徒アダモノ物ガタリ語
こよみナイトメア
01
無意識は罪になりうるのだろうか。 いや、違う。この場合は、罪というほどの段階に相当する前の段階でも、僕が僕の無意識に責任を負わねばならないのかどうかが問題なのだ。 結論から言ってしまえば、というか、一般論からすれば、僕は僕の無意識に責任を負う必要もないし、考えるだけならどんなことでも許される。それはたぶんまだ起きていない犯罪を取り締まることができないのと同じ理由で。 客観的に見れば、僕は自由だ。 主観的な話をすれば、僕は自由とは言えないかもしれない。 法的に許されても、倫理的に許されないことが色々とある。そう考えると、常識的にしてはいけないと思われていることは沢山あるけれど、なぜしてはいけないのかと言えば、誰が禁じているわけでもなく、本人のためにならないから、あるいは自分がしたくないからしないのであって、誰に迷惑をかけたわけでないとしても、独りで罪悪感を背負い込むことは十二分にありうるのだ。 もしそれが知れたとして、誰も何とも思わないようなことに対して気が咎めるのは、ただ単に単純に、僕の人間性がただただ矮小であるからなのかもしれないのだが。 * 夢を見た。 それはもう出し抜けに、明快に、馬鹿馬鹿しくなるくらいどう見ても夢だった。それを夢だと思った理由は幾つかあるのだけれど、まずはその場に見覚えがないということ、その場所に居ることを気づく最前の記憶は自室のベッドの上であったということが、主だった理由に挙げられる。 だから、僕が寝ている間に物好きな宇宙人にでも誘拐されたのでない限り、今僕が居る場所は現実世界ではなく、僕自身の無意識が僕自身の記憶と妄念をスクラップして作った虚構の世界だ。 ああ、いや。もちろんそうでない可能性もある。 それは、できれば考えたくないことなのだけれど。 仮に、これがその考えたくない可能性ではなく夢なのだとする。だとすれば、異様にリアルな夢だと言わざるをえない。夢の中で夢を自覚したことはあったが、ここまで現実味のある夢を見たことはない。 しかも思い通りに動けるようだ。テレビか何かで見て知っている、明晰夢という奴なのだろう。 僕はダブルベッドの中央に座っていた。何とも、落ち着かない。ホテルか何かの一室であるらしく、見回すと調度品もそれらしいものが揃えてある。鏡台、サイドテーブル、冷蔵庫、テレビ。たぶんビジネスホテル的な場所なのだろう。利用したことがないから断言はできないが、しかしどうしてまたこんな夢を見ているのだろうか。心のどこかで社会人気取りでビジネスホテルを利用したい願望があった、とか。 何ともしょぼくれた夢もあったものだ。どうせならスイートルームで美女を侍らす夢でも見ればいいのに。一瞬、脳内で(夢の中が脳の中で展開されている世界なのだとしたら脳内というのも妙な表現ではあるが)再生されたワンシーンの配役が、侍らす人、僕。侍らされる人、忍(大人バージョン)。であったのは、名誉のために言わせてもらえば、僕が美女と聞いたら、元『怪異殺し』、伝説の吸血鬼の成れの果ての在りし日の姿を差し置いて何者をも連想することができないからだ。彼女は掛け値なしに美しかった。 だから、というか理由になるのかどうか、恋人たる戦場ヶ原をまっさきに連想できなかったことに僕の責任はない。大体そういう場合において特定の相手がいるとしても、この手の妄想に出演させることはないだろう。 そもそも、恋人という言葉と、美女を侍らすというシチュエーションが甚だしくそぐわない。だから、単にこれは不実な夢想でしかない。 別に僕が戦場ヶ原に負い目を感じる必要はないわけだ。 たぶん、ない。 そもそも、スイートルームで僕に侍らされている戦場ヶ原なんて想像もできない。部屋がきれいな神原くらい想像に難い。