こよみナイトメア

04

 場所を移し、神原家。
 神原の部屋に這入るなり僕が発した言葉は、うめき声にしかならなかった。
 うえ、とか。
 ぐう、とか。
 胸中に発生した感情を表現するのに適切な言葉を、僕は知らなかった。
 語彙が貧困なのかもしれない。
「すまないな、散らかっているが、適当に座ってくれ」
「……どこに」
 神原は別に恥じる様子もなく僕を部屋に通した。襖の向こうを見て絶句する。
 どこに座れと。
「いや、お恥ずかしい限りだ。どうにも私は片づけが苦手でな、ははは」
 はははって。
 恥を晒した割りに随分と軽い笑い方だ(僕に対しては以前にも見せてはいるけれど)。
 軽すぎる。
 デートが楽しみで約束より一時間早く来ちゃったよ、ははは、とか。
 いっけねえ、うっかり妹がキープしてたアイス食っちゃったよ、ははは、とか。
 その程度のどうでもいい失敗に対する笑い方だ。
「苦手って……」
 苦手とかそういうレベルの話じゃねえだろ。
 誰かが侵入してゴミを不法投棄していったんじゃねえの?
「前回来たときより明らかに酷くなっている……」
 感想はともかくとして、この部屋、神原駿河の部屋の惨状を表すのに一つ、適切な言葉がある。
 新語である。
 ネット社会の一部で生まれやすい、同音異義語、読み換え、駄洒落などによって既存の言葉をいじって作られた言葉――
 汚部屋。
「おや、こんなところに先週買ったいちごミルクが」
「早まるな!!」
 僕は神原に……異様に膨らんだ紙パックを持ち上げ、今にも開封せんとする神原に縋りついた。気軽に何てことをするんだこいつは。
「んっやっ……!」
 神原は肩を掴まれて嬌声を上げる。変な声を出すな! 私はくすったがりなのだ。という一連のお約束は、僕が神原に触れなければ発生しないのだが、神原が身を挺して防がねばならないような奇態を晒しつづける限り、延々繰り返すことになるのだろう。
 神原が我武者羅にフラグを立てるから頻発してしまう。
 もういいよこのイベント……。
「未開封で幸いだった。このまま生ゴミとして処理しよう」
「んん? 大丈夫だろう、これくらいなら」
 何が!?
 何が大丈夫なの!?
 何が大丈夫なのか僕には理解できないし、僕の吸血鬼アイが捉えたところによると神原の持っているいちごミルクの消費期限は一箇月前の日付だ。
 つまりこれとは別に先週買ったいちごミルクもどこかに潜んでいるということか……!
「神原、お前って……」
 僕の愛すべき後輩はきょとんとしている。
 普通にしていれば可愛いのだ。
 手にしているものがパンパンに膨らんだいちごミルクのパックでなければ。
 そりゃあ、もうこの部屋で不自由なく暮らしているくらいだから、今更違和感も疑問も抱かないのかもしれない。しかしまあ、神原の祖父母は孫娘のこの醜態をどう考えているのだろう。神原家では最早どうにもならないものとして諦められた問題なのだろうか。最近始まったことではないのだろうし。
 さしあたって僕は神原に命じてゴミ袋を用意させ、片づけられるものから分別を始めるのだった。これは定期的に訪れて片づけてやるべきなのかもしれない。
 僕も特別綺麗好きというわけではないが、可愛い後輩がこんな恐るべき環境で生活していると考えると夜も眠れない。そこはいっそ家族でないからこそ、余計な遠慮会釈もなく片づけてやれるのではないだろうか。
 神原を救えるのは……僕しかいない!
「凄い! みるみるうちに私の部屋が片づいていく! 私は今奇跡を目の当たりにしている! 阿良々木先輩! あなたは何というお人だろう! 神だ! これぞ神の御業だ!」
 そこまで言われれば掃除のし甲斐もあるというものだ。過剰な褒舌ではあるが。
 世に、できる奴にはできない奴の気持ちが分からないと言われるけれど、まさか僕がその気持ちを味わうことになるとは思わなかった。こんな部屋片づけるなという方が無理な話なのに。
 しかしこれはかえってここまで部屋を汚くできる神原の方が凄いのかもしれない。この壮絶なまでの混沌っぷりは最早才能と呼べるほどの領域に達している。
 だって半分くらいゴミだぜ?
 普通ゴミは捨てちゃうよ?
