こよみフラワー

02

「ねえ阿良々木君、最近、どうかな?」
 トーンを抑えた声。
 図書館。
 隣の席に座った羽川は眼鏡をかけていない。
 三つ編みですらない。
 文化祭後の自称「いめちぇん」以降、我らが愛しの眼鏡委員長は、眼鏡はコンタクトに替え、三つ編みは下ろしてセミロング、見事眼鏡委員長から普通委員長へとジョブチェンジを果たしていた。ファイアマリオからスーパーマリオになったようなものだ。全くの余談になるが攻略本か説明書で「スーパーマリオ」が「なんでもよい状態」と記されており、なぜだか非常にやるせない気分になった記憶があるのだけれど、眼鏡と三つ編みという二大属性を放棄した羽川を見て僕がどんな気分になったかというのは、仔細あって僕には口にする資格がないのでさておく。
 首から下に視点を移すと、そこはやはり夏服、つまりは制服のままだ。
「何だよ羽川、藪から棒にさ。毎日会っているじゃないか」
「ただの雑談じゃない。毎日会っているとは言っても、メインはやっぱり勉強だからね。私と勉強している以外の時間の話よ」
 羽川は鼻筋に手をやり、眼鏡をかけていないことに気づいてややはにかんだような顔をした。
「それからね、阿良々木君。人と話すときは、胸ではなく目を見て話すのが礼儀だと思うな」
「何を言ってるんだ羽川、僕は確かにお前の胸を見ていたかもしれないけれど、決してピンポイントで胸を見ていたわけではなく、お前の首から下を視界に入れたときにやむをえずその範囲に胸も含まれてしまったということに過ぎないんだぜ」
「凄い開き直りだね……ちょっと感心した。じゃあ訊くけど、阿良々木君、どうしてそんなに熱心に私の首から下を見ているのかな?」
「いや、ほら相変わらず制服なんだなあと思ってさ」
「それを言うなら、それこそ毎日会っているじゃない」
「毎日会っているからこそだよ。僕ですら、まあ大して変わり映えはしないだろうけれど違う服を着てるっていうのに」
「あはー。そうだね、私阿良々木君の夏の私服ローテーション、ちゃんと覚えてるよ。月曜日から順にグレーの半袖パーカー(フルジップ)、臙脂の半袖パーカー(ラグラン)、黒の袖なしパーカー(プルオーバー)、オレンジの半袖パーカー(ライン入り)で、グレーに戻ってくるんだよね?」
「僕の私服ローテーションが一週間より短いのを把握されている!?」
「阿良々木君、結構明るい色の服も持ってるよね。インナーも時々凄く派手だし。よく見えなかったけど全面に英字がプリントされた……」
「見せたくなくて暑くてもジッパー全部閉めてたのに!」
「それで」
 委員長は微笑んだ。
「最近どう?」
 僕の疑問は流される形となった。言外に訊くなと言っているのかもしれない。
 しつこくして万が一羽川に嫌われたら僕は生きていけないので、好い加減にしておくのが賢明というものだろう。
「そうだな、えっと誰だっけ、あれ、どっかの作家が自分の本の売れ行きを気にして出版社にクエッションマークだけ書いた手紙を送ったら、エクスクラメーションマークが返ってきたって話、あんな感じ」
「ユゴーだね。上々っていうところかな?」
「そうだったっけ、いやあ、お前は何でも知ってるなあ」
 念のために付け加えておくけれど、今現在僕達は小休憩中。図書館といっても自販機前の休憩スペースで雑談をしている――決して館内でいちゃついて静寂を乱しているわけではない。
 羽川はにこっと笑い、僕のフリをスルーした。
 実に華麗だった。
「でもそれじゃあ話が終わっちゃうね……ごめんごめん、私の訊き方が悪かったね」
「お前に謝られるとわけもなくいたたまれない気持ちになるな。お前が悪かったなんてことあるわけないだろ。話が続かなかったのは曖昧な知識を披露してお前に例の台詞を言わせようとした僕が悪いんだ。お前がほんの一ミリでも悪いなんて言ったら、世界中の乳幼児からお年寄りまで老若男女余すところなく全員極悪人になっちまう」
「何よそれ、買い被りすぎ。買い被りすぎて嫌味になってるよ、それ」
「まあ、その辺は置いておいて。そうだな、上々っていうのは間違いないよ。勉強も捗ってるし、ここ数年で最も充実した夏休みを送っていると言っても過言じゃない。ああ、お前に言われて使いはじめた単語帳な、あれ、今までちょっとバカにしてたけど、案外いいもんだな。自分で作るから結構印象に残るし、持ち歩いてどこでも見られるし。暗記もどうにかなりそうだよ」