行為の主体が間違っている。言うまでもなく侍らせるとしたら戦場ヶ原が、であるし、戦場ヶ原がベッド。僕、クローゼット。これが正しい構図だ。 戦場ヶ原とホテル、と考えただけでちょっとドキドキしてしまうのは否定しないが。 ともかく。生活感のない部屋の中に、突然放り出されてしまった。それが今の情況である。 どうしたものかと寄る辺なく辺りを見回して、落ち着かない原因に気づいた。 窓がない――いやある。あるけれど、目張りされている。一体僕の無意識の何を暗喩しているのだろう。 物音。 ベッドは壁際を頭にして左手に壁、その奥に通路がある。たぶんその向こうにドアがあるのだろう。不如意に身体が警戒を示し、片膝立ちになる。ベッドは妙にふわふわして足場が悪い。下りるべきか、迷っている時間はなかった。 果たして、一瞬の迷いが命取りになる、ということにはならなかった。 「やあ、阿良々木先輩じゃないか。何をやっているんだ? こんなところで」 ずかずかとベッドまでやってくる神原を見て、僕は警戒を解いた。どの道夢の中で何か起こったところでどうということはないだろう。 「夢の中でそんなことを聞かれるとこの上なく思弁的に聞こえるよな……」 神原は、どういうわけかバスローブ姿だった。対して僕はというとジーンズにパーカの変わり映えしないいでたちだったが、どう考えてもこれは夢だろう。 「夢? ああ、そうだな。夢なのだろう。残念至極だが私は深夜まで読書(BL小説)をしていたから、阿良々木先輩と連れ立ってホテルに来られたはずもないものな」 「夢の中の登場人物も夢の自覚があるわけか。まあ夢なんて辻褄の合わないものだけれど、こうして夢の中でお前と会話するのは何だか不思議な気分だな」 神原は少し首を傾げて、ベッドに上がってきた。 「登場か。するとつまり、これは阿良々木先輩の夢なのだな、私の夢ではなく」 「え? 違うの?」 斬新な切り口だった。僕は神原の夢の中に登場している僕なのか? だとすると、僕の意識は一体どこにあるのだろう。 「違うのだろうか? 確かに、これが私の夢だとしても一向に不思議はないのだが……」 「自分の意識は自分の存在を証明できない、なんて話がカッコイイのは中学生までだ。僕は僕の見たものしか信用しない。だからこれは僕の夢だ」 「うん、そうだな。阿良々木先輩の言う通りだ。これは阿良々木先輩の夢なのであって、私が枕の下に阿良々木先輩の隠し撮り写真を敷いて寝ていたために阿良々木先輩を夢に見ているわけではないのだな」 「敷くな!」 「いやだ!」 短い応酬の合間に神原はすっかり僕の隣に腰を落ち着けてしまった。少し伸びた髪はしっとり湿っていて、まるでたった今シャワーを済ませてきたかのようだ。そういえば心なし肌も上気している。 「……訂正しよう、別に僕の写真を敷いたって全然構わない。けど、何だ、何でお前僕の写真持ってるんだ? 撮ったのか? 隠し撮りしたのか? 僕の後輩は盗撮魔だったのか!?」 神原は悪びれた風もなくにっこり笑った。潔白な人間でなければとてもこんな笑顔はできまい。つられて僕も笑い返す。 「そうだ!」 「いやだ!」 嫌過ぎる。見知らぬ人間が僕の知らないうちに僕を盗撮しているのもぞっとしない話だが、後輩が、それも仲良しで僕のことを海より深く尊敬している後輩が僕のプライベートな瞬間を盗撮していたと思うと、それはとても変態・神原以外には笑って許せるようなことではない。 神原なら仕方がないけど。 「といっても、実は阿良々木先輩をストーキングしていた時期に撮ったものだから、余りいい写真とは言えないのだがな。目線もないし。今度、是非写真を撮らせてくれ。服を着ていてもいいから」 「お前に僕のヌードを撮らせるっていう選択肢はそもそもねえんだよ!」 「うん。