「さて、こんなもんか。流石に何だか精神的疲労を感じるぜ」
 主に生物災害系のゴミや、秘密の花園系アイテムなどのせいである。
「うん、凄い凄い。こんなに綺麗な部屋は前回阿良々木先輩に片づけていただいて以来だ。私の部屋は結構広いのだな」
 言いつつ、神原はごく自然な動作で制服を脱ぎはじめた。
「阿良々木先輩には本当に感謝している。つまらないものだが受け取ってくれ」
「何を!?」
 目を逸らす間もなく、神原は瞬時に下着姿だった。夏服だから早い早い。
 思わず、図らず、いかんともしがたい不可抗力によってじっくりとまじまじとしっかりとこの目に焼き付けてしまった神原の下着は、体育会系の妹から連想して勝手にスポーツブラだろうと思っていたのだが、意外にもレースをあしらった可憐な上下セットだった。
 元運動部ではあっても屋内競技だからか日焼けもしていない。
 むしろ白い。
 白い肌はコントラストによっても映えるが、同系色でも引き立つことに気づいた。
 白地に薄いピンクの清楚な下着は、神原の健康的な肢体に驚くほどよく似合っている。
 自ら主張していた通り高い位置にある腰はほどよく引き締まって、芸術的なまでのくびれを形成していた。
 完璧である。
 こんなに素晴らしいくびれはおよそお目にかかったことがない。
 まさにパーフェクト。
 キング――否、クイーン・オブ・ザ・くびれ。
 神に選ばれしくびれである。
 もし僕が神だったのなら絶対に選ぶ。
 誰も選ばなくても僕は絶対に選ぶ。
 見せ方がまた素晴らしい。変態・神原のことだから胸を張って堂々と仁王立ちかと思いきや、中々どうして心得たものだ。きっと練習しているのだろう。光景が目に浮かぶ。
 僕に向かってやや斜めに立ち、腕を軽く組み、片膝を少し曲げて踵を浮かせ、俯き気味の流し目でこちらに微笑みかける。
 するとどうだろう。
 あの爽やかスポーツ少女が。
 あの露出狂の変態が。
 しっとり妖艶なお姉さんに変貌を遂げたではないか。
「神原……」
「阿良々木先輩……」
 不意に僕はあることに気づいた。
「さっきのいちごミルクはどうした?」
「ああ、あれか……阿良々木先輩、人間の胃袋は結構頑強にできているものだ」
「ま、まさか……」
 僕は力なく顎を落とした。振動を感じ、下方に目を遣ると膝が震えている。
 さっきまでの感動は嘘のように消え去り、ただ、ただ、恐怖が絶望を引き連れてやってくる。
 腹の底でゆっくりと何かが冷え固まる感覚。
 まさか。
 あの。
 一箇月以上前の、未開封のまま常温、しかも初夏の室内で放置され、パンパンに膨らみ、パックの中で見知らぬ何物かに姿を変えた――
 あの元いちごミルクを――
「い、いやだ! そんなのはいやだあ! 僕は帰るーっ!」
 脱兎のごとく駆け出し、入り口側に居た神原に敢え無く阻まれる。
 阻まれるというかしっかり抱きしめられる。
「よしよし、こんなに怯えてしまって……暦ちゃん、いい子だからおとなしくなさい。そうだ、お姉ちゃんのおっぱいを吸わせてあげよう」
「子供扱いでもそんな子供扱いは聞いたことがねえ!」
「待て待て、今ブラを外すから……」
「だったら僕は席を外す!」
「それは困る、阿良々木先輩には今朝の話の続きをしてもらわなければ」
「あ」
 そうだった。
 うっかり汚部屋掃除やら神原のくびれやらに気をとられてしまい、本来の目的を忘れていた。
 それはもう。
 綺麗さっぱり、片づいた部屋と同じくらい。
「ああ、くそっ、こんなときにホックが外れない!」
「外すな」
 よく考えたら夏場神原は部屋では下着姿だと聞いていたような気がするので、神原が脱いだのは僕のためというより単に習慣なのだ。
 なーんだ。
 ちょっとがっかり。
 しかしまあ、折角片づけたというのに、制服を脱ぎ散らかして。脱いだら脱ぎっぱなし、使ったら使いっぱなし、そういった無造作な行動の過剰な積み重ねが汚部屋を作るのだろう。すっかり習慣になってしまっていて、生半には変えられまい。神原を汚部屋から脱出させるには、まず一箇月くらい付きっ切りで生活習慣を矯正する必要がある。
 現実的に考えればまずそんなことは無理だろうから(僕の貞操の問題で)、精々まめに片づけに来るしかない。
 僕、神原と結婚すべきなのか?
「幾ら綺麗にしてもなあ。シワになるシワになる」
 ホックと格闘している神原を放置し、脱ぎ散らかしたというより投げ捨てられた制服を拾う。ハンガーはどこへやったっけな。
「あ、阿良々木先輩……半裸の少女を無視して制服に手を出すとは……お望みなら差し上げるが、阿良々木先輩は女子高生のフレッシュ食べごろボディよりも尚制服を選ぶというのか!? 着衣という観点では私は下着に靴下という最高にフェティッシュな格好なのだぞ!」
「最高のフェティシズムを下着に靴下と言い切るお前は上級者過ぎるよ!」
 上着とスカートをハンガーにかけてやり、流れで、何の気なしに、僕は一緒に放ってあったスパッツを手にとってしまった。
 生温かい。
「ああ、スパッツか。それならまだ理解できる。肌に密着していたものだから、体温も移っているし、匂いも――」
「そんな理解は要らない!」
 僕は思わず力が入って握り締めてしまったスパッツを、神原の顔に押しつけた。
 ぐいぐいと。
「ああッ」
 神原は無抵抗に、というより押し返すようにしながらなすがままだった。
「そんなッ……私自身のスパッツで……あ、阿良々木先輩……ッ、今横になるから、そのまま私の顔を踏んで――」
「……僕が悪かったです」
 ちょっと信じらんないお兄ちゃん何すんの! 的なリアクションをつい期待してしまった僕がバカだった。壮絶なバカだった。妹達だったらそれくらいで済みそうだもん。自分のだし少しは嫌がったりするかな、とか、僅かにでも思ってしまった僕は本当にバカだった。戦場ヶ原に幾らバカが服着て歩いてると嘲弄されても文句は言えない。
 何てバカなんだろう。
 神原に「普通」は嫌がりそうなことをするなんて。
「やめる気なのかっ!? 私をこんなに高ぶらせておきながら!」
「……いや、ほら、なんかごめん、悪かったよ。今日一日着てた服だもんな、これは洗濯機に入れてこよう」
「何だその普通っぽいリアクション……哀れまれ蔑まれるのは望むところだがっ! 私は放置プレイも好きだけれど、阿良々木先輩には構ってほしい! 諦めたような顔をして去らないでくれ! いつものように突っ込んでくれないといやだ!」
 聞きようによっては嬉しい台詞を発しながら、今度は神原が僕の腕に縋りつく番だった。
 なんか必死だった。
 なぜお前はそこまで僕を求めるのだ。
「そんな、神原さん、僕そんなこと期待されても困ってしまいます。学校のスターである神原さんに僕みたいな落ちこぼれが突っ込みを入れるなんてとてもとても、荷が勝ちすぎていますよ。じゃあ僕、掃除が終わったから帰りますね」
「う、嘘だ……阿良々木先輩が突っ込まないなんて……惑星が自転しないようなものではないか……冗談だろう? それも阿良々木先輩一流の壮大なノリツッコミの前哨戦で、これから私と丁々発止のやりとりを繰り広げてくれるのだろう?」
「今までのことは、どうか忘れてください……身勝手な話ですけれど、若気の至りというか……お恥ずかしい話です。分不相応にも神原さんのお相手ができて光栄でした」
 僕は終わったら燃え尽きるんじゃないかと思うくらい全力で爽やか草食スマイルをキメて見せた。
 勝った。
 どんな攻撃をも無効化、回復する神原を相手にやってのけた。
 名づけて、謙遜回避。
 どんなに貶しても喜ぶ神原に対して、どんなに褒められても受け流す作戦。
 引かれたら押さない。
 押されたら引いちゃう。
 受けの神原には対応が難しい展開だろう。
 僕は柔和な笑顔の下で勝利を確信していた。
「……いやだ」
 神原の僕の腕を掴んでいた手に力がこもる。
「……構ってくれないといやだ」
 僕の腕を掴んだまま。
 俯いて、やや涙目に頬を膨らませて。
 消え入る語尾で、神原は言った。
「阿良々木先輩が構ってくれないと……やだ」
 かんばるの わがまま
 こうかは ばつぐんだ!
