみたいに落ち込んでしまうなんて、筋金入りのシスコン、妹大好き人間に違いありません」 分かりやすいにも程があります。八九寺は小馬鹿にしたような目で僕を斜めに見た。 どうしよう。 隠し果せている気になっていた。 ていうか自分でも認めていなかったのに、僕はそんなにあからさまなシスコンだったのか。 つまり、こういうことか。 僕は、羽川にも忍野にも忍にも戦場ヶ原にも神原にも千石にも、妹関連の話題を口にしたことがある人には全員からシスコンだと思われていたということか。 いや、千石は過剰なまでに僕を買い被っているから、除外してもいいかもしれないけれど。 ……何のフォローにもならねえ。 「いやさ、実際僕、自分をシスコンと認めたのって結構最近なんだけど、そっか、僕ってそれ以前から緩まず弛まず絶え間なくシスコンだったんだな……」 ショックだわー。 「いいじゃないですか、シスコンの何が悪いというんですか? 世の中には仲が悪くて口もきかないようなご家庭が沢山あるというのに、ご自身の家族が大好きだなんて素晴らしいことです。誇っていいと思います」 「そうかな、僕シスコンでもいいかな」 「もちろん、ロリコンより百億倍もマシです」 間。 八九寺は満面の笑みから、わざとらしくハッとし、両目を見開いて口に手を宛てた。 「私としたことが、阿良々木さんはロリコンでもありましたね!」 いっけねえ! 八九寺はウインクしながら舌を出すという、ガハラさんの中の人が某ちびっ子先生アニメのオープニングでやっていた高等テクを行った。 疑問に思われる方は鏡の前で試してみるといい。 できるけどやってはいけないことが分かるから。 「あははははははは! シスコンでロリコンって……あっははははははは! 阿良々木さん気持ち悪いです! お腹が捩れますー! うひゃひゃひゃひゃひゃ!」 「笑いすぎだー!!」 「今後は阿良々木さんのことをシリコンとお呼びしますね」 「人を便利なキッチン用品みたいに言うな! 僕の名前は阿良々木だ!」 「失礼、馬鹿にしました」 「てめえこの野郎!」 斯くして、男子高校生と小学生女児による本気の取っ組み合いが幕を開けた。 掴みかかる僕に前蹴りを放つ八九寺。僕は股間を狙ってきたそれを右にいなし、足首を捕らえた。 「なっちゃいないぜ八九寺! パターンなんだよォ!」 「馬鹿の一つ覚えはそっちですっ!」 八九寺は足首を掴まれると同時に自ら跳躍し、掴まれた右足を支点に自由な左足でハイキックを見舞ってきた。リュックサックを背負っているからか、落下を恐れぬ大胆な攻撃である。僕は不意に重くなった右手にややバランスを崩し、咄嗟に左手でのガードを余儀なくされるも、軽いとはいえ体重の乗った一撃を防ぎきれず、スニーカーの爪先を顎に食らってしまう。 しかし悲しいかな、同じくらいの体格であればそれなりのダメージを見込めたであろう一撃でも、そこは高校生と小学生の差は埋めがたく、僕を怯ませるにも至らなかった。僕はガードした左手でそのまま八九寺の左足首を捕らえた。 「しまりました!?」 「観念するんだな!」 経過をおさらいしよう。まず、向かい合った状態から、相手の右足の前蹴りを身体の右側に流し、右手で掴む。掴まれた右足を軸に放たれた左足の蹴りを左手で捕らえる。 するとどうだろう。 近所のお兄さんが逆立ち歩きを支えてあげている微笑ましい光景のようではないか。 「全然微笑ましくありません! これはただの逆さ吊りですっ!」 「そういえば手がついていなかったか」 しかもスカートは強風に裏返った傘状態、ツインテールは史上最大のロボットの角と化しているし、大きなリュックサックはずり落ちて巨大な頭のようになっている。 