着衣も中々エロいものな」 「服を着ていてすら逃れられない!」 「しかしまあ、あのときは写真がこんな風に役立つ日が来るとは思ってもみなかった。運命を感じるな、阿良々木先輩!」 「いや、いやいやいやいや。それは違う。これが僕の夢だとしたら、僕の写真を枕の下に敷いて眠っている神原というのはあくまで僕が、あるいは神原ならそれくらいするであろうという想定のもとに無意識のうちに作り上げた神原だろうから、お前が僕の夢に出てきたのは運命とかそういうんじゃあないだろ」 「まあまあ、これが阿良々木先輩の夢なのか、はたまた私の夢なのか、結局のところ判断することはできまい。阿良々木先輩がどうお思いになろうと、私がこれを私自身の夢だと考え、枕の下に阿良々木先輩の写真を敷いていた効果により私の夢に阿良々木先輩が出てきたのだと認識したとしても全然構わないだろう。逆に言えばこれが阿良々木先輩の夢であれば私が阿良々木先輩の夢に参上しているのは」 神原は何やら言いさしてこっちを見た。前にAはBでもありBはAでもある、云々、とかいうのが格好いいのは中学生までだ、と宣告されたことを思い出したわけではなさそうだった。そういえば結局こいつはスパッツの下にパンツを穿いていたのだろうか。バスローブではそんなスポーツ少女の小粋な落とし穴にハマることもあるまいが、当面、通常バスローブは裸の上に着けるものではないかという大きな問題が残ってしまう。 裾から覗いた神原の引き締まった白いふくらはぎになすすべもなく目線を奪われてしまうのは、健康な男子なら致し方ないことだ。 「私はどうして阿良々木先輩の夢に出てきたのだろうな? まさかとは思うのだが、阿良々木先輩には就寝時枕の下に私の写真を敷いて」 「するか馬鹿。駿河馬鹿。お前の写真なんか持ってないし、仮に持っていたとしても何で僕がお前の写真を枕の下に敷いて寝なけりゃならない」 「なんと! すると阿良々木先輩は校内で秘密裏に売買されているという私の盗撮写真を買ったことがないと言うのか?」 「母校にそんな市場が存在することに失望した……」 「まあ私が流出させた写真が大半を占めているがな」 「セルフプロデュース!?」 「自画撮りに見えないよう巧妙に撮影されている」 「いっそ立派なもんだよ!」 神原は企み顔でバスローブの合わせに手をかけた。 「望めばいつだって私の肉体を自由にできる立場の阿良々木先輩にはそれほど価値はないかもしれないが、よかったら今度とっておきの一枚を進呈しよう。もちろん使い道はご随意に」 「彼女の後輩に貰った写真をどう使えと言うんだ!?」 「それはまあ、写真立てに入れて机に飾ったり、切り抜いて定期入れの中にでも忍ばせて私を思い出すよすがにすればいいのではないかな」 うわ、普通だ。 普段エロいことばかり言っているから当然エロ方面の提案をしてくるだろうと思っていたのに。そんな普通の使い道を挙げられたらかえって僕の方が普通ではない写真の使い方を考えていたみたいでみっともないじゃないか。 といっても彼女の後輩の写真を机の上に飾ったり定期入れ(持ってないけど)に忍ばせたりするのは普通とは言えまいが。 「ああ、それに阿良々木先輩が写真加工の技術を持っているのなら、お好きな写真に私の顔を貼りつけてもっと阿良々木先輩の好みに合わせた実用的な写真にしてくれても構わないぞ。個人的利用の範囲内であれば複製や加工も認めよう。まあ何だったら阿良々木先輩の注文どおりの背景・着衣・体位の写真を新たに撮るというのも、一つの案ではあるな。目線のない写真ではいかにも盗撮じみていて、まるで阿良々木先輩が盗撮したかのように思われてしまっては悪いものな」 「余計な気遣いだ!」 「しかしなあ」 神原は腕を組んだ。 