イロモノガタリ

第三話

こよみフラワー

01

 すっかり習慣づいたスケジュールに従って早起きをし、朝食前の課題をこなしていると、不意に一つ、部屋の中に気配が増えた。
 誰かが侵入してきたわけではない。
 むしろ侵出してきたのだ。
 僕の影の中から。
 音もなく。
「……なんだ忍、僕は今勉強中なんだが」
 横目にベッドに上がる忍の姿が映る。上がるというより登る感じではあったけれど。
 何せ百八十はあった身長は、今や僕の胸にも届かない。揺れる部分も一切ない。
 幼女から童女へと僅少なる変身を遂げた程度の見た目年齢である。
「何じゃジロジロ見おって。儂の身体でも狙っておるのか? お前様の趣味は十五歳くらいの背の高い娘ではないのか?」
 僕は目を逸らして無言でペンを動かした。
 正確には動かす振りをしていただけだったけれども。
「まあ馬鹿じゃ馬鹿じゃとは思っておったが……勢いに任せてと言うても途中から開き直っておったようだしの。お前様?」
 何をどう答えろと言うのだろうか。
 朝方のまだ涼しい時間帯だというのに汗が流れている。
 脂汗だった。
「……何が目的だ」
「はて。目的じゃと」
 せせら笑うかのような視線が小さな頭から降ってくる。ああ、見下されている。見た目年齢七歳くらいの忍に見下されている。確かに質問されているのは僕の方だ。はっきり言って弁解の言葉はあれどもこちらから訊くような立場ではまるでないのだ。
 というか弁解の言葉などそもそもないのだけれど。
 どうせよと。
「まあ儂としてはの、お前様に意見できるような立場でもないし、むろんお前様は儂の言葉なぞ何の気もかける必要はないのじゃからな、これも単なる戯言、戯れと聞き流してくれて構わぬのじゃが、ちょいとここは一つお前様の寛大なる懐を見込んで言うてみると」
 横目に見た忍は何かこう感じの悪い笑い方をしていた。
 凄惨というか。
「お前様と感覚の繋がっている儂のことも少しは考えてほしいものじゃな」
 感じ悪いのは僕だった。
 もはや誤魔化しようもなく机に突っ伏す長男。
 負傷、いや不肖の兄である。
「はん。我が主殿にも些か良心が残っていたと見える。もっとも儂が人間の倫理に口出しするというのも、詮無い話というか、無為なことではあるがの。この辺りはお前様の悪い癖がうつったやもしれぬのう。何にでも嘴を突っ込むと思うてはいたけれども、まさか突っ込むにしても妹に」
「お前の口から下ネタは聞きたくないな!」
 忍は口の端を歪めて豊かな髪をかきあげた。見た目は幼女でも動作は大人のそれである。忍の見た目と言動の不釣合いさはさながら自家撞着を体現しているかのようで、目の当たりにするこちら側としては何とも胸に痛いものだった。
「これはこれは。失礼をした我が主。とは言えの。思うてもみい。気持ちよう眠っていたところへあの手の刺激を斯様な未発達の肉体に加えられるなどと、嫌がらせ以外の何物でもなかろ。まあ、逆よりはいいかもしれぬがのう」
「それがどの逆を指しているのかは分からないけれど、どんな逆であれ勘弁していただきたいな……」
「ふむ。物分りのよい主殿で助かるわ。別にお前様がどこでナニをしようが結構じゃが、己の影の中に哀れな下僕を飼うておるということを記憶の端に留めておいてほしいものじゃの」
 繰り言よ。気にするでない――忍はベッドを下り、僕の横に立った。
「十個じゃ」
 下僕と言いつつ主人のごとく振舞う元主人は、どうやらドーナツを要求しているらしい。
「……それはまた寛大なご処置で」
 言いつつ僕は自分の髪を撫でつけるようにした。側頭部から始めて頭頂、後頭部と、一見ナルシスティックだが丁寧に撫でていく。
 忍はすぐに意図を察したらしく、抗議めいた目つきで小さな拳を握った。
 感覚を共有、とは言うけれど、それはあくまで僕から忍への一方通行である。つまるところ、立場とか主従とか、そういった要素は重要ではなく、この感覚のフィードバックさえあれば僕は、その気になれば容易く忍に対して主導権を握ることができるのだ。悪用するつもりはないけれど、これくらいなら可愛いものだろう。
