こよみナイトメア

05

「晩御飯を食べていきなさい」
 無表情に。
 淡々と。
 戦場ヶ原は宣告した。
 無理をしてお願いや提案の形にするのは諦めたらしい。
 本当に言いづらそうだったものな。
「はい」
 畏まって返事はしたものの、内実はかなり嬉しかった。
 マジで!
 やりい!
 とか歓声を上げて小躍りしそうなくらい。
 ちょっと味つけが独特だとか、そういったことは全部些末時である。戦場ヶ原が僕のために料理してくれるだなんて。
 感激だ。
 遅くなったことに対して何かしら罰か虐待を受けることを覚悟していただけに、喜びもひとしおだった。
 涙が出そう。
「その……遅くなって悪かった」
「阿良々木君ったら、何を言っているの。私はせいぜい約三時間の間阿良々木君を一途に待っていたに過ぎないわよ」
「ごめんなさい」
 やっぱり怒ってますよね。
「全然、阿良々木君は気にすることなんてないのよ。私はただ、阿良々木君のために念入りにシャワーを浴びて、阿良々木君のためにお気に入りの下着を着けて、阿良々木君のために一生懸命私服を選んで、阿良々木君のために薄化粧をして、阿良々木君のために一切合財の準備を整えて、阿良々木君の訪問を今か今かと心待ちにしていただけなのだから。全ては別に頼まれたわけでもないのに私が勝手にやっていたことよ」
 気にしないで頂戴――最初のひと言以降、一瞬たりとも刹那のひと時もちらりとも窺う素振りすらみせず、僕に背中を向けたまま、戦場ヶ原は澱みなく答えた。
 答えたと言うより、一方的に告げた。
 その後、一切無言。
 俎板を激しく叩く包丁だけがビリビリと空気を振動させている。
 エプロン姿に蕩れている余裕なんてなかった。
 流れる脂汗。
「あ、あのな、戦場ヶ原」
 畳の上に正座して、絶対零度の後姿に果敢に説明を試みる僕。今回ばかりは完全に僕が悪かった。言いわけのしようもないのだけれど、それでも理由すら話さずひたすらに平伏したところで戦場ヶ原様のお怒りは生半に解けるものではないだろう。一応神原が電話してくれたことだし(相槌を打っていただけだが)、事情があって遅れたのは戦場ヶ原も分かってくれているはずだ。
 態度はともかく、存外に狭量ではないのだ。
 話せば割と分かってくれる。
 ただ怒りのポーズを解くまでの通過儀礼というか、戦場ヶ原の場合心のうちでは許していてもそれを簡単に態度に表すのは矜持に係わると思っている節があって、一定量の罵倒、暴言、虐待を僕に加えたあとでないと、決して許してくれないのだ。
「何かしら遅れ木君」
「語呂がいいな!」
 つい脊髄反射的に突っ込んでしまったが、名前を絡めた嫌味を言うときはさほど怒っているときではない。よい兆候である。怒ってないと口にしておいて言外に怒りを表現しているときよりは、思うさまポンポンと罵倒が飛び出しているときの方が気が楽なのだ。
 毒さえ吐いてしまえばある程度は満足してくれるし。
「ところで、前から感じていたのだけれど、阿良々木君、あなたの声ってゴキブリを叩き潰したときの不愉快な音に似ているわよね」
「人類に発音できる音とは思えないが……」
「不思議なことに、この私はこんなに丹精こめて隅々まで掃除しているというのに、それでも彼らはこの不可侵領域であるところの私の家、侵すべからざる聖域たる戦場ヶ原家に侵入してくるのよ。ねえ、阿良々木君、あなたそのお得意の昆虫語スキルを使って、阿良々木君みたいに薄っぺらなあの甲虫たちを説得してくれないかしら」
「ねーよそんな特殊能力!」
 薄っぺらとか言ったよこいつ!