 畜生、なんだこいつ、可愛いじゃねえかこの野郎!
 ふつふつと沸き上がるこの気持ちはなんだ!?
 あの神原が。
 甘言褒舌、常に僕を褒めたたえ神の言葉を聞くように僕の言葉に絶対服従の神原駿河が。
 わがまま……だと?
 萌えるじゃねえか!
 変態神原改めわがまま神原は、今にも泣きそうだった。既にじわじわきている。もう少しで表面張力との戦いが始まる頃合いだ。
「阿良々木先輩……」
 そんな鼻にかかった声でいじけるなんて!
 やべえ。
 神原の泣き顔、ぶっちゃけ見たい!
 大いに見たい!
 見たいけれども、とはいえ、僕もそこまで、というか本来嗜虐的な趣味はないのだけれど。泣き顔より笑った顔の方が好きな男だ。
 妹以外に女の子を泣かせたことなどない。
 誰だ僕を女泣かせだなんて言うのは。
 決してそんな事実はない。
 僕は。
 僕ははっきり言ってチョロい男だ!
「すまん、神原、僕が悪かった。この変態! さっきまでお前の穿いていたスパッツをこうしてくれるわ! 泣いて悦べ!」
 と。
 後輩の女の子の頭に嬉々としてスパッツを被せる男子高校生がそこにいた。
 完全に僕だった。
「いっそ深遠なまでに無駄な時間を過ごしてしまった……」
 放課後、神原の部屋に足を踏み入れてから、はや二時間。大半を部屋の片づけに費やした時間としたところで、いささかはしゃぎ過ぎた観も否めない。
 手早く話を済ませて戦場ヶ原の家へ行かないと。まさかこんなに時間がかかるとは思わなかった。これ以上戦場ヶ原を待たせてから勉強しに行っても、勉強も進まないし気も進まない。
 あ。
 最初から戦場ヶ原もここに来てもらえばよかったのではないだろうか。戦場ヶ原なら神原の手綱を取れるし(たぶん。その気になれば)、掃除は好きなはずだから僕なんかより余程効率的に神原の部屋を片づけることができただろう。僕らを手足のように使って片づけを進める戦場ヶ原の勇姿が目に浮かぶようだ。
 采配を揮う戦場ヶ原。
 格好いい。
 蕩れてしまう。
 今からでも電話してみるべきだろうか。それもまた気が進まないのだけれど。
 あいつ平気で着拒するからな。
「戦場ヶ原先輩に電話するのか?」
 スパッツを(頭から)脱がせて、代わりに箪笥からはみ出していた大きめのTシャツを被せた神原は、髪も乱れたままで、さながらパジャマ代わりに彼氏のTシャツを着ているような風情があって、僕も心に何か感じるものがあったのだけれど、これ以上品格を落とすのも僕の沽券に係わるからその気持ちは胸に一生仕舞っておくことにする。
「そうしようかと思ったんだけれど、どうしようかなあ、結構待たせたから怒ってるかも」
「なら、私がかけてもいいか?」
 何かあらぬ誤解を受けそうな予感をひしひしと感じるが、それは確かに魅力的な申し出だ。神原が話せば案外許してもらえるかもしれない。
 取り敢えずこの場は。
 電話口で無言の一時間よりは後で会ってなぶられる方が精神的苦痛が少なかろう。
 しかし一向に恋人のことを語っているようには見えないのは気のせいだろうか。
「ええっと、アドレス帳……アドレス帳……?」
 携帯を取り出したはいいが、キーに人差し指を突きつけて固まる神原。
 説明書くらい読もうぜ。アドレス帳すら呼び出せないのかよ。
「ああ、そんなものもあったっけ……遙か昔にどこかで見たような」
 機械音痴以前の問題だった。
 こいつはお子様ケータイでいいだろ。自宅と戦場ヶ原と僕にさえかけられればいいんだから。短縮ボタン三つで充分だ。
「あ、もしもし、戦場ヶ原先輩? ああ、私だ。うん。いや? そう。うんうん。ああ。伝えておく。では、失礼」
 以上が僕の携帯を使って神原がした戦場ヶ原との通話の一部始終である。
 相槌しか打ってねえし。
 つまり戦場ヶ原は神原が僕の携帯で電話してきたことからこちらの情況を瞬時に察したために、神原は特に説明する必要がなかったのだろう。
 怖っ!