 ついでに言うと単語帳の一つが神原特製の淫語帳にすり替えられていたときは本当にどうにかなるかと思った(犯人は火憐)。
「それは何よりです。阿良々木君、暗記だけは本当に苦手だものね」
「ああ、公式と違って一つ覚えたら他の問題も解けるってわけじゃないからな……って前も言ったか」
 そうだね、と羽川は紙コップのレモンティーを啜った。
「……その、戦場ヶ原さんとはどう? 上手くやってる?」
 咄嗟に下ネタで返しそうになってしまったのを、脳内で僕の善の象徴である天使の羽川が悪の象徴である悪魔の戦場ヶ原(共にヴィジュアルイメージはイメチェン前)を土下座させるイメージが再生されたために思いとどまる。
「うん、それはもちろん。時々あいつの毒舌が懐かしくなることもあるけれど、正直今僕に戦場ヶ原について語らせたらほとんど惚気しか出てこないぜ」
「本当に? 聞いてみたいな、阿良々木君の惚気!」
「いや、あの、マジで勘弁してください」
 羽川に戦場ヶ原の惚気話を聞かせるなんて本当に悪い冗談以外の何ものでもない。それを聞きたいという羽川の神経も理解に苦しむが、羽川の場合本心から聞きたがっていそうだからかえって性質が悪いのだ。
「それは残念。じゃあまたの機会ということで、よろしくね」
「いや、ねえから」
 屈託なく笑う羽川に僕は底に一ミリくらい残ったコーヒーを啜ることしかできなかった。
「それじゃあ、妹さんたち、火憐ちゃんと月火ちゃんとはどう? ちゃんと仲良くしてる?」
「ちゃんと、とは失敬だな。もちろん仲良くやってるさ、あいつらも休みの割には意外と大人しくしてるし、せいぜい揉めるのはチャンネル争いくらいだよ」
「うんうん、ちゃんといいお兄ちゃんしてるね」
 抜かった! 携帯の電源が入ってさえいれば、今の羽川の発言を録音して「お兄ちゃん」部分を抽出して着ボイスに登録することができたのに!
 夏休みに入って以来最大の失態だ。
 明日からはICレコーダーを用意しておくべきかもしれない。
 幾らくらいするんだろう。
「……阿良々木君、今何か邪まなことを考えたでしょう」
「横縞? 確か神原はそういうパンツの柄について一家言あると言っていたけど、僕の好みから言わせてもらえばやっぱり清楚な無地がいいと思うぜ」
「じぃーっと見てたものね」
「妹の話だったっけ」
 強引に仕切りなおした僕を、羽川は数秒間ジト目で見ていた。コンタクトだから完全ではないとはいえ、眼鏡越しではない裸眼の視線が突き刺さるようだった。
 僕はどうして最近こんな目にばかり遭っているのだろう。
 まあ、僕が悪いのだけれど。
「そうだね、特に火憐ちゃんと仲がいいんだって? 月火ちゃんから聞いてるよ」
 急に胃が痛くなってきた。
 忍、ごめん。
 これでも痛み慣れしてきているはずの僕なのだけれど、内臓の痛みはいかんともしがたい。外面的な痛みは冷やしたり塗ったり覆ったりで多少改善されるが、内面の痛みは撫でてもさすっても横になって安静にしても大した効果がないのだ。
 ましてやストレス性である。鉄血どころか鉄の胃袋さえ持つ忍でさえ具合を悪くするのだから、こればかりは自分を恨むしかなかった。
「どうしたの? 顔色がよくないよ。お腹の具合でも悪いの?」
「え、そうか? 冷房で冷えちまったのかもな」
「さすってあげようか?」
「大変魅力的な申し出だけれど、謹んで辞退するよ……これ以上僕に罪悪感を抱かせるのはやめてくれ」
「……どうして私にお腹をさすられることで罪悪感が芽生えるのかは訊かないけど、もう一つ阿良々木君が既に抱いている罪悪感って、何のことかな?」
 僕のバカ。愚か者。僕を罵る戦場ヶ原の活き活きとした姿が目に浮かぶようだった。
 しかしそんな戦場ヶ原の姿は二度と見られないのだと思うと、やはり一抹の寂寥のようなものを禁じえない。
「あー、いや、高校生最後の夏休みという貴重な時間に羽川ともあろう者を独り占めしていることに対して、かな」
「何を言っているのよ、阿良々木君。阿良々木君以上に私を必要としている人なんて、それこそ世界中を探してもいないわよ」
「真顔でそういうことを言われると形無しだよな」
 羽川は腕時計を見ると、レモンティーを飲み干した。
「そろそろ戻ろうか」
「ああ、そうだな。充分休んだし」
 助かった。この話は切り上げだ。時間よ、ありがとう。
 休憩時間の終わりをこんなに喜んだことが、かつてあっただろうか。
 某博士。
 某吸血鬼。
 彼らに続く第三の、時に関する名言を、僕はここに残したい。