「何とかなるわよ、ほら、そのアホ毛とか触角っぽいし」
「蟻じゃねえよ!」
「虫けらといえば、虫けらという言葉のけらって部分、これ、地下にトンネルを掘って住んでいるケラのことを言っているのかしら。っていうかケラってそんなにメジャーな昆虫なの? おけらとか俗称がついている割には馴染み深い昆虫じゃないわよね」
「それは現代の僕らから見たら、日ごろ土に触れる機会がそんなにないからそう思うんだろう。田舎といっても舗装されていない道なんてないし」
「ケラって。今時の若者にはファッション誌の名前でしかないわよ」
「……まさかガハラさん、ケラっ子だったとか……」
 ぴたっと。
 戦場ヶ原の手が止まった。触れない方がいい話題らしい。
「それで」
 スライドするような動きで肩越しに振り返る戦場ヶ原。
 手には包丁。
「何の話かしら。阿良々木君」
「ああ、そう、今日僕が遅れた理由なんだけど」
「それはさっき神原から聞いたわ」
「神原相槌しか打ってなかったよ!?」
「あの子の考えていることなんて手にとって標本にできるくらいよく分かるわ。神原のことなら今現在何をして何を考えているかさえ分かるもの」
「凄っ! 電話要らずだな!」
「神原は今下着姿で……あら」
「前半が当たっていそうなだけに気になる切り方だ!」
「神原のことはいいわ。阿良々木君の話をしましょう。確か、阿良々木君は器が大きくて素敵、という話だったわよね」
「僕の話こそどうでもいいよ!」
「ご飯が炊き上がったわね」
 戦場ヶ原は僕の自己申告を真に受けたように、本当に無視した。
 手を拭いてエプロンを外し、畳みながらこちらへやってくる。
 なんかいいなこれ。
 やってきたとは言ってもたった二三歩のことだったけれど。
 そのまま僕の正面に正座する。
 近い。
「神原と何かあったのかしら」
 的確に。
 戦場ヶ原は核心を突いた。
 無関係な話で振り回しておいて疲弊したところでやっと本題に入るのだ。戦場ヶ原は取り敢えず優位に立って話を進めないことには気が済まないらしい。
 僕はカジキじゃないんだぞ。
「まあ、あったと言うか、そのことをはっきりさせるために神原と話そうと思ったんだけれど、いかんせんあいつと話すと無駄話が多すぎてさ」
「何よそれ。あったの。なかったの。二択で答えなさい。言っておくけれど、『NES』とか『はいえ』とか抜かしてごらんなさい。そこにある洗ったばかりの包丁で」
「ないです! ありません! ごめんなさい!」
「なかったのなら一体何を謝る必要があるの。阿良々木君。謝れば全て有耶無耶にできるだなんて愚昧なことを思っているわけではないでしょうね。我が国ではわけもなく謝ったというだけで殺されてしまうこともあるのよ」
「恐ろしい文化だ!」
 戦場ヶ原はどこの国から来た人なのだろう。
 ツンデレの国から来たのだろうか。
 全国民がツンデレの国家。「べ、別に盗みたくて盗んだわけじゃないんだからね!」とツンデレる泥棒。「べ、別に捕まえたくて捕まえたわけじゃないんだからね!」とツンデレる警官。「べ、別に反対したくて反対してるわけじゃないんだからね!」とツンデレる野党。まあ全員がそうだったら真意がはっきりしていて分かりやすいかもしれないけれど。煩雑に過ぎる。ていうかこれは必ず真意と逆のことを言う人々の群れだ。単に。
「……それがさ、まあ、確かに謝るようなことはしていないのは事実なんだよ。ただ、そのあったなかったの以前にその出来事自体が実際に起きたことなのかどうかが分からなくて……何て言えばいいのか」
「話が抽象的すぎてよく分からないわ。阿良々木君の貧相な演算能力しか持たない頭脳でそんな複雑な概念を解説しようだなんて、どだい無理な話よ。抵抗器が焼ききれるわよ。無理をせず具体的な話をして頂戴。根気よく理解するよう努力してあげるから」
 そう言われても。