「……ガハラさんは何と」
「ああ、万事了解だが遅くてもいいから必ず出頭せよとのことだった」
 やっべ。
 神原の男前な口調というフィルターにかけられてはいるが、それも僕の脳内では瞬時にガハラ語に変換・再生された。
 背中に一筋の冷や汗。悪寒レベルの恐怖を感じる。
 でも、仕方がない。腹を括らないと。
「そっかい。ごめんな、代わってもらって助かった」
「なんの、阿良々木先輩のためとあらば死をも厭わない私だ。敬愛する戦場ヶ原先輩への電話などむしろ願ってもない。実際私が頼んだのだしな」
 神原は寝起きみたいな格好で格好いいことを言った。
 男前だ。
「そこは厭っとけよ。僕のせいでお前に死なれでもしてみろ、僕は心に消えない傷を負ってその先死ぬまでの一生暗澹たる人生を送る羽目になる」
 格好いい。それは美しいけれど。
 正しくはない。
 要するに。
 僕と同じだ。
 ある意味、こんなことをされたら堪ったものではないのかもしれない。僕の場合無言実行で相手が不特定だから尚更にとんでもない男だ。戦場ヶ原の気持ちが窺えるけれど。
 性分なのだ。
 何度痛い目に遭っても。
 矯正などできない。
 蓋し妹たちは色濃く僕の影響を受けているのだろう。正義の味方ごっこには辟易だが、あながち僕は彼女たちに強く意見できる立場ではないのかもしれない。
 それでも結局のところ、それだからこそ、僕は戦場ヶ原に出会えたわけで、そういう性分であったからこそ、戦場ヶ原は僕を好きになってくれたのだとも思う。
 はなはだ迷惑な話なのだけれど、ことのほか僕はそういう性分を気に入っているのだろう。それに対して、どれだけの責任が取れるかは保証しかねるけれど。
 首筋の痕と同じく、きっと、一生消すことができないものなのだろう。
「僕も人のことはとても言えないけれど、全体的に見てお前は僕のこと好きすぎるよ。一途に見えて、結構惚れっぽいよな、神原って」
「それは心外な。私の本命はあくまで阿良々木先輩と戦場ヶ原先輩のご両名だけだ」
「本命が二人って! 最も何々なうちの二つだ、みたいなよく考えてみたらそれってどっちも一番じゃないよねーって発言だ!」
「女性の本命は戦場ヶ原先輩、男性の本命は阿良々木先輩ということでいかがだろうか?」
「いかがも駿河もねえよ。お前が百合だろうが両刀だろうが本命が複数あっていい理由にはならない」
「し、しかしどちらかをと言われても、私は本当に阿良々木先輩と戦場ヶ原先輩が同じくらい本気で好きなのだ! 選ぶなんてとても無理だ!」
「浮気男の言い草だ!」
「強いて言うなら……そうだな、お二人のうちどちらかが死んだら迷わず残った一人と結婚する所存だぞ」
「爽やかに怖えー!」
 まったくヴァルハラコンビは本当にお似合いのコンビだよ。
「そもそもお前って戦場ヶ原一筋だったんじゃないか。恩を感じるたびに惚れていたら身体も心も幾つあっても全然足りない」
 恩で惚れるなんて言ったら、僕の本命は羽川ということになってしまう。
 当然羽川は大好きだけれど。
「いや? 以前にもそのような話をしたけれど、別に恩を受けたから阿良々木先輩を好きになったわけではないんだ」
「え? だってさっき羽川にそんなこと言ってたじゃねえか」
 神原は言葉を探るように頭を掻いた。
「んん、そうだな、あのときは言葉を端折りすぎた。確かにそういう面もあるけれど、それだけではない。恩を受けたから好きになったというわけではない……あのとき恩を受けたというのなら、私は忍野さんを好きになっていてもおかしくないだろう? でもそういうことはない。あのとき阿良々木先輩が私のために命を懸けてくれたということ事態は、直接関係ないのだ」
 だって阿良々木先輩は、誰でも助けるのだろう――神原は戦場ヶ原に倣うかのように、完全に同じことを言った。
 コンビネーションよすぎだ。
「あれはつまるところ、きっかけにすぎないのだ。ご迷惑をおかけしたが、あれで私はけじめがついた。あのとき阿良々木先輩がレイニーデビル、私と私の左腕と対決してくれたからこそ、私は阿良々木先輩を実感することができたのだ」
 神原はまるでそこに大切なものでもあるかのように、そっと胸に手を置いた。
「それを経て初めて、私の中で、阿良々木先輩への憎しみが、いや一切の負の感情が消滅した。私は納得することができたのだ。つまりな、私はその時点ではもう、阿良々木先輩がレイニーデビルと対峙することを選んだときには、阿良々木先輩のことを好きになっていたのだ。けれど、まだ、私の感情が納得していなかった。戦場ヶ原先輩への想いが強すぎて、阿良々木先輩への好意を承服しかねたのだな……そして、でも悪魔は去った。まさに憑き物が落ちたように、私は全身で納得できた」
 人は――恩で人を好きになるわけではないのだ。
 確かに、恩人には感謝とともに、好意を抱くことが多いだろう。でも結局、それは畢竟、きっかけにしかなりえないのだ。恩イコール好意ではない。既に持っていた好意を、そのきっかけで確信することもあるだろうし、それをきっかけにその人のことをよく知るようになり、好意を持つに至ることもあるだろう。順番などはどうでもいい。ただそのとき、助けられた、助けようとしたという意志が介在することによって、その相手を違った視線で見るようになることがあるというだけの話だ。
 きっかけとして、分かりやすいというだけなのだ。
 戦場ヶ原も明言している。戦場ヶ原は戦場ヶ原を助けたという理由によって僕を好きになったわけではないのだ。なぜなら、僕は誰でも助けるからだ。特に戦場ヶ原だから助けようとしたのではない。彼女の僕を好きになる努力をしたいという気持ちはまさに、僕が戦場ヶ原を助けようとしたことが、あくまできっかけであったことを示していたのだろう。
 神原も同じだと言いたいのだろうか。
 それは、素直に喜ぶべきところなのかもしれないけれど。
「阿良々木先輩、忍野さんに紹介してもらう前、私がどうしようもなく愚劣な発言をしたことを覚えているか?」
「ん、ああ、戦場ヶ原の代わりになる、とかいう話か?」