 少しずつ忍の表情が変わっていく。そもそも頭を撫でるのは服従の儀式らしいけれど(主従が逆転しているように感じるのは所詮人間の常識からの観点でしかないのだろう)、もとより頭部は、頭が下がるとか頭が上がらないとか頭を用いた慣用句が多種多様にあることからも分かるが、感覚器官や脳の詰まった重要な部位であり、それを相手の自由にさせるということはその相手に気を許していなければできないことなのだ。そこに交わされるのが信頼であれ愛情であれ、その行為は双方にとって心地よいものであるはずだ。
「……お前様よ」
「なんだよ。僕はただ自分の髪を触ってるだけだぞ」
 つまりこういうことができるわけだ。
 相手に触れずして念入りに頭を撫でてやると同時に、全然そんなことはしていないと言い張れる。
 という行為に別に大した意味はないのだけれど、幼女に上目遣いで睨まれるというのも中々乙なものだった。
 しまった。これではまるっきり僕がロリコンの変態みたいじゃないか。
 不名誉だな。
 僕は頭を撫でるのを中止した。
 その代わり耳を撫ではじめたのだが。
「分かった! ……うう……分かったわ。取引はせぬ。やめるやめる。ドーナツも諦める! だからその手ひゃっ!」
 忍の貴重な悲鳴が聞けたのは僕が指を突っ込んだからに他ならない。
 自分の耳にである。
「へえ。お前でもそういう声出すんだな」
「こういうのをセクハラというのじゃ。セクハラと」
「ここに性的な含みを見いだせたのなら僕も立派なロリコンだよ」
 耳を押さえて頬を膨らせる忍は確かに可愛らしかったけれど、それはあくまで親が子に感じる気持ちと同種の感情であって、もっと言うならメリハリボディにしか興味のない僕がつるぺた幼女に対する感想なぞ所詮そんなものなのである。
「ちょっとばかり童貞を捨てたからと言うて調子に乗りおって……覚えたての猿か」
「なんだとう」
 僕は再び耳に手を伸ばしたが、いまだかつて類を見ないほどに丁寧に丁重にいやらしく撫で上げる寸でのところで、忍は慌てて僕の向こう臑を蹴った。
 力の限り。
 桜花発進である。
 果たしてそこには脚を押さえて悶絶する男子高校生と金髪ロリータがいた。
 誠に遺憾ながらそれは僕らだった。
 共倒れを選ぶとは見上げた根性だ。伊達に五百年も生きてきたわけではないということか。
「……いや、僕も悪かったよ。気がつかなすぎたというか……あればっかりは何とも言いわけできないけれど、これからはもっとお前のことを考えて行動するさ」
 今更こいつに対して恥じらうことなど何もないのだけれど、よく考えてみると遍く僕の感覚が全て余すところなく忍に伝わっているというのは、僕にとってはプライバシーがないも同然なのだ。
 恥ではないけど、別に忍に僕の感覚が伝わるのは恥ずかしくも何ともないのだけれど。
 夜の生活まではなあ。
 伝えられるのも堪ったものではないだろう。
「それに、別に何にもなくたってドーナツくらいならたまに買ってやるよ」
「ほう。それはよい心がけじゃの」
 ふんぞり返って無い胸を張る忍の姿に同情を禁じえない僕であった。
 いいよいいよ。ドーナツくらいで喜んでくれるのなら、僕が好きなだけ買ってやるよ。
「もちろん火憐ちゃんのことだって、僕も別に何も考えてないわけじゃないさ」
「はん。まあ儂にとっては至極どうでもよいことではあるがの、お前様がうじうじしておると儂の方でも胃の具合が悪いのじゃ。適当にしておくがよいぞ」
「吸血鬼も胃が痛むか……」
 考えている、と言いはしたものの。
 文字通り全く何も考えていないというわけではない、という程度のことであって、どうしようもなさというか、やるせなさのような既に諦観めいた倦怠感に負けて、そのこと事態余り考えたくないというのが実情だった。
 今更である。
 一度破ったものは、繕えこそすれ元通りになることはできない。
 往路はあっても復路はないのだ。
 なるようになるならせめて穏便にコトを運びたいという消極的希望を抱くのが精々がところ。
 何とも無責任で。
 最低な話だ。
「言うとる側からお前様ときたら……よいか? 老婆心とは思うが……おお、いかん」
 顰め面の忍は言葉を切って僕の影の中に滑り込み、出現と同様に忽然と姿を消した。
 ほぼ同時に、そっとドアが押し開けられる。
「兄ちゃん」
 これだ。
 ドアから覗いた火憐の顔の、弛んだ頬。