 いかんせんと言うならいかんせん場当たり的に過ぎたようだ。そもそも神原と話し合って何が起きているのかある程度まとめた上で戦場ヶ原に会うつもりだったから、そもそもからしてこの事態はイレギュラーなのだった。
 話さないという選択肢はない。戦場ヶ原とはそういったものに関しては互いに秘密を持たないという約束を交わしている上、僕の方は一度反故にしてしまった負い目もある。
 しかもそれも神原絡みだ。
 ただし今回のことは実害があるのかないのか、そもそも裏づけすら取れていない段階で、いずれ話す必要性は生じるかもしれないが今のところは話すにしても時期尚早というか、説明のしようがないのだ。
「ここはだな、戦場ヶ原、保留と言うことにしておいてもらえないか? はっきりしないことが多すぎるんだ。今の時点で話してもどうしようもないし、正直説明に困る」
「だめよ」
 即答された。
「分かっていることだけでも話なさい」
 約束でしょう――彼女のいつも持ち歩いている定規のように真直ぐな視線が僕を射抜いた。そんな目をした戦場ヶ原に意見を変えさせるくらいだったら、日本経済を活性化させることの方が遥かに簡単だ。
 泣く子と戦場ヶ原には逆らえないからな。
 羽川にも逆らえないけれど。
「神原と同じ夢を見たかもしれない」
 戦場ヶ原は僕を見つめた真顔のまま、一度瞬きをした。
「全国にブルマーを復活させたいという神原の悲願に同調したと言うの?」
「それが神原の夢かよ! 違う! 将来の目標のことじゃない、寝ているときに見る夢のことだよ!」
 神原の夢、なんか悲しい。でも同調する層はそれなりに存在するだろう。神原の姿がドラクロワの絵となって浮かび上がる。乳も露わに楽しげに旗を掲げ、民衆(ブルマー愛好家)を導く神原。実に活き活きとしている。
「神原と僕が、全く同じ内容の夢を見た……かもしれない」
「はっきりしないのね」
「神原の方がちゃんと覚えてなかったからな」
「そうね。あの子夢の内容は覚えていないことが多いもの」
「お前、神原のことは何でも知ってるな」
「神原のことに限らず、私は何でも知っているわよ」
 戦場ヶ原はいたって真面目に委員長とは真逆のことを言った。
「でも、私が全知全能なのはさておいて、そんなこと、さして重要なこととも思えないけれど。偶然じゃない? アニメや漫画の世界ではよくあることだわ」
「アニメでも漫画でもないからな」
「で、一体どういう夢を見たのかしら」
「僕の夢には、神原が出てきた。神原の夢には、僕が出てきたらしい。しかも、聞いているとどうも全く同じシチュエーションだったみたいなんだ。知らないはずの事実をお互いに夢の中で聞いている」
 何となく、嫌な予感がする。そう言って僕は戦場ヶ原を見返した。薄化粧の戦場ヶ原ははっとするほどに綺麗だった。もちろん素顔でも化粧の必要がないくらい美人ではあるけれど。話半分にしても、少しでも僕によく思われたいという気持ちは、いかにもこそばゆいとはいえ素直に嬉しいし、しみじみと僕には戦場ヶ原しかいないのだと思わせるだけのものがあった。
「もっとも神原の記憶がはっきりしていないから、お前の言うとおり偶然っていう可能性も全然ないわけじゃないんだけれど」
「……まあ、不思議な夢よね」
 戦場ヶ原はそれほど興味をそそられた風でもなく、癖なのかゆっくり首を傾げた。
「阿良々木君、短期間に色々な怪異に遭って……いえ、首を突っ込んできたから、些細なことでも気になってしまって当然といえば当然なのかもしれないけれど」
「その言いなおしは珍しく適切だけれど……」
「私としては、どちらかといえば夢の内容の方に興味をそそられるわね。私、阿良々木君が突然謝り出すから、てっきり、実は羽川さんの方が好きでしたとか言い出すのじゃないかと思って内心ドキドキしていたのよ」
「それは一番疑われたくないところだな……」
 現実にあったら一番嫌なパターンだもん!