「うん、あれはな、相手が阿良々木先輩だからこそ言えたことだと思うのだ。私とて女の子だからな、戦場ヶ原先輩のためならいかなる忍苦も耐えられる……いやむしろ戦場ヶ原先輩のためになるならいっそそれを悦びにできる、とは言うものの、やはり人に肌を許すということは、相手によって多分にモチベーションを左右されることなのだ」
「まあ、そうだろうね」
「そうか、ご理解いただけて嬉しい。阿良々木先輩も、例えば忍野さんだったらよくても他の男性とでは抵抗があるというわけだな」
「あらゆる男に抵抗があるよ! って思わず突っ込んじゃったけど、ここでこういうタイミングでここまでずっと真面目な話してたのにそういう流れに持ってっちゃうの!?」
「すまない、私は真面目な話が苦手でな……三分が活動限界なのだ」
「お前は光の国から来た人だったのか!?」
「ほら、カラータイマーが……」
「カラータイマーはパンツの中にはないからめくるな! そんなところにあったらテレビをご覧の視聴者の方々に分かりづらいだろ!」
「M星雲から来たのだ」
「そんな変態な星雲は存在しない!」
 びっくりした!
 もうこの一話はもう一切金輪際真面目な話で終わるもんだと思ってた!
「しかし、あれだな。つまり忍野さんとなら構わないと」
「そんなことはひと言も一字たりとも言っていない! 僕に男友達がいないからって無理矢理忍野と絡めてくるんじゃねえ!」
「忍×阿、というカップリング名は響き的に差別表現として規制されてしまいそうだな」
「お前が規制されろ」
「こよメメ」
「攻守が逆転している!?」
「まあ、今は別にこの話はいいだろう。いずれゆっくり」
「お前が始めたんだし改めて話す気もねえよ」
 あの時点で――神原は言った。ちょっとふざけて充電したのか真面目な話に戻る気になったらしい。
 少なくともあと三分間は。
「あの時点で既に、阿良々木先輩と関係を持つことにさほど抵抗は感じていなかったのだ。比較的な意味だが。私が憎んでいたのはある意味戦場ヶ原先輩の恋人という属性であって、阿良々木先輩個人の人格を憎んでいたわけではなかったし、直接何かされたわけでもないしな。自家撞着かもしれないが、戦場ヶ原先輩の選ぶ人なら、という見方も少なからずあった。忍野さんも言っていたが、私に襲われた翌日、忍野さんに相談するより先にまず加害者と目する私の方に会いに来たときから、漠然とではあるが阿良々木先輩がどういう人なのか分かりはじめていたし、だからこそ『代わりになる』などと馬鹿げた提案を認めるはずがないだろうとも思っていて、それゆえにそういう提案ができたのだと思うのだ」
 神原は微笑んだ。それは半ば自嘲で、もちろん散らかった部屋を見られたときより格段に恥らってもいて、それでいて、どこか誇らしげでもあった。
「それがために阿良々木先輩に甘えてしまったのだ。阿良々木先輩に好意を持ったからこそ、憎しみをぶつけることが……私を受け止めてもらうことができたのだと思う。矛盾しているように聞こえるかもしれないが、そう思うのだ」
「そう言うなって。あのときはあれが、僕とお前にできる精一杯だったんだ」
 その精一杯も、何もかも見透かして、忍野は手を貸してくれたのだろう。
 僕の持ち札は、やはりあれだけだったのだ。
 後輩の片腕か、僕の命か。
 そんなのに、選択の余地はない。
 嫉妬した。憎悪した。神原は嫉妬し、憎悪し、自覚もないままに僕に殺意を抱いた。
 けれど、思った――願っただけで、それは代償として片腕を失うほどの罪悪なのだろうか。忍野は、人一人の命と比べれば左腕だけで済むのなら安い買い物だと言ったけれど。やはりそれは、僕にとって正しいことではなかったのだ。そもそもそれは天秤にかけられるようなものではない。
 忍野の見解は――いや客観的にはそうなのかもしれないが、僕からすれば神原は全然、一向に悪いことなどしていないのだ。
 むしろ、忍野自身が言っていたように、殺したいほど憎んでもおかしくはない。
 無理もない話だ。
 憎むなと言う方がおかしい。
 思ってしまった、ということが罪だと言うなら。
 それは断じて間違っている――と、僕は思う。
 神原が無事で本当によかった。こうして僕が生きていて、神原の左腕も切り落とさずに済んで結果オーライとなったからそう思うのではなく、いかんせん、胸がむかつくほどのお人好しであろうと、僕はあのときから変わらず、神原が無事で本当によかったと思わざるをえない。
 これも、美しくはあっても正しくはない。そんな考えなのかもしれない。
 でも。
 だから。
 僕は変わることができないのだ。
「阿良々木先輩はきっと、私に殺されてしまったとしてもなお同じことを言うのだろうな」
「喋れればね、言うさ」
 喋れたのなら、僕は今際のひと言として戦場ヶ原に神原を殺さないように懇願していたに違いない。
 確かにまあ、どう見積もっても超々弩級のお人好しである。
 人から見れば、そりゃあ胸もむかつくだろう。
 強いな――神原は呟くように言って僕に右手を伸ばしたが、空を掴んで畳の上に下ろした。
「弱くて薄いんだよ、僕は」
 僕は照れ隠しに神原の頭をちょっと乱暴に撫でてやった。
 神原は暫く面映そうに笑ってなすがままにされていたが、やがて僕の手を掴んだ、というか捕まえた。そのまま両手で包み込むようにする。
「阿良々木先輩」
「なんだ」
「私はやはり、阿良々木先輩が好きだ」
 穏やかに微笑んで。
 頬を染めて。
 僕の目をまっすぐ見つめて。
 神原は宣言した。
「阿良々木先輩が大好きだ」
「……ん……んん……っ」
 そんな真剣な調子でストレートに告白されて。
 どうしたらいいものやら。
 取り敢えず硬直するほかない。
「ああ、阿良々木先輩阿良々木先輩」
 神原はいとおしげに僕の手に頬を寄せる。
「か、神原、あのな、神原さん?」
「うん。もう駄目だ」
「はい?」
「我慢できない」
 どこまでも爽やかに、カリスマさえ感じさせる笑顔で。
 自己紹介するような気軽さで。
 神原は僕に飛びついてきた。
 とても胡坐から移行したとは思えない速度。それは捕食動物の瞬発力だった。
 食われる!