つまりは男子高校生が小学生女児を逆さ吊りにしている光景であった。 「そっちがその気ならこうです!」 八九寺は腹筋で上体を起こすと再び僕のベルトに手をかけた。 「こ、こらやめろ八九寺、この状態で更にズボンなんて下ろしてみろ! まるで僕が小学生女児をその毒牙にかけようとしている性犯罪者みたいじゃないか!」 「阿良々木さんの姿は既に犯罪者そのものです!」 「しまった! 手が塞がっているから阻止することができない!?」 ベルトが外され、ジーンズのボタンに手をかけられたところで、僕は手を離した。 「きゃう!?」 「なあんだ、手を離せばいいんじゃーん」 ふう。 ひと息ついて、僕はベルトを付け直した。 地面に伸びた女の子の前で着衣を直していると、より一層心象の悪い光景に見えてしまうかもしれなかったのだけれど。 まあ、誰も見てないし。 「誰も見ていなければ何をしてもいいとでも仰るんですか!?」 「まあ、誰も見ていなければ妹の名前が書いてあるアイスだって僕は食べるけど」 「今の阿良々木さんならアイスを食べている妹を食べるくらいのことはしそうですっ!」 「そんな消化不良を起こしそうなことはしないさ。むしろあいつらの方こそ、常日頃から人を食ったような言動が目立つかな」 「上手いこと言われましたーっ!」 「はて、何の話だったか」 強引に仕切りなおす僕。八九寺も立ち上がって服を払う。 「確か、阿良々木さんがシスコンだというお話では?」 「ああ、そうだった。かくかくしかじかのことがあってだな」 「読んで確かめろということですね……」 「あ、馬鹿! 下巻の方じゃねえよ!」 そっちを読まれるのは致命的だ! 「はあはあ、ほうほう、なるほど。よく分かりました。地の文すら使わずに経緯の説明を終わらせることができるとは、便利な世の中になったものですね」 「はっはっは、全くだよ」 「左様ですか、阿良々木さんは例のごとく格好いいことをして妹さんに対する兄の威厳とやらを回復せしめたわけですね」 「物分りがよくて何よりだ。それ以来火憐ちゃんは僕にべったりなのさ」 「一緒にお風呂に入っちゃうくらいですか?」 「入……らねーよ。さらっと言うなよ、勢いで肯定しそうになっただろ」 「阿良々木さんともあろうお方であれば、それくらいのことはしても不思議ではありませんから」 「お前は僕のことをどういう目で見ているんだ……」 「認識するという意味ではシリコンです。具体的にはジト目、もしくは生暖かい目で見ています」 「正直にありがとう」 どうやら僕は八九寺の中では珪素生物として消化されているらしい。 サイバーパンクなんて僕とは対極のジャンルだけれども。 アニメ版の広漠とした感じの背景はちょっと似てるし。 出版社も同じだし。 その内萌え化とかしちゃうんじゃないかな。 化物語学園アンドソーオン! とか。 でもこれ既に学園モノだったか。 「しかし、まあ、繰り返しますけれど、ご家族が仲良しで大変結構なことです。シスコンの阿良々木さんには言うまでもありませんが、今後も大事にしてあげてくださいね」 「ああ、舐めるように可愛がるよ」 「それでこそ立派なシスコンです」 八九寺は僕の腕時計を覗き込んで、ああ、もうこんな時間ですか、と言った。 「シスコンの阿良々木さんはそろそろお帰りになった方がよろしいかと。きっとお家で妹さんたちがシスコンのお兄さんを心配していますよ」 「そろそろシスコン呼ばわりも飽きてきたぞ……でも確かに、立ち話にしちゃ長居し過ぎてしまったかもな」 「では、私もお暇させていただきます。阿良々木さん、シス!」 「コン!」 謎の挨拶を交わし、僕たちは夕暮れの住宅地を反対方向に向けて歩き出した。 |
2010/09/21