「まあ、万が一にもそんなことを言いだしたら、私は大人しく身を引くけれど」
「そこは引きとめようよ!」
「大人しく身を引いて、あなたたちの幸福を祝福してあげるわ。そして時は流れ、二人の間に子供が生まれ、幸せの絶頂と言うときに」
「聞きたくない! それ以上聞きたくない!」
「ご飯をかき混ぜて頂戴」
「はい?」
 戦場ヶ原は立ち上がるとしゃもじにさっと水をかけて僕に差し出した。
「もう充分蒸らしたわ」
「あ、はい」
 言われるがまま炊飯器のご飯をかき混ぜる。その間戦場ヶ原はエプロンを着けなおし、再び台所の人となった。横目に窺った戦場ヶ原のエプロン姿は、それはもう素晴らしいものだった。蕩れ蕩れである。
 そういえばよく取り沙汰されるけれど、裸エプロンってそんなに萌えるものなのだろうか。
 ムーミンママじゃん。
「つまり、たかだか夢に見たことを謝るだなんて、よほど私に対して罪悪感を持つほどの内容だったのかしら。神原が絡んでいる時点でおおよそ察しはつきそうなものだけれど」
「察せられると心苦しいな……」
「とはいえ、あったのかなかったのかで答えるなら、なかったのだったわよね。大方、神原に押し倒されて目が覚めた、と言ったところかしら」
「……すごいな、ほとんどその通りだよ」
 フライパンがじゅわっと音を立てる。
「ところで、何を作ってるんだ?」
 戦場ヶ原は火を調節して蓋をした。
「ヘルシーおとうふハンバーグ。おとうふと大根の味噌汁。小松菜と厚揚げの煮物。大根の皮のきんぴらね。昨日の残りの大豆とひじきの煮物もあるわ」
 豆腐祭だ!
 安かったんだな。きっと。
「うまそうだな、期待してるよ」
「そう。じゃあ阿良々木君、炊飯器の保温を切って、私と阿良々木君の分だけ残して、あとのご飯をタッパーに詰めてくれるかしら。お父さんの分はこっちの茶碗によそってラップをしておいて」
「イエスマム!」
 最敬礼。
 やはり戦場ヶ原は人を使う才能があるようだ。先日羽川のために代理を引き受けてくれたときは、文化祭の準備もさぞかしはかどったことだろう。言うことは無駄がなく端的だし、指図しながらも戦場ヶ原自身の手も一切休んでいない。
「今思ったのだけれど、仮に阿良々木君と神原が同じ内容の夢を見たのだとして、それで神原が阿良々木君に迫ったのだとしたら、別に阿良々木君が負い目に感じるようなことはないじゃない。悪いのはあの子でしょうに」
「ああ……まあ言われてみるとそうかもな。単に僕の夢だと思っていたときは最悪の気分だったけれど、怪異絡みなんじゃないかと疑いはじめてからは、そんなことは全然考えていなかったよ」
「それに、私は確かに嫉妬深いけれど」
「自覚はあるんだな」
「別に、夢の内容にまで言及して責めたりはしないわよ。阿良々木君の血肉は一滴余さず私の所有物だけれど、思想の自由くらいは保障してあげるわ」
「それはありがたいね」
 表現はスプラッタだったが、独占されると言うのも案外悪くない気分だ。僕は戦場ヶ原のものだけど戦場ヶ原は僕のなんだものなあ。
 と、ほんわかした気分になっていたところ。
「だから正直に言ってごらんなさい。阿良々木君、夢の中で神原とどんなに色々エロエロなことをしたのかしら?」
「してないよ! それから何でそこで敢えて韻を踏む必要があるんだ!」
 こいつ信じてなかった!
「なんだ、本当にしていないの。阿良々木君。真性のチキンなのね」
「そこはせめてお前への操立てを評価してくれよ!」
「ていうか、神原に迫られて勃たなかったのだとしたら、逆に阿良々木君の男性としての能力を疑うわね」
「勃たなかったなんて言ってねえよ! とか言わせて墓穴を掘らせようとしたってそうはいかないぞ!」
 しゃもじを突きつける僕。
「勃ったの」
「ノーコメントだ!」
 力いっぱい言い放つ、僕。
 いっぱいいっぱいである。
「まあ、その辺りはどうでもいいわよ。下品な阿良々木君」
「お前が言い出したんだろ!」
 戦場ヶ原は少しばかり恥ずかしそうにちらりと僕を見た。
 照れてんのかよ!
 可愛いな!
 その調子でデレてくれないかな!