 瞬間的にそう思った。
「好きだーっ!」
 絶息するほどに抱きすくめられ、折悪しく後ろに畳んであった蒲団の上に押し倒される。
 脳が揺れる。
 肋骨が軋む。
 僕はさながら子供らにもみくちゃにされる着ぐるみの気分を味わっていた。
 あららぎーにとーびつーこう!(どーんどん)と言った体である。
「戦場ヶ原先輩には申しわけもないが、罪は全て私が被るから!」
「あいつはわけもなく僕を殺すぞ!」
 造作もなくという意味で。
「あはは、夏服を脱がすのは簡単だな!」
「神原さんお願いだから会話して! 話し合おう! 話せば分かる!」
「身体に教えてもらわないと分からん。さあ!」
「促すな!」
 すったもんだの末、苦肉の策だが僕は神原を抱しめかえすことによって相手の動きを封じた。密着していれば何もできまい。
 徒に脈拍と呼吸だけ上がるばかりで、一向に話が進まない。
「阿良々木先輩の鼓動が聞こえる……凄くドキドキしている。私と同じだな」
「それはただの動悸だ」
 それでも案外神原は幸せそうだったけれど。
「しかし、なんだな。私はもう戦場ヶ原先輩より阿良々木先輩の方が好きなのではないかな」
「なんと」
 嫉妬に狂って僕を殺しかけた女の発言とも思えない。これがかつて、そして今再びヴァルハラコンビと謳われる片割れの発言だろうか。戦場ヶ原を神のごとく崇め奉る神原駿河が、あの神原が、僕のことが戦場ヶ原より好きだと言うのだ。
「やはり、二人であの邪魔な女を殺して……」
「物騒だ!」
「ゆくゆくは二人の子にひたぎと名づけよう」
「呪われた名だ!」
 このタイミングで言われると本気に取りかねないような発言だった。もっとも戦場ヶ原も冗談口に神原を無体に扱うし、これはこれでコンビとして釣り合いが取れているのかもしれないが。実はお互い遠慮のないフランクな関係だったりして。当然のことながらこいつらが二人きりのところは見たことないわけだし。
 さりとて僕を戦場ヶ原より好いていると言っても、これまでの感情が消えるわけでもなし、天秤にかけるというよりむしろ僕のポイントが加算されたということなのだろう。
 性的嗜好の上ではマジョリティに近づいたということだ。
 泥沼になりかねない可能性も近づいたけれど。
「今ここに居ないお方のことはさておき、今まさに愛し合う二人は蒲団の上、準備万端なわけだが」
「僕の心が準備されることは永遠にねえよ」
「確かに阿良々木先輩の子なら私とて産みたい。しかしお互いまだ高校生の身、金銭的な問題はともかく子供のためを思えばここは避妊を行うべきだろうが、生憎と避妊具の持ち合わせがないな」
「まっとうな発言だ」
「買ってくる。一分で戻るから待っていてくれ!」
 勝ち目のない戦いに赴く漢の微笑で僕に一瞥くれると、やおら神原は、止めてくれるなとばかりに僕の腕を振り切って立ち上がる。追い縋るようにその足首を捕まえることができたのは、殆ど僥倖としか言いようがなかった。
 変色した畳の上に転倒した神原はどこから出したか既に財布を握り締めていたが、それこそさておきパンツのままコンビニにでも行くつもりだったのだろうか。
 恐ろしすぎる。
 あの先輩にしてこの後輩あり。
 恐るべきコンビネーションである。
「あ、阿良々木先輩!」
「抗議は受け付けない」
「いや、違うんだ阿良々木先輩!」
「十中八九違わない情況で使われる台詞だ!」
 僕御用達!