 ほんのり上気して、照れているのかくすぐったがるような表情。
 少し前までの僕なら、そんな火憐を見たら即座に寝かしつけるか病院に連れ出すかしただろう。
 気付けのビンタも一二発見舞ってやる。
 たぶん、不気味に思って肌を粟立たせるくらいの反応を見せたであろう火憐の媚び顔であった。
 しかし白状してしまえば、今現在、このとき、某憂うべきXデー以来の現状において、僕はそんな火憐を可愛いと思ってしまっていた。
 可愛い妹であるとか、顔が可愛いとかそういう家族愛的、外見的な意味合いからは外れて。
 異性に抱く感情のような含みにも似て。
 僕は妹の胸中と同質のこそばゆい期待を感じていた。
 完全に。
 パーフェクトに。
 コンプリートリー。
 完膚なきまでに終わっていた。
 人として終わっている。
 軸がぶれている。
 駄目人間である。
「……よう。おはよう、火憐ちゃん」
「えへへ……おはよ」
 文明社会ではまずお目にかかれないようなワイルドな手法でセルフカットされた髪の毛は、プロの手で整えられてやっとヴェリーショートと呼べなくもない程度(後頭部は地肌が透けて見えそうだ)。見た目はよりボーイッシュになったはずなのに、ポニーテール時代よりいっそコケティッシュさえ感じさせるようになったのは、おそらく表情の変化のせいだろう。
 その原因はもちろん、僕たちの関係の変化だ。
「兄ちゃんを起こさなくていいなんて、なんか変な具合だな」
「そうだな、自分でも結構意外だよ」
 意味ありげな視線を交えて探りを入れるような会話を交わしながら、火憐はさっきまで忍の座っていたベッドに腰を下ろした。
 ちなみに服装は、つい先日まで制服以外はそれこそ5W1Hジャージだったのが、今日なんか胸元にレースの施されたカップ入りキャミソール(阿良々木家の女性陣が揃ってユニクロの土日限定を狙って買い込んできたブラトップ)にショート丈のルームパンツで、リラックスウェアながらも適度に可愛らしく、火憐のそんな普通に女の子っぽい装いは、以前であれば僕に彼女の正気を容易に疑わしめたことは請け合いだっただろうけれど、モデルみたいに長い手足を惜しげもなく露出させた姿は、以前ではなく以後、もとい事後となってしまった今は抗いようもなく視線を吸い寄せるのだった。
 火憐もそれを知ってかわざと見せびらかすように脚を組み替えて見せるのだから、僕としては倫理と煩悩の相克、魂の葛藤に締め付けられんばかりの思いだった。
 我から最低だとは思いつつも。
 ガードが緩んでしまう。
 色々なことを盛大にさておいても、妹に懐かれること自体は案外そう悪い気はしない。
 以前は懐かれでもしたらさぞ鬱陶しかろうと思っていたのだけれど。
 いざ懐かれてみるとそれが存外嬉しい。
 ついつい甘い顔の一つもしてしまうほど。
 そもそもの事の起こりは火憐を甘やかした(神原的な意味で)ことだったのだから、どうみてもなし崩し的だった。
 火憐は甘えっぱなし。
 僕は甘やかしっぱなし。
 紛うかたなき馴れ合い関係である。
「で、どうかしたのか?」
 つい先日までの僕なら勉強の邪魔だからどっか行けと追い出していたところだ。実際忍の件りからページは一向に進んでいない。羽川の家庭教師の時間までもう少し進めておきたいところだったけれど、このいつまで拝めるか分からない大人しい火憐に少しくらい付き合ってやるのも悪くないかと思い、僕はペンを置いた。勉強の合間の息抜きに妹を構ってやったところで羽川も怒らないだろう。
 それはもちろん構い方次第ではあるだろうけれど。
「兄ちゃんの寝顔を見に」
 火憐は屈託なく笑ってカーペットに座り、僕の膝に腕を乗せて頭をもたれてきた。
 自然と僕を見上げる姿勢になる。
 そんな技術どこで覚えてきやがった。
「ああ、神原先生に教わった」
「何を仕込んでんだ僕の妹に!」
「いやー、神原先生には教わることが多いぜー。フェイントのかけかたからゲームの攻略法まで、いつもありとあらゆることを教えてくれるよ」
「へえ、で、これはなんだ?」
「うん、こういう仕草で兄ちゃんは簡単にオトせるって……」
「兄をオトそうとすんなや!」
「え、なんで? 一撃必殺の神原メソッド対阿良々木暦編其ノ伍肆參が効かない!?」