「テーブルの用意をして頂戴。はい、これが私の。こっちが阿良々木君のお箸」
「あ、ああ……なんか立派な箸だけど、いいのか?」
「お父さんのお箸よ」
「マジで!?」
「さっきから阿良々木君にしては捻りのない突っ込みが目立つけれど……。仕方がないでしょう。戦場ヶ原家にはお箸は二膳しかないの。諦めなさい」
 僕は捧げ持つようにして卓袱台に箸を置いた。
 ないなら仕方がないけれど。
 普通彼氏に父親の箸使わせるか?
「というのは嘘で、本当はお弁当用のお箸もあるのだけれどね」
「僕をおたおたさせて楽しむためだけの無用な嘘か!」
 そういえば以前手料理を振舞われたときは今渡された戦場ヶ原の箸を使った記憶がある。
 で、そのとき戦場ヶ原はお弁当用の箸を使っていたと言うわけか……いや、お父さんの箸だったのかも。気がつかなかったが。
「今度は冗長ね。キレがないわ。……嫌だったら私のお箸を使ってもいいのよ」
「嫌というわけじゃないが……」
「だったらごちゃごちゃ言わずにご飯をよそいなさい。食事にしましょう」
 戦場ヶ原と二人、差し向かいで卓袱台につくというのもそれはそれで不思議な気分だった。
 しかしな。
 不味くはないのだけれど。
 変わった味だ。
 よそで味わったことのない不思議な風味だ。
 使っている調味料は普通に見えたのに、どうしてこのような独特の味わいが出せるのか。
 ていうか戦場ヶ原の味覚でこれが普通の味つけなのだとしたら、外食やお呼ばれしたときの他のご家庭(神原家以外に心当たりはないけれども)の味などはどう感じているのだろう。
 そっちの方がよほど不思議だ。
「気持ちのいい食べっぷりだわ。作った甲斐があると言うものね」
「…………」
 ともかく、腹は減っていた。
 僕は無言で親指を立てた。
 嘘はついていないはずだ。
「話は戻るけれど。神原が阿良々木君の夢を見たというのは頷けるわ。だってあの子、枕の下に阿良々木君の盗撮写真を敷いているもの」
 味噌汁を吹くところだった。
「神原って、阿良々木君のこと好きすぎるわよね」
「……そうですね」
 そんなことまで知っているとは。侮りがたしヴァルハラコンビ。二人にそれぞれ話したことなどは筒抜けになっているくらいに考えていいのかもしれない。今後は言動に注意した方がよさそうだ。特に神原の前では。
「どうせ今日だって神原の家で散々迫られたのでしょう?」
「……ご明察」
 あれ。
 妬いてないよね?
 ガハラさん、神原に関してはスルーしてたよね?
「阿良々木君ばっかりずるいわ。今度は私も混ぜなさい」
「そっちか」
 一緒に遊びたかったらしい。
 可愛い奴だ。
「あ」
 戦場ヶ原は味噌汁の器を下ろした。
「もちろん、私を混ぜるというのは、阿良々木君と神原と私とで三人プレイ、いわゆる3Pをしたいという意味ではないわよ」
「分からいでか!」
 何だこのノリ。
 段々神原と会話しているような気分になってきた。
 戦場ヶ原も結構直裁な物言いをするというか、色恋に対するスタンスがかなり直球勝負なのだった。嘘もつくし中々素直に意志を表現しようとはしないけれど、言いたいことを言いたいときに言うのはまさに、彼女が神原を評したのと同様、戦場ヶ原自身が自分に正直なだけなのかもしれない。
 僕に対して正直になってくれるともっと助かるんだがなあ。
「なんだかんだお前と神原って似てる……というかいいコンビだよな」
「あら、そう。ありがとう」
 和気藹々と、というほどではないにしても、僕達としては楽しく小粋な会話などを交わしたつもりになりながら、つつがなく食事を終える。
 後片づけを申し出たのだが、「お客さんは座っていなさい」とすげなく断られてしまい、手持ち無沙汰に流しに立つ戦場ヶ原の後姿を眺める次第。
 客だからというよりは、きっと神経質な戦場ヶ原のことだ、こと片づけに関しては自宅のものを人にいじられるのが落ち着かないのだろう。準備に関しては有無を言わせず手伝わせていたし。