「私は真理を見た!」
 神原は輝かんばかりの晴れやかな笑顔で叫んだ。
 御祖母ちゃんが聞いたら孫娘の検査入院を検討しかねない危険な台詞だった。
 いや僕もちょっと検討した。倒れたとき変なところでも打ったのだろうか。
「これが落ち着いていられるか!」
「人がモノローグですら発していない考えに先回りして答えるな!」
「分かった、分かったのだ阿良々木先輩」
「何だか知らないが僕は一生分かりたくない気がするぞ」
「まあ、聞いてくれ。提案があるのだ。阿良々木先輩、神原家の養子にならないか?」
「お前の婿にはならねえよ」
「いやそうじゃない、私の祖父母と養子縁組をするのだ」
「なぜお前と兄弟に……あ、違うか、一世代飛ばしてるから」
「そうだ! 阿良々木先輩が私の祖父母の養子になれば、私は阿良々木先輩の娘! 阿良々木先輩が戦場ヶ原先輩と結婚すれば二人は私のご両親! なぜ今まで思いつかなかったのか。是非そうすべきだ、お父さん!」
「斬新な後輩だ!」
 高校生。
 学生生活。
 華やかなあれやこれや、後輩とのキャッキャウフフなひと時やら、若者たちの懊悩、煩悶、眩い青春の一ページは数多く存在するのだろうけれど。
 まさか後輩に義父になることを求められるとは。
 想定外過ぎる。
 神原は好きだけれどこんな娘を持ったら心配で寿命が縮みそうだ。
 戦場ヶ原にしたところで、「この親にしてこの子あり!」と世間様から後ろ指指されること請け合い。御祖母ちゃんの心配は想像に難くない。
 心中、お察しします。
「神原暦、神原ひたぎ、そして神原駿河。ああ、まるで天上の調べのような響きではないか!」
「お前の脳を調べるべきだよ」
「あっはははははは!」
 テンション高過ぎだった。
 僕の顔に縦線が引かれるほどの後輩の狂態であった。嬌態ならまだしも突っ込めるけれど。
 会話が成立しない。
 大丈夫かこいつ。
 本気で怖くなりかけたところで、再び僕に飛びかかる神原。
 その俊敏なる動き、猛虎もかくや。
 抵抗する間もなく囚われの身となり、一塊となってごろごろ転がる。どうしてこの部屋はこんなに広いのだろう。どうせBL小説を読むか寝ることくらいにしか使われない部屋だ。一畳くらいで充分なのではなかろうか。その方が片づけが楽でいい。
 三半規管が悲鳴を上げる前に腕を突っ張って横転を止め、手では神原の顔と肩を掴み、脚は身体の間に割り込ませて何とか変質者を引き剥がそうと試みる。本気を出しているのに胴体に絡みついた腕は結束バンドのごとくびくともしない。絶対量としては僕の方が力があるのだろうが、力の使い方が違うのだろう。その上何気なく使っているが神原の左腕は物騒なことに、怪異が去った後もいまだ尋常のそれではないのだ。
 お互い怪異の後遺症を残す身、同病相哀れんでもう少し手加減をしていただきたい。
「まあまあ、あとせめて一時間くらいは抱きつかせてくれ」
「長っ! かくなる上は大きな声を出すぞ!」
「うむ、聞こうか」
「…………」
 悪意もなくひねくれてもいない分タチが悪い。実際諦めも悪い女だ。そんなところすら戦場ヶ原を見習ってしまったのか。場合によっては美点にもなるかもしれないが、この場合厄介極まりない特性だ。
「阿良々木先輩はいい匂いがするなあ」
 神原はうっとりと目を閉じて僕の胸に顔をこすりつける。
 抱きつかれること自体はそんなに嫌ではない。
 ただ迷惑なだけだ。
 一番迷惑なのは僕の人の好さなのかもしれないけれど。
「なあ、神原」
「うん、私も好きだ」
「……あのな、一応確認するけれど、念のためな。お前さ、ふざけて色々と言ってはいるけれど、僕のことが好きだって言うのはその、A、『先輩として、友人として』という意味でファイナルアンサー?」
「いや、Bの『男性として好き』だな」
 断言された。
 かえって心外だとでもいうような調子で。
 むしろ、墓穴。
「無論だがな、阿良々木先輩という男性を、私は一人の女性として慕ってはいるけれど、阿良々木先輩と戦場ヶ原先輩との仲を邪魔立てする気など毛頭ない。私は結構、今の立場に満足しているのだ。まあ、機会さえあればいつだってお相手願いたいとは思っているが」
「最後の付け足しは明らかに余計だ」
「返す返す残念だとも、思う。おそらく阿良々木先輩が戦場ヶ原先輩と付き合わなければ、私と阿良々木先輩が知り合うこともなかったのだろうけれど、もっと違った形で出会っていれば、私は祖父母にひ孫の顔を見せてあげることができたかもしれないのに」
「諦めるのは早過ぎやしないか?」
 ここで通常のペースなら、『期待してもいいのか?』などと目を輝かせていたであろう神原だが、彼女なりに真面目に話すべき話題だったらしく、その口調は真剣だった。
 態度はともかく体勢は僕を押し倒したままだったが。
「それは、まあ、ないだろうな。前にも申し上げたとおり、異性に対してこんな気持ちになるのは珍しい、というか初めて、最初で最後だと言っても過言ではないくらいなのだ。基本的に私は百合だからな。女の子にしか興味はない……阿良々木先輩は、本当に例外中の例外だ」
 恥じらいもせず、悪びれもしない。
 面持ちはあくまで真剣で、惚れ惚れするほど格好いい。
 けれど。
 重っ!