「こうして阿良々木先輩がいらっしゃる以上分不相応な望みかもしれないのだが、折角だから戦場ヶ原先輩も出てきてくれはしないのだろうか」 「戦場ヶ原の写真も一緒に敷いていると言いたいのか」 「当然だろう」 好きにしてくれ。 僕は脱力してベッドに横たわった。波打つ感触はおそらくウォーターベッドなのだろう。 天井を見上げた視界に神原のニヤニヤ笑いが侵入してきた。 「阿良々木先輩とて私のことばかりは言えまい」 「なんで」 「ここはラブホテルだ!」 「ここはラブホテルだ?」 十七年間一生無縁のように思われていた単語を聞いて、僕は再び部屋の中を見回した。サイドテーブルのトレイの上にティッシュボックスと一緒に見慣れぬものが置いてある。およそ五センチ角の二つの対辺が手で開封できるようにギザギザにになったコンパクトな袋だ。通常のホテルの部屋にはまず間違いなく用意されていないアメニティである。 絶句する僕を残して立ち上がった神原は証明のスイッチをいじった。蛍光灯が消え、なぜか設備されているブラックライトで天井に描かれた星座が淡く発光する。 「この安っぽさ、どう考えてもラブホテルだな。むしろムードが台無しだ」 「最低の気分だ……」 あれがデネブ、の偽者。アルタイル、の偽者。ベガ、の偽者。気分が物凄く萎える、というか、凹む。大切な思い出の悪質なカリカチュアがそこにはあった。しかも五分五分の確率で、それは僕の無意識の産物なのだ。これは凄く、萎える。マジで凹む。 神原はその思い出の中の戦場ヶ原のポジションをなぞって僕の横に寝そべった。 「気にすることはない」 左手が神原の包帯を巻いていない方の手で握られる。目をやると自然と目が合い、神原は優しげに微笑んだ。神原は冗談口にも僕に対してはどんなことをしても許すと(例は最低だったが)断言するほどに僕を尊敬していると言ってくれた。僕も何だか本当にどんなことをしても神原さえ許してくれれば救われるような気がした。 「神原……」 「そう、気にすることはない。たとえ恋人の後輩を淫夢に登場させてしまったとしても、全然気にすることはないんだ」 五秒で前言を撤回したくなった。 「淫夢確定かよ!」 「またまた、謙遜はやめてくれ、水臭いぞ。阿良々木先輩。お互い憎からず思っている男女がラブホテルのベッドに横たわる夢が、淫夢以外の一体何だと言うのだ?」 「ぐっ…」 悔しいがもっともだった。メタファーもへったくれもなく直裁に性欲と直結しているとしか思えない状況だ。フロイトも真っ青である。そんな夢を見ている上に、その夢の中では彼女の後輩に手を握られ見つめあっている有り様である。一つには、僕の指に神原の指が、関節技を極めているかのごとくがっちり絡んでいるからだが。 「それどころか、私は嬉しく思っているんだ、阿良々木先輩」 「嬉しく思わないでください神原後輩」 「いや、実際どんな内容であっても、阿良々木先輩と夢の中でも会えるなんて、望外の幸福だ。これがどちらの夢であるとしても、私はそう認識する」 何と言っても、阿良々木先輩が好きだからな、と神原は笑い、僕はそのあけすけで無邪気な笑顔に対し申し訳ない気持ちでいっぱいだった。 むしろ、惨めだった。 「さて阿良々木先輩、どうしたものか……阿良々木先輩が脱がせるのか、私が自分で脱ぐのかどちらがお好みかな? 私個人の嗜好としては、無理矢理乱暴に剥ぎ取られてみたいのだが……」 「お前に抱いていた罪悪感が消えてしまうような発言をするな」 「それは何よりだが、抱くなら罪悪感ではなくこの私にしてほしいものだ。罪悪感ごときに負けてしまうのは何とも悔しい」 「負けなきゃ駄目なとこだろ!?」 「ちなみに私が処女であることに遠慮がおありなら、それも無用だ。実践は確かに初めてだが、練習なら毎日のように行っているからな、ウブな生娘と思うことはない」 「生々しい話だ!」 