 時間よ、ありがとう。
「ところで、戻る前に一つ訊きたいんだけどね、兄妹ってどこまでアリだと思う?」
「時間! お前の実力はそんなものだったのか!?」
「阿良々木君?」
 時間とは残酷なものである。
「……何だよ羽川、藪から棒にさ」
「ほら、私って一人っ子でしょう? だから兄弟っていう肉親の、距離感っていうのかな、そういうのがよく分からなくて」
 朗らかな顔をしてはいるが、羽川はおそらく月火から何か相談を受けたのだ。でなければそれこそ藪から棒にこんなことは訊かないだろう。最近の月火の様子を思えば、核心には迫ってはいないだろうけれど(想定外過ぎて)僕と火憐の仲がよすぎることに、そしてそれが急によくなったことに気づいているのは明白だ。探りを入れるように頼むくらいはしていても不思議ではない。
 羽川の勘は鋭い。
 異常に鋭い。
 電話越しに空気の層の違いを察知されたときには鳥肌が立ったものだ。
 そしてまたしても。
 今回も。
 火憐絡みとは。
 月火の奴はまだまだ本当の羽川というものを充分に理解していない。
 羽川は確かに、妹達より年上だ。
 羽川は確かに、大人びている。
 羽川は確かに、落ち着いている。
 けれど。
 だけれども。
 羽川翼という人間は、根本的なところで、妹達と同じなのだ。
 羽川は常に正しい。
 そして。
 決して。
 いつも強いわけではない。
 それはそのせいでとんでもない恐怖と絶望を味わった僕が保証する。
 思い出したくもない。
 春休み。
 当時の記憶が証明する。
 羽川翼は恐るべき人間マッチポンプである。
 僕と火憐が抱えているのは確かに問題なのだけれど。
 あくまでこれは僕ら二人の問題だ。
 大っぴらにしていいことなんて一つもない。
 悪いことしかない。
 もちろん、当然、当たり前のことながら、悪いのは僕だ。一切の責任はこの阿良々木暦というアホのしでかした壮大なまでにアホな行為による。百パーセント自分の非を認める。
 認めるけれど。
 どこまでもこれは、僕らが解決する問題であって。
 墓穴まで持っていく秘密だ。
 こと、この件に関しては、羽川の出る幕ではない。下手を打てば、勘当、離婚、家庭崩壊、一家離散、人生の終わりである。気が遠くなるほどぞっとしない。ないない尽くし。
 阿良々木暦。
 ここが正念場だ。
 これは人生の岐路だ。
 これに比べれば受験勉強なんて忍の胸くらい取るに足らない。
 瑣末事である。
 つまり無いに等しい。
「なるほどね、で羽川、お前の言うどこまで、っていうのは、具体的にどういう距離のことなんだ?」
「具体的か、そうね、これは聞いた話なんだけれど、ある人は自分のお兄さんとは口を利かないどころか目も合わせないって言うし、別の人は平気で手を繋いで外を歩けるって言うのよ。そういう話」
「それは個人差だろうなあ」
「じゃあ、消去法で質問していくね」
 僕を追いつめる気か!
「あれ、また顔色悪くなったよ」
「急に立ち上がったからじゃないかな」
「血圧の低い吸血鬼なんて聞いたことないけど……」
「世の中にはお前の知らないこともあるさ」
「うん、それはそうだね。では、始めます」
 できればやめて。
「妹と手を繋いで外を歩ける」
「まあ、たぶん、平気」
 羽川は眉一つ動かさない。
 この質問妹オンリーなんだろうな。
「妹と一緒に買い物に行ける」
「それは普通に行く」
 随分ソフトな質問から始まってはいるけれど、羽川のことだから想定できるあらゆる質問を用意しているのではないだろうか。いつ際どい質問が飛び出してくるのだろう。堪ったものではない。
「妹の裸に何も感じない」
「感じるわけねえだろ」
 これはほとんど本当だから自信を持って言えるな。
 ほとんどというか、半分というか。
 ある意味というか。
「妹と同じ蒲団で寝られる」
「邪魔っけだろうが無理じゃないな」
「同じ箸を使える」
「それは兄弟に限った話じゃないだろ。赤の他人でも平気な奴もいれば、恋人でも嫌だって人もいるし」
「阿良々木君の感覚でいいよ」
「じゃあ全然アリ」
「ふむ。では……同じ歯ブラシを使える」
 際どいのきた。
 狙ってやっているのかとこっそり羽川の表情を窺うも、変わった様子はない。ちょっと前の戦場ヶ原並みの鉄面皮を保っていた。
 内心に動揺があるとすればの話だけれど。
「おそらく虫歯になる心配のなくなった身からすれば、別に平気だな」
 吸血鬼補正があるからな。
「一緒にお風呂に入れる」