 それにしても。
 戦場ヶ原の後姿は、本当に見蕩れるだけのものはあった。
 まず第一に姿勢がいい。僕が上背のなさを気にして精一杯背筋を張っているような無様さなど微塵も感じられない、自然に美しい立ち姿だ。
 それに腰の位置が高い。つまり脚が長い。
 正直に申告すると、身長は数ミリの違いであるにも係わらず、脚の長さはもっと離れているように思える(誰と比べての話かは察していただきたい)。
 スカートに隠れて見えないけれど、ストッキング着用時の脚から鑑みるに、元陸上部らしく程よく筋肉のついた流麗なラインがその向こうに伸びていることは想像にかたくない、というか一瞬の出来事とはいえ、僕は以前彼女の全裸を目撃しているのだから、記憶を想像で補填できると言い換えるべきだろう。
 更には、ほっそりしているのに、線が細い印象はない。病弱な深窓の令嬢というイメージが先行して、華奢な身体つきをしているのかと思いきや、むしろ服越しにでも健康的な四肢が窺える。
 すらっとしているのだ。
 そして、背が高い。火憐にはさすがに届かないが、女子としては割と高い方だ。
 僕ははっきりいって彼女の身長が自分より高いことを滅茶苦茶気にしてはいるのだけれど、反面その背の高さもまた、戦場ヶ原の好きなところの一つでもあった。
 そもそも好きじゃないところなんてないのだ。
 全部好きだ。
 つくづく思う。
 戦場ヶ原を好きになってよかった。
 戦場ヶ原に好かれてよかった。
 我知らず緩む頬。目を細めて食器を洗う戦場ヶ原の後姿に見蕩れる。
 綺麗だなあ。
 しかも、全部僕、予約済み。
「私の後姿をいやらしい目で見ている男が居るようね」
「誰だそいつは。とっちめてやる」
「自分で自分を殴るのは骨が折れるでしょうから、私のホチキスを貸してあげる。そこの抽斗の中に入っているわ」
「ああ、なんだ僕のことか。僕はいいんだよ。僕は」
「あら。阿良々木君たら、私が折角必死に否定する阿良々木君に対して、阿良々木君は私の恋人なのだから、好きなだけじっくりと舐めまわすように私の身体を眺めていいのよ、と許可を出してやり、飢えた犬のように涎を垂らす阿良々木君の姿を観察して楽しもうと思っていたのに、なんだ、珍しくちゃんと分かっているのね」
 戦場ヶ原は再び肩越しに僕を見て、いささか相好を崩した。

「なあ、戦場ヶ原」
 食後。
 少し時間は遅くなってしまったが、毎日続けることが肝要なのだとトゲの生えた言葉で暴言を交えながら説明され、僕は一応持参していた勉強道具を広げていた。再び卓袱台越しに相対し、一々分からないところを解説してもらいつつ勉強を進め、そろそろ切り上げて帰ろうかという頃合。
「何かしら。小さな生き物が哀れな鳴き声を発しているわ」
 戦場ヶ原はこちらを一瞬たりとも見ず、ひとりごとのように呟いた。
「背が低くて悪かったな!」
 座高はそんなに変わらないように思えるのに!
「何よ。冗談じゃないわよ。ムキにならないで頂戴」
「冗談でいいから冗談と言って!」
「で、何なの」
 戦場ヶ原はシャーペンを動かす手を休めて、いかにも大儀そうに、やっと僕を見た。
「えっと……その。ちゅーしてもいい?」
「ふざけたことを言うのね、阿良々木君。何か死んだ方がいいことでもあったのかしら」
「嫌っている人の口癖を応用してまで忌避すべきことなのか!?」
 さすがにちょっとは。
 傷つく。
「違うわ。ふざけたこと、と言ったのは、私とあなたというラブラブカップルの関係において、阿良々木君がいちいちちゅーするくらいで這いつくばって慈悲を乞う惨めな土下座姿を晒したことよ」
「いや、僕土下座とかしてないし」
 ラブラブカップルに関してはスルーで。
「これから幾度となくすることになるわ」
「僕は一体お前に何をしでかす予定なんだ!?」
「ちゅーするんでしょう? 脳が悪いわね」
「頭と脳を入れ替えただけで何かの病気みたいだよ!」
 ていうか。
 ちゅーはいいんだ?