何で僕は夢の中で彼女の後輩に誘われているんだろう。夢じゃなかったらいいわけではないのだが。かえってより困るのだが。しかも相手の方から誘ってくる展開なんて言い訳じみていて姑息だ。それとも僕は本当は無意識に神原に欲情していたのか? 「それにどうせ夢だ。遠慮なく容赦なく好きなだけ私の肉体を蹂躙するといい……フフ、期待感が私の身体の準備を整えていくのが分かるぞ」 「そこで直接的な表現を避けたところで今更挽回できないぜ……まったく、なんでこんなことになっちまったんだか……」 「うむ、冗談はさておき」 「どこからどこまでが冗談だったんだ?」 僕の質問には答えず、神原は右手を支点に身体を起こした。包帯を巻いた手が僕の胴体を通過して、肩の上に着地した。神原の体重がベッドを沈める。丁度神原が僕に覆い被さる格好だ。 「では間を取って私が脱がせるとしようか。私は受けだが新たな方向性を追求するのにはやぶさかではないぞ」 「お前も大概質問に答えないよな……取り敢えずどけよ」 「ああ、失礼した。つい夢中になってしまってな」 「分かればいいんだ。どけ」 神原は快活に笑い、爽やかに言った。 「生理なら先週終わったところだ、ご心配には及ばない!」 「僕の質問をどう曲解したらそんな答えになるんだ!?」 端から見れば押し倒されていて実際押し倒されているような状況でも逐一突っ込んでやる僕はどれだけ律儀者なのだろう。こいつどく気ないな。 「欲求不満ではないのか?」 「ちゃんと覚えてんじゃねえか!」 問題はあっさりと詳らかになった。というか疑問がはっきりと明らかになったのだ。それは決して納得のいく答えではなかったのだけれど。 ジレンマ。 「欲求不満、なのかな、僕は」 「戦場ヶ原先輩と上手くいっていない、なんて話は聞かないようだが」 神原は急に真面目な顔になって言った。 「ああ、本当にそんなことなんてないよ。上手くいっていないなんてことはない。戦場ヶ原も僕も、別に何も変わってはいない。昨日も戦場ヶ原先輩の家で勉強会だったしな。僕たちの関係は良好だ。万事上手くいっていると言っていい」 「ほう、それは何よりだ。阿良々木先輩と戦場ヶ原先輩が末永く仲睦まじくよろしくやっていくことが、私の最大の願いだからな」 「そっか、ありがとう」 「で」 ぐっと、顔が近づく。 「キスの先は?」 「う……」 日ごろ馬鹿なことばかり言っていても、神原の頭は悪くないのだ。 心当たりの中でも最悪の部類を突いてきた。 キス。接吻。口づけ。親愛の込められた挨拶としても用いられることもあるが、日本ではそういった習慣は定着していないし、僕も文化的な面では平均的日本人なので、恋人かそれ以上の関係を持った相手と行う愛情表現だと認識している行為。それを初めて経験したのは、忘れ得ぬ六月十三日の夜。満点の星の下で僕は生まれて初めてできた恋人である戦場ヶ原ひたぎと生まれて初めてキスをしたのだった。 そしてそれはそれきりで。 そしてなぜか、今、僕は夢の中で、ラブホテルで、戦場ヶ原の後輩である神原に押し倒されている。 なんだろう。 すごく頭の悪そうな内容の夢だ。 「ふむ、やはりな」 「見透かされた! 後輩に僕の恋愛事情を見透かされた!」 「いや、何、戦場ヶ原先輩はツンデレだからな。その筋ではクーデレという一説もあるが、キャラの類型なんて大雑把なものだから、複合型と見るのが現実的だろうな」 「分からなくはないけど」 その筋ってどの筋だ。 「飴と鞭で表すなら飴玉一つにつき鞭打ち百くらいの比率だからな。そんなヴェルターズオリジナル級の甘々な行為は幾ら阿良々木先輩が特別な存在であるとはいえ、戦場ヶ原先輩もそう簡単にはしないだろう」 「そんなに上手いこと言えてないと思うよ」 「……それに、高校に上がってからの戦場ヶ原先輩は、あらゆる意味でガードが堅くなったようだしな」 「まあ、それはな。