 それはちょっと重い。そんな風に言われて、想いの丈をぶつけられて、恋人との仲を邪魔するつもりはないですけれど、どうしようもなく好きなのです、みたいなことを打ち明けられて、モテる男は辛いねえ、などと余裕をかませるほど、僕は浮ついた性格ではないのだ。
 運の悪いことに僕は人が辛い思いをしているのを黙って見過ごせない人間だ。
 お人好しである。
 性分なのだ。
 無責任にも考慮だにしたことがなかったが、自分に全く解決できない問題を見つけてしまうとは。
 誰かの力を借りることもできず。
 僕にもどうしようもない。
 どちらかを切り捨てなければならない。
 パラドクス。
「……ああ、すまない。困らせる気はなかったのだがな。本来言うべきではなかったのかもしれない……またうっかり甘えてしまった」
「いや……」
「気にすることはないんだぞ。悪いのは全部……阿良々木先輩だ!」
「まさかの展開!? でもその通りです!」
「全くもって罪な男だ。阿良々木先輩は。この先一体どれほどの女の子を泣かせることやら。うむ。やはり世のため人のため、あのとき殺しておくべきだったかな」
「再び物騒だよ!」
 神原は悪戯っぽく笑った。真剣と冗談の振れ幅が大きいというか、切り替えが早いというか。こいつはこいつで割りと難儀な性格をしているのかもしれない。
「話は戻るが、阿良々木先輩をストーキングする前、そう、丁度阿良々木先輩と戦場ヶ原先輩が恋人関係にあると知ったころのことだがな。当時の私は、怒りだ! もう怒りしかない! という感じだったのだが」
「その役回りはどちらかというと僕だろう。能力的に。お前はパピヨンだよ」
「カン! バル! もっと愛を込めて!」
「蝶・似合う!」
「私のるろ剣に対する熱い想いを聞きたいのか?」
「勘弁してください」
「懐かしいな、当時私はそれと知らずに買ってしまったアンソロ本を手に、御祖母ちゃんに訊いてしまった。『御祖母ちゃん、左之助ってホモなの?』」
「黒歴史だ!」
 げんなりしだした僕は神原を胴体にくっつけたまま、腹筋を使って何とか身体を起こすことに成功した。絡みつかれたままの格好でも押し倒されたままよりはマシというものだったが、無理な姿勢になったせいで神原もやっと腕を解いた。そのまま胡坐で向かい合う。
「……まあ、端的に言えば単純に、阿良々木先輩がどんな男なのか知っておきたいと思ったのだな。昔の戦場ヶ原先輩もそうだが、今の戦場ヶ原先輩の心を射止めたというのなら尚更、信じがたかったというか、それはもう驚天動地だったから。けれど、阿良々木先輩と初めて言葉を交わしたときから、もう私は納得せざるをえなかった。毒気を抜かれてしまったというかな。話す前は、流石の私もかなり緊張したのだ。憎くて憎くて仕方がない阿良々木先輩を前にして、まともに会話ができるかどうかすら不安だった」
 それを語る神原の表情は、それが全て終わって過ぎ去ったことであることを示すようにあくまで穏やかだった。
「もっとも、そんなことは杞憂だった。いっそバカバカしいくらいに。私には阿良々木先輩を憎みつづけることができなかった……いや、憎かったのだけれど、その憎しみを理性が認めなかったのだ。仕方がないのじゃないかと思った。まだまだ阿良々木先輩のことは全然知らなかったけれど、戦場ヶ原先輩が好意を持つに値するだけの人なのだと、漠然と感じた。阿良々木先輩を憎むのはお門違いだと……でもそのときはもう遅かった。私の左腕はそれを前提に行動を始めていたからな」
 それがあの踏切での襲撃だったわけだ。戦場ヶ原に話を聞く前は、僕は当惑以外に持つべき感情を知らなかった。それこそ八九寺の言ったような可能性を一瞬ではあるがちょっと疑ったくらいに、神原の真意は不可解だったのだ。
 知らぬ間に憎まれて、知らぬ間に見直されていたとは。
 殺されかけたことに変わりはないのだけれど、そこはそれ、結果オーライだろう。
 何も知らなかった僕のことより、知った上で止められなかった神原の気持ちはいかばかりであったか。
 想像に難くない。
 しかし想像を絶する。
「怪異のせいばかりにもできないがな。結局のところ、私が憎み、私が願ったのだ。憎みたくなかったが、やはり憎かったし、諦めたかったが、心底、私は、戦場ヶ原先輩を諦めることができなかった」
 どうしても諦め切れなくて。
 僕らは途方もなく無意味に潰し合った。合ったというより、僕が一方的に神原に、レイニーデビルに叩き潰されたのだけれど。
 それはそれで。
 忍野はきっと、それしか考えられなかった頭の悪い僕を見かねて、戦場ヶ原を呼んでくれたのだろう。もしくはその、お人好しの自己満足に過ぎなかったとはいえ僕が決めた覚悟を、どうしようもなく助けようとせずにはいられなかった僕の胸の悪くなるような甘さを、忍野も少しは加味して、力を貸してくれたのかもしれない。
「よかっただろ……諦めなくてさ」
「あ、ほら、ほらほらほら、それそれ。そういう格好いいことを自然体で言うからいけない。何度私を惚れさせれば気が済むのだ」
「話の余韻とか情緒とかねえのかお前は!」
 神原はしかし、嬉しそうだった。
 それは屈託のない本当に晴れやかな、曇りのない、輝かんばかりの笑顔なのだ。
 神原が今こんな風に笑えるなら。戦場ヶ原を好きでいられるのなら。
 他の誰もが、少なくとも僕の手の届く範囲の、誰もがこんな風に笑えるのなら。
 大きなお世話も余計なお節介もありがた迷惑も。胸が悪くなるほどのお人好しも、それはそれで、悪くないことなのかもしれない。
「まあ、気持ちの問題はよいのだ。本当に、阿良々木先輩は罪悪感を持つ必要はない。私は納得しているし、満足しているのだからな。しかしなあ、阿良々木先輩も相当に我慢強いお人だ。私のような可愛い女の子にここまで熱烈に迫られて、肉体が反応しないのか?」
 嫌なことを言う奴だ。さりげなく自賛しているし。
「自制心の鬼と呼ぶがいい」
「ほう、つまり反応はしているのか」
「あからさまに局部を見るな!」
「そうだ、阿良々木先輩、トイレに行きたくはないか? それに私がついていくだろう? そうしたら必然的に私は阿良々木先輩の男性的な部分を見ることができるというわけだ……」
「いや、そのりくつはおかしい」
 結局のところ話は全く進まず。
 僕は命と貞操が惜しいので、神原家を後に、一路戦場ヶ原家へママチャリを飛ばした。

09/10/26