「でかい方と入るのは邪魔そうだな……非常時でなければナシ」
 嘘、一個目。
「あ、初めてナシが出たね。途中結果を纏めると、裸が限界でお風呂はアウトっていうことだね」
「途中って……まだ続けるんだ……」
「続けるわよ。統計を出すにはまだデータが不十分でしょう?」
「お前はほんと、妥協しないよなあ」
「そうでもないけれどね。では次の質問です。妹とキスできる」
 羽川の背景に月火の影が見えるということは、その質問は鬼門だ。
「別にいいんじゃねえの。ノーカンだろ。妹なんて」
 これは嘘ではないはず。
 欺瞞ではあるけれども。
「妹の胸なら触っても問題ない」
「ないだろ。実際」
 月火に関しては全くなかったと言えよう。
 妹が二人いたからこそかわせる質問も増えるというもの。
 これほど月火の存在に感謝したことはなかった。
 生まれてきてくれてありがとう。
 愛してるぜ月火ちゃん。
「近親相姦に関する倫理的な問題は避妊によって解決する」
「羽川さん!? 具体的すぎない!? ねえ、羽川さん!? 今通りかかった利用者がぎょっとした顔で見たよ!?」
「阿良々木君、受験生としての君に忠告するけれど、疑問文に疑問文で答えたら零点になっちゃうよ?」
 悪かったよ。
 アホが一人登場したよ。
 もちろんそれは僕だよ。
「……さてね、考えたこともなかったけれど、それはたぶん詭弁だと思うぜ。悪いから悪いっていうどうしようもない常識ってものがあるだろ。もちろん時代や場所、文化が違ったらなんてナンセンスだ。確かに近親相姦の弊害は、植物にさえ忌避されているくらいだから、子孫のため、つまり生殖の問題だ。だからってデキなければOKっていうことにはならないよ。生物的にどうとか、生殖がどうとかいう話じゃなくて、僕達が生きているのが現実にこの日本で、日本の常識の中だってことが問題だからな」
「うん、興味深い意見だね。理屈で説明しきれないタブーって、文化として考えれば沢山あるものね。私個人としては、まだまだ議論の余地があると思うけど、阿良々木君の意見は常識的な範囲内で健全だね。馴染みやすい、安心できるっていうのかな」
「そりゃどうも」
「じゃあ、つまり、阿良々木君は火憐ちゃんとは全く何もないんだね」
「羽川……質問の意味が」
「あはー、実はね、白状しちゃうけど私月火ちゃんに、阿良々木君と火憐ちゃんが仲よしすぎて怪しいから、探ってほしいって相談を受けていたのよ。でも、月火ちゃんの杞憂みたいだね。私は別に疑ってないけれど、阿良々木君はちゃんと常識的な考えができる人でした」
 羽川は永久凍土ですら溶かしてしまうようなとびっきりの笑顔をくれた。
 正直、グッときた。
「……そりゃあな」
 吸血鬼の回復力というものは、胃酸過多によって傷んだ胃壁すらも修復できるものなのだろうか。
 そうでなければ。
 忍、マジでごめん。
〈怪異殺し〉と死合ったときも、神原(もとい、レイニーデビル)にはらわた引きずり出されたときも、影縫余弦にボロ雑巾にされたときも、果たしてここまでの痛みを感じていただろうか。
 存外、死闘を繰り広げているときはアドレナリンだか何だかが働いてそれほど痛みは感じていなかったような気がする。
 肉体が興奮状態にないときの痛みは、どうしようもなく痛い。
 僕は羽川に心を開いているつもりだ。
 その羽川を騙している。
 他の誰でもない、羽川翼という人物を騙している。
 その事実は剥き出しの僕の心を容赦なく抉るのだ。
 痛い。
 自業自得だ。
「興味深いと言えばね、火憐ちゃん、阿良々木君とは過程は一緒なのに真逆の結論を出したのよ」
「……は?」
「つまりね、阿良々木君の言葉を借りるなら、それは生殖に係わる問題だから、避妊していればOKって。火憐ちゃんはそう考えるみたいだよ」
 羽川は数歩で紙コップをゴミ箱に捨て、まっすぐに戻ってきた。
「それとね、阿良々木君のこと好きかって聞いたら、大好き、だって」
「そりゃ……あ、そう」
「仲がいいのは何よりだけどね……こんなこと心配するようなことじゃないんだけれどね、阿良々木君が妹さん達のことを大切にしているのは本当だもの。でも、火憐ちゃんって、私がいうのも何だけども、少し暴走しやすいっていうか、思い込みが激しいところがあるから、阿良々木君、ちゃんと注意してあげなきゃだめだよ。たった一人のお兄ちゃんなんだからね」
 じゃあ、ほんとに戻ろうか。
 そう言って羽川は踵を返した。

2010/05/20-08/25