「そういえば阿良々木君、この間『女は顎を持ち上げれば勝手に目を閉じる生き物だ』……って言っていたわよね」
「僕そんなドンファンみたいなこと言ってないよ!?」
 確かに僕は男友達とかいないけれど。しかも忍野が去った後、知人と呼べる男性すら全然思い浮かばないけれど、僕は別に女たらしではないし誰彼構わずのべつ幕なしというわけではないのだ。
 たとえ僕が女好きだったとしても、僕の方で「女はチョロい」と思っているのではなく、僕がチョロい男なだけだ。
 ていうか戦場ヶ原一筋だ。
 こればかりは譲れない。
「そうね……私も少し酷だったかもしれないわ」
「今の議題はさておき、お前の酷さを少しと評価するのは余りにも自分を過小評価していると思うぞ?」
「私、人に惨くて自分には激甘なの」
「自己中の域を凌駕している!?」
「阿良々木君はどうでもいいでしょう? ……いえ、その話はどうでもいいでしょう?」
「言い間違える余地がねえ! せめて途中で言い直してくれ!」
「細かくて鬱陶しい男ね」
「直截過ぎるよ!」
「まあ聞きなさいな。阿良々木君のようなド低能……いえ腐れ脳味噌でも分かるようにきちんと説明してあげるから」
「確かに文庫版修正はちょっと話題になったけれど、ジョジョネタとか膾炙しているように見えて所詮一部の層にしか通じないようなネタは突っ込みが説明臭くなるからやめてほしいな……」
「そうだったわね。確かに私には私の常識は世間の常識だと思い込んでいる節があるのかもしれないわ。阿良々木君みたいなじょうしきのじの字の濁点を半濁点と間違えるような人が常識など知っているはずがないのにね」
「僕がいつそんな間違いをした!?」
 し゜と書いて何と読むんだ。そっちの方が気になるぞ。
「阿良々木君がしつこくネチネチと突っ込みを入れるから話が進まないじゃないの。しつこい男は死になさい」
「酷っ! 僕から突っ込みを除いたら何が残るって言うんだ!?」
 うっかり僕は自虐的なことを言った。
「…………えっと……」
「申しわけなさそうに目を逸らされたーっ!」
「……そうそう、私は美しく残酷無比だという話だったわね」
「美しさでカバーできる領域を越えてしまった!」
「阿良々木君、あなた私のこと、私が何とかするまで待っていてくれるのだったわよね?」
 虚実織り交ぜたこの会話術。神原からも感じていたがどう考えてもこちらがオリジナルだな。
 絶対悪影響だよ。
「ああ、その話。もちろん待つさ。お前がその……克服できるまで」
「口ではそんなことを言っていても、阿良々木君、低忍耐低身長だから、何か代替物というか、いわば赤ん坊のおしゃぶり的なものを与えておかないと易々と性犯罪に走ってしまうじゃない?」
「今日言った中で確実に一番ひどい言い条だ!」
「いやだわ。背が低いだけじゃなく生き様まで低能なのね。今の突っ込みどころは、低忍耐低身長にはもう一つ低能がついてこその『三低』だー、と言うべきところよ。阿良々木君、あなた自分の唯一やっと人並みに届くか届かないかの長所ですら活かせないなんて、いっぺん死んだりした方がいいわね」
「お前は生き生きし過ぎだよ……」
「死に死にと死になさ……あ、これ、前にも言ったっけ」
「何度も使うほど気の利いた言葉じゃねえよ!」
 しかし戦場ヶ原といい羽川といい、恋人関係といい受験勉強といい、どうして僕は鼻先に人参をぶら下げておかないとやる気を出せない人みたいな扱いなんだろう。
 ちょっと凹む。
 確かに彼らと出会ってからそんなに際立った実績を残しているわけではないけれど。
 どちらの目標も結局、僕が戦場ヶ原と末永く仲よくしていきたいと思えばこそ自ら率先してやっていることなのだ。別に誰かを助けるためにやっているとか、誰かの力になりたいとか、そういう利他的な動機で始めたことでは、決してない。僕が、僕自身のために、僕がしたいからしていることなのであって。