「五百四十三!? そんなに攻略法だらけの僕はどれだけちょろい男なんだ!」
「ちなみに其ノ捌〇壹まであるぜ!」
「むしろ他にどんなのがあるのか気になってきたよ!」
「例えば三角絞めとかフロントチョークとか」
「物理的にオトしてどうする!?」
「何言ってんだ兄ちゃん、冗談だよ」
 突然空かされた。
 火憐はうなだれた僕に顔を寄せてくる。
「あたしはどっちかっていうと兄ちゃんに落とされてみたいかなー……あれちょっと癖になるからさあ」
「それはさすがにマゾ過ぎて怖えよ」
 ていうか。
 神原に紹介してからの火憐、加速度的にダメになっているような気がする。ダメになっているというか、神原っぽくなっているというか。
 嫌だ。神原は好きだけれど肉親にはしたくない。友達だからまだいいが家族だったら心臓に悪すぎる。火憐が神原みたいになってしまったら。火憐プラス神原、すなわち馬鹿で変態だなんて危険すぎるだろう。いつ暴発するともしれない不発弾と一つ屋根の下で寝食を共にするなんて真っ平御免だ。
「まあ別にあたしは兄ちゃんをオトす必要はないんだけどな」
「コメントに困る発言だな……」
 確かに、お互い既にオトされているというか、漢字違いで堕ちるところまで堕ちてしまってはいるけれども。
「なあ火憐ちゃん、お前、今の状況をどう思っているんだ?」
「どうって?」
 きょとんとする火憐。
「いや、どうもこうも、何というか、兄妹でこういうことをだな」
「ああ、そういや兄ちゃんってあたしの兄ちゃんだっけ」
「その馬鹿さは幾らなんでも致命的だ!」
「冗談だよ兄ちゃん」
「兄ちゃんを翻弄して楽しいか!」
「楽しいぜ!」
 火憐はいやっほうと間抜けな歓声を発しながらにこやかに拳を突き上げ、どこをどうしたのか空いた手で僕を床に引きずりおろした。
 気づいたときには膝で足を固定され、両手は床に磔状態。
 端的に言えば押し倒されたのだ。
「お前さ、人の話聞いてないだろ」
「聞いてるけど、あたしって考えるより先に身体が動くタイプじゃん?」
「悲しいけど全力で同意するよ!」
 嘆いたところで、むちゅっと口を塞がれる。
「あたしとしちゃこーゆーのも別に悪かないかなあっと」
「正義の味方の発言とも思えない!」
「いやあ、幾らあたしでも人の性生活に口出しするほど野暮じゃないって……」
「中学生が性生活とか言うなや!」
「違うの?」
「違……わないんだけれど……」
 まずい。完全に主導権を持ってかれている。ボケられると条件反射で突っ込んでしまうのだ。翌々考えてみれば神原と話していてよく脱線してしまうのは、神原がボケ倒すのが悪いのではなく僕が逐一律儀に突っ込んでしまうのが原因なのかもしれない。
「うーん、兄ちゃんの言いたいことは分かるんだけどさ、あたし個人としてはそこまで悪いこととは思わないんだよね。だって何がいけないのかっつったらさ、法律で禁止されてるのって兄妹で結婚することじゃん? でなんでそれが禁止されてるのかっていや、遺伝的に近いと子供が畸形に生まれやすいからだろ。だったらちゃんと避妊さえしてたら、あとはぶっちゃけ世間体なんじゃねーの?」
 火憐は実にあっけらかんと正論めいた屁理屈を抜かした。
 ダメだからダメ、では通じない雰囲気である。
「そりゃ皆が皆そんなこと考えないだろうから、隠しておくに越したことはねーだろーけど」
「ううむ」
 あまつさえ自説の非普遍性まで認める火憐。
 これはつまり開き直ることで僕の逃げ道を塞いだと見るべきだろう。
 流されるまま受身に突っ込み役をしていた僕も悪いが、あの火憐に理屈でやり込められるなんて夢想だにしなかった。さっさと自分の主張を済ませておいて、あとは兄ちゃんが決めてね、ときたもんだ。
 ここで突き放してしまえば簡単に片づく問題だ。
 こういうことはもうやめよう、とひと言で万事解決する。
 それなのに。
 どういうことだろう。
 舌が凍りついたように動かない。
「兄ちゃんは、もう嫌? こういうのは」
 その目。
 火憐の真剣な目が、至近から僕を見つめてきた。普段頭の悪い言動が目立つだけに、些か気圧される。人目もはばからずご近所の塀の上を逆立ちで歩くような馬鹿の癖に、たまに真面目な顔をされると何というか。
 ギャップ萌え?