不思議でも何でもない。当然と言っていいことだと思うよ。だからこそ、僕はいつまでだって待てるつもりでいる」 戦場ヶ原は僕に待っていてほしいと言った。何とかするから、待っていてと。元々余り人を頼ろうとしない性格だけれど、そればかりは本当に戦場ヶ原が何とかするしかない問題なのだ。 それが、問題だ。お互いにそうしたい気持ちがあるのに過去が原因で恋人関係が進展できないジレンマが、欲求不満に繋がるのはまだいいと思う。実際我慢することができても、欲求があってそれが満たされなければ何かに捌け口を求めてしまうのは仕方がないことだ。 それが妙な妄想という形を取るのだったらまだ可愛いものだろうし。 それが夢だったらもう不可抗力である。世の中には思い通りの夢を見る方法もあるらしいが、大概の夢は自分ではどうすることもできないものだ。 だからといって。 そう、そのままにありのままに、望んだことを欲しいものを夢に見ればよかったものを。 要するに夢に出てきたのが戦場ヶ原でさえあれば、この次会ったときに多少決まりが悪くなるだけで済んだのだ。何と言っても僕は戦場ヶ原ひたぎの恋人なのだから。仮にそれが戦場ヶ原の知るところとなったとしても、他人にそんな妄念を抱かれていると知ったときよりは嫌がられたりしないだろう。 たぶん。 当然暴言や毒舌は覚悟すべきだろうが。そんなもの日常茶飯事というか暴言や毒舌のない戦場ヶ原なんてエロでも百合でもない神原のようなものだ。あるいは、冷夏のようなものだと言えよう。暑いのには堪えるが暑くないのも寂しいし色々困るという点で同じである。 もちろん、プレッシャーにはなりたくないから、知られないのが一番なのだが。 でも、僕が夢に見ているのは、戦場ヶ原ではなかった。 僕の無意識が選択したのは、神原なのだ。 大問題だろう。 「……ああ、それで。なるほど」 「勝手に一人で納得するな」 うんうんと頷いた神原は、突然腕の力を抜いた。当然ながら僕の身体に全体重をを乗せる格好になる。 「か、神原!」 声が裏返る。 「腕が疲れてしまった」 「そういう問題じゃねえ!」 神原をどかそうとして、肩に手をかける。どいてもらわなくては困る。重たいわけではない。神原は背が高い方ではないし、鍛えてはいるが体重も軽い方だ。困るのは、いまだかつて触れたことすらない(小学生を勘定に入れるのは僕のちっぽけなプライドが許さない)女性の極めて柔らかな部位――最近それに触るどころか六十秒間揉みしだける貴重な機会があったのだが、友情を優先させたために棒に振った――つまり胸、乳房が僕の吸血鬼化の副産物であるそれなりに筋肉のついた胸板にそれはもうむぎゅっと押しつけられているからだ。 しかし手をかけた途端、 「んっ、ぁ…っんっ」 神原の口からそれが神原の口から出たとは到底信じがたい声音が漏れた。 しかも、僕に体重を預けた神原の口は丁度僕の耳元にあったのだ。 ぞわっ。 「ひっ……!」 思わず手を離す。 「人の耳元で変な声を出すな!」 僕の肩に手をあてがって顔を上げる神原。 「私がくすぐったがりなのは知っているはずだ」 「知ってるよ! 忘れてました! 僕が悪かったです!」 「そう怒らないでほしい。阿良々木先輩。本当はちょっと嬉しいのだろう?」 僕にできることは口をへの字にしてそっぽを向くことだけだった。ただそれだけだった。 無力だった。 「ご機嫌斜めだな。胸でも揉んでみるか?」 「その発想はなかった。ていうかこの先もねえよ」 何かまた見透かされたような気分で悔しい。 「……で、何が分かったんだよ」 「ん? ああ、つまりな、阿良々木先輩は欲求不満で今いやらしい夢を見ている。