 最大のご褒美は、目的そのものであると言うのに。
「おふざけはこのくらいで。つまりね、阿良々木君。私、阿良々木君に対しては結構負い目を感じているのよ」
「お前が? 僕に?」
「ええ。言いわけのようになってしまうからくだくだしく繰り返したくはないのだけれど、本当に私は、早く阿良々木君に私の身体を捧げたいと思っているのよ。心からね」
 直裁。
 何が何でもストレートな女である。
 僕は赤面して、むしろ愕然としていた。
「けれど、現実問題としてそれは、いまだにできていない。だというのに、私としたことが、あの日一回キスをしたっきり、それ以来ほとんど手を握る程度しかしていないでしょう。本当、どれだけウブなカップルなんだって話よ」
 戦場ヶ原は呆れたように嘆息し、卓袱台に肘をついた。組んだ手の上に顎を乗せて、愁い顔。見つめあうこと暫し。
「だから、阿良々木君が夢の中どころか、実際にうっかり神原や他の誰かとコトに及んでしまったとしても、私としては何も文句は言えないと思うの」
「……そんなありえない想定をするのはやめてくれよな」
 僕はノートの上に突っ伏した。ペンを置いて、手探りに戦場ヶ原の手を取る。
 戦場ヶ原の手が優しく握り返す。
「まあ現実に、そんな夢を見ちまったら、疑われても仕方がないことなのかもしれないけれどさ」
「……夢、といえば、不思議に思うのことがあるのよ」
 少しかさついた感触が僕の右手の甲を覆った。家事をしている手だ。大好きな、戦場ヶ原の手だった。
「阿良々木君はどうして私の夢を見なかったのかしらね」
 僕の手を撫でながら、戦場ヶ原は続けた。
「もしその夢が、怪異による不可抗力だとしたらともかく、単に阿良々木君の欲求不満が募った結果なのだとしたら、どうして阿良々木君は私でなく神原を夢に見たのかしら。私が冗談に、代わりに神原と、だなんて言ったのがいけないのかしら。夢なんて、不条理で不確かなものだものね」
 そう言いつつ戦場ヶ原の口調は、怒ってさえいないものの、納得しているとは言い切れないものに聞こえた。
「たぶん、きっと、それは阿良々木君が優しいからなのだと思うわ」
 まるで受け売りであるかのように、夢の中の神原そっくりのことを言う。
 そんなはずがないじゃないか。
 僕はその台詞を口に出すことができない。
「自意識過剰なのかもしれないけれど、私が阿良々木君を嫌いになりたくないのと同じように、阿良々木君も私に嫌われたくないと思ってくれているのかもしれないわね」
「そんなの……当たり前だろ」
 僕は絞りだすように言った。僕が戦場ヶ原に嫌われたいだなんて思っているはずがない。
 万に一つもない。
 逆さにしたってひとかけらも出てこない発想だ。
 僕は戦場ヶ原が大好きなのだ。戦場ヶ原にも僕を大好きでいてほしい。
 当たり前のことだ。
「……さっきも言ったとおり、阿良々木君の精神は阿良々木君自身の権利なのよ。だから、阿良々木君がどんなに最低な内容の夢を見たって私は笑って許すわ」
 でもね――戦場ヶ原は囁くように言った。
「阿良々木君の心の中には、いつだって、たとえ夢だって、私の姿を思い描いていてほしいの」
 ねえ、阿良々木君。阿良々木君。私、阿良々木君のことが大好きなのよ。
 戦場ヶ原は手を放して立ち上がり、ほんの一二歩のことだったが卓袱台を回って僕の隣に腰を下ろした。ぴったりくっつくほどの距離。
 横座りで上体をひねり、おずおずと僕の肩に手を置く。僕がそちらを見ると、その左手をずらして背中へ、右手は前から左肩に回す。
 唇は、強固な意志に引き結ばれているというより、緊張に震えていた。
「……戦場ヶ原」
 縋りつくような右手に導かれるように戦場ヶ原に身体を向け、頬に手を添える。
「まだ全部は無理だけれど」
 少しだけ――戦場ヶ原は右手を引き寄せた。

09/11/18