 違う違う。
「嫌……っていうか……なん……だろうね……」
 そうではないのだ。
 火憐のせいではない。
 察せられない胸中。
 認めたくない心中。
 僕は心底から嫌がっていないのだ。
 大問題だ。
 理性は警鐘混じりにやめろやめろの大合唱だというのに。舌がもつれる。腕に抵抗する力が入らない。
「まあ、兄ちゃんは彼女いるんだもんなあ」
 火憐は微かに目を細めた。
「あ、ああ、それだ、それ。火憐ちゃんだって瑞鳥君っていう立派な彼氏がいるじゃないか。実の兄を押し倒してる場合じゃないだろう!」
 得たりとばかりにまくし立てるも、
「瑞鳥君とは別れた」
 即座に粉砕。
「はあ!? 別れたって、え、えーっ!? お前様何言ってんの? それってじゃあ」
 動揺の余り忍の二人称が伝染った。
 神原と戦場ヶ原が付き合っていたのかと一瞬誤解したときくらい狼狽したのだ。
 あのときも即座に否定されたけれど。
「別に兄ちゃんのせいじゃないぜ。まあ兄ちゃんのせいかもしれないけど」
 火憐はあくまでカラッとしていた。
 別れてしまえなんて思ってはいたけれども、僕が原因だなんて、実の兄である僕とうっかり過っちゃったことが原因で妹が彼氏と別れることになっただなんて、幾らなんでも最低すぎる。できた兄とも自惚れてはいないとはいえ兄としての最低ラインを目一杯下回っている。尊厳などゴミ同然だった。
 本名が阿良々木ゴミだとしても差し支えない。
「ああ、でもアレよりちょっと前からなんだよね。不協和音っつうの? 悪いのはあたしの方なんだけれど。兄ちゃんが原因っていっても兄ちゃんが考えてるようなことじゃなくて。たぶん」
 不協和音とかいうのは確かに月火から聞いてはいた、といっても概ね順調であるとも聞いていただけに、容易には受け入れられない事実だった。それが原因でもないとすれば全然得心がいかない。
 火憐は僕の上から脇にどいて、ベッドを背に胡坐を組んだ。
「何つうかさ、あたしは瑞鳥君のかわいいところが好きだったわけじゃん。けどさ、それってのはつまり上から目線で、年上だって言うのもあるけど、何でかっていえばあたしが自分が強いと思ってたからなんだよな。
 でも、そんなことなかった。あたしは全然強くなんかなかった。それを思い知って急に、自信をなくしちまったんだよ。あたしなんかが人を守れるのか、不安になっちまった。頼られるのが怖くなったのかも」
 火憐は珍しく苦笑など漏らした。
「それとはまた別に、身近に自分より全然強い人がいるってことに、すごく安心したところもあって、お陰で自分の弱さを許せるようになったんだと思う。あたしって今まで頼られることはあっても、誰かに頼るなんてできなかったからさ。頼って甘えてもいいんだと思ったら、なんか気が抜けちゃって、寄っかかることが意外に居心地がよくて……しかもそれが兄ちゃんだってことが妙に嬉しいんだ」
 だからまあ、兄ちゃんのせいだとも言えるか。火憐は横に座りなおした僕の肩に、言葉どおり寄りかかった。
「彼氏や彼女はいつか別れたら他人になっちまうけど、家族は何があっても家族だろ。大げさな言い方になるけど、兄ちゃんと同じ血が流れてることが無性に嬉しい。まあつまるところ、兄ちゃんが好きなんだな」
 それは確かに僕のせいじゃない、と咽喉まで出かかったが、言えない。
 少なくとも僕が原因の一端を握っているのは明らかだ。
 少なからず責任を感じる。
 発端が貝木との対決にあったとしても、既に起きてしまったことがある以上それが原因の一部ではないとは言い切れない。仮に傍目から見れば明らかに僕との関係が原因だろう。
「あー、でも好きっていってもさ、まあ完全に全部がそうとは言えない気もするけれど、兄ちゃんとして兄ちゃんが好きって意味だから。惚れたっつーのも、大体そういう意味。男惚れ? みたいな。女だけど」
 火憐は僕を見上げながらへらへら笑っている。
 何で笑えるんだ?
 全然笑えないぞ。
「どうしたのさ、兄ちゃん。変な顔して」
「いや……」
 いや、じゃない。何を言っているんだ僕は。
 何か、違和感。
「あれだ、何かしんみりしちゃったけど、こーゆー話をしにきたんじゃねえんだな」
 僕は火憐を見た。
 屈託のない笑顔。いつもどおりのちょっと馬鹿な妹だ。
「今日ってさ、午前中からあたしと兄ちゃん、家に二人っきり……なんだよね」
 はにかんだ火憐は、やはりひどく可愛いのだった。

2009/12/04-2010/08/25