しかしその夢に出てきたのは戦場ヶ原先輩ではなく私だ。それというのは、阿良々木先輩が優しいからなのだと気づいてな。いやはや、感服するばかりだ」 「僕は当惑するばかりだよ!」 「そんなことはあるまい……阿良々木先輩も気づいているのだろう? 阿良々木先輩は戦場ヶ原先輩に負担をかけるようなことは例え夢の中でもしたくないほど優しいのだ。優しい人だとは思っていたがよもや無意識の裡までとはな。阿良々木先輩は本当に心の底から優しいのだな」 「だからって代わりに彼女の後輩に迫られる夢にしちゃう優しさは嫌だ!」 そうなのだ。 そのとおりなのだ。きっと神原の言うとおりなのだ。戦場ヶ原が僕を失うのが怖いと言ってくれたように、僕も戦場ヶ原を失うのが怖い。とても怖い。 だから。 でも。 それは僕の都合でもある。それは決して僕が優しいからではない。最大限好意的に見てもただの自己満足だ。戦場ヶ原とはできないから代わりに神原とだなんて、幾ら夢の中でもそんな、滑り止めの学校に入学するみたいな真似は御免だ。 僕の本命は戦場ヶ原であって。戦場ヶ原以外はありえない。 誰かが誰かの代わりになることなんてできない。 果たして僕の上には神原が乗っかっている。夢にしては異常なまでにリアルな重みで。これは、何か、現実に眠っている僕の身体の上に何か重たいものが乗っかっているために感じている逆夢なのかもしれないが、精神的重圧とも考えられる。 もしかしたら僕は戦場ヶ原を失いたくない、傷つけたくない以上に、穢したくないとも思っているのかもしれない。同時にどれほど戦場ヶ原を求めているとしても、数えるくらいしか触ったことのない戦場ヶ原の身体に触れることを、本当は、僕は、恐れているのかもしれない。詰まるところ、僕は戦場ヶ原が好きなのだ。 どうしようもなく好きだから、触れられなくて、結局、好きなのに触れられない。 矛盾だ。 そして歪んでいる。 その歪んだ、優しさにも似た相反する感情の混沌の結果がこれだ。 「……ごめん」 呟いた途端、全てが消えた。 天井は何でも許してくれそうな神原の微笑の余韻を残して元の僕の部屋の天井に戻り、身体にかかる重みは蒲団のそれだけに変わった。 僕は呆気にとられて目をしばたかせた。 「マジで夢かよ……」 夢でよかった。 でも。 最低の悪夢だった。 夢の内容で落ち込むなんてそうあることではないし、そもそも夢の内容なんて気にしたことがない僕がこんなに凹むのだから、相当にリアルな悪夢だった。神原の体重や胸に押しつけられた柔らかい感触がまだ感じられるようだった。別にそれくらいだったら嬉しい事故くらいに思えたのだが。神原のことは好きだし、常にスキンシップ過剰な奴だから、夢の中でそうであっても不思議ではない。 ただ。 背景が。 原因が。 それが神原である理由が底知れぬ深みに僕を突き落とした。 「はあ……」 目が冴えてしまい、まだ早朝の薄明かりの中を起き上がる。 戦場ヶ原にも神原にも合わせる顔がない。 穴があったら入りたい。そして埋めてもらいたい。 最低だ。 あんな夢見では、自分の身体の自然な生理現象すら罪悪に思えてしまう。哺乳動物の雄性たるこの肉体が恨めしい。 植物になりたい。 「最低だ……」 あと数時間もすれば戦場ヶ原に会わなければならない。凄く会いたいけれど、気が重い。神原にだって会うかもしれない。 どちらも避けがたいし避けたくはないが、とても気まずい。 救いは具体的な行為に及ぶ前に目が覚めたということか。コントロール可能な夢の中で状況に流されてしまったら、それはもう想像もつかないくらいの自己嫌悪に苛まれていたことだろう。 いずれにせよどんな自己嫌悪も後悔も、結局それは夢の中のことで、誰に責められる謂われもないことではあったのだが。 |
09/10/02(F